「シンちゃん、今日いそがしいかなァ」
と、ツマが言った。こういうことをツマ・文子が言うときは、たいがい面白い企画を思いついた時だから、私は、
「大丈夫いそがしくない」と必ず言う。
ヒマじゃなくても、企画に乗っちゃったほうが断然面白い。
「シンちゃん、今いそがしいかなァ?」
と、|おつかい《ヽヽヽヽ》に出ていたツマから電話があった。もう一〇年くらい前のことだ。その時直感が働いて、私は三〇分後の〆切の仕事をパタリとやめた。
「え? 大丈夫、いそがしくない」
「じゃあねえ、今すぐ階下《した》に来てくれる? 隣のビルの入口ンとこにいる」
私は、すぐにルス電にして、カギをかけて階下に降り、隣のビルの入口まで走っていった。
「今ねェ、ものすごくデッカイ虹が出てる。コッチの方角だから、ここんちの屋上に上ろう!!」
という提案だった。ワレワレは何喰わぬ顔で、そこんちの関係者を装って、エレベーターで屋上の階までいった。
屋上階は小規模のゴルフの打ちっぱなし練習場みたいになっていて、屋上へ出るにはその受付の前を抜けないといけない。我々は、そこを姿勢を低くして切り抜けた。
屋上に出てみると、すんばらしき! パノラマだった。びっくりするほど、広々と広がった東京湾が見えていて、そこに、雄大なスケールの虹がかかっている。
まるで……夢に見ているような景色だ。
と思った。ツマもそう思ってるらしくて黙って見ている。
「これはキミ」と私は言った。
「すんばらしい企画じゃないか?!」
「でしょ?」と、やっと言って、自慢そうだ。
それからだ。私はツマの突然の企画には無条件で乗ることにした。
その日の企画は、餃子だった。新橋のオフィス街のビルの地下に、水餃子が自慢のお店があるらしい。土曜日もやっている。地図で場所も確認した。
「まず、何をおいても水餃子を」食べろとメニューにあるから、ビールとその水餃子を発注して、それを平らげた。ウマカッタ。
それから色々、大根の酢漬や、トーミョーの炒めものや、腸詰やを次々に発注して次々ウマカッタ。満足した。
「いい企画だったな」と言って、我々はそこを出た。新橋のオフィス街の、ビルの地下である。同じフロアにはあと五軒の食べ物屋が入っているが、ことごとく休みである。休みだが、フロアにはウソみたいにコウコウと蛍光灯が点いている。
不思議な店だ。狸がやってる店かもしれない。とか話しながら、腹ごなしにブラついていると、愛宕神社入口、と看板の出た坂道が目についた。
愛宕山、といえば昔NHKの放送局のあったところと、名前だけは知っているけれども、来たのは初めてだ。
人っ子一人いない、その山道めく坂を登っていくと、ここがまた、狐か狸に化かされそうな雰囲気が充満している。ダラダラ坂を、いくらも登らないうちに、頂上らしいところに着いた。
目の前に、東京タワーの、上半分くらいのところが、スコブル真近に見えているのだが、あんまり細部がくっきりしていて妙に現実感がない。
「まるで……」と、二人同時に思ったらしい。東京タワーみやげののガラスの置物の中に入ってしまったような気分である。
少年雑誌の口絵にあった「昔の未来図」みたいな高層マンションが二棟見える。
ライトアップされて、炭がおこったみたいに輝いて見えている東京タワーの細部が、なんだか見知らぬ塔に見えて不思議である。そして近景は、黒々と江戸時代みたいな木立である。
愛宕神社の境内に今いる人間は、我々二人だけだ。山頂だというのに滝の流れ落ちるような水音がずっとしていて、そこを目指していくと、不似合いに大きな和船を浮かべた小さな池があった。
「なんだか、夢のような……」
「景色だよね」と二人で言い合った。ひょっとすると先刻ウマイウマイ、といって水餃子を食べてたあの時点から、既に狸に化かされてたのかもしれない。
「待てよ……」と私は言った。ここが愛宕神社なのだとしたら、石段があるはずだ。東京で一番落差のある、昔から絵にされてきた絶景のポイントである。トツゼン、
「わっ!!」
と、ツマが叫んだ。ものすごい急な階段がそこからいきなり始まっていたのだ。常識はずれにどこまでも続いていくその階段の先の方は闇にのみ込まれていくようだ。
先刻登ってきた道を、引き返すことだってできるのに、我々は引き込まれるように、その石段を降り出してしまっていた。
階段恐怖症のツマは、すっかり黙りこくって手すりにしがみつくようにして、一段ずつ足探りに降りていく。その歩調にあわせていると、まるで階段がこの先無限に続いているようだ。
「この階段、狸が化けてんじゃねえの?」と軽口を言っても、ツマは一言も返答しない。ひたすら足で探るように降りていく。空が真っ黒だ。
どのくらい経ったろう、「ああ……」やっと着いたとツマが言った。振りむくと、ものすごい階段だった。
「いい企画だったよ、なかなか」と私が言った、ヘヘヘとツマは笑っている。