タクシーに乗りながら、何となく運転手さんと雑談をしていた。
「お休みの日は何をしているんですか」
私が聞くと、三十代後半の運転手さんの声が突然生き生きし始めた。
「そりゃァもう、ドライブだよ」
のけぞったのは私の方である。
「あのォ、お休みの日にわざわざハンドル握るんですか」
「ハンドルったってアンタ、仕事で握ってるハンドルじゃないからサ」
「そりゃそうですね。じゃあマイカーはジープとか、何か面白いワゴンとかですか」
「イヤ、セドリック」
「セド……って……このタクシーもセドリックじゃなかったかしら」
「そだよ」
「仕事も趣味も同じ車で、気分転換になります?」
「なるよ。だって仕事で走ってんじゃねえもん」
「あ、そうですね。そう。どこか遠出するんですか?」
「遠出はしない。東名なんか混んだら悲惨だからよォ、近場《ちかば》をドライブするのが一番好きなんだ、俺」
「は……近場」
「そだよ。赤坂とかよォ、神宮の方とかよォ、いいよなァ。これからは落ち葉なんかもきれいだし」
「あのォ、今、この車も赤坂の方に走ってますよねえ」
「そだよ」
「車も同じで、道も同じじゃやっぱり気分転換にならないんじゃないかしら。それに赤坂や神宮のあたりだって混むことは同じだし」
「お客さんもわかんない人だね。仕事じゃねえから違うって言ってんでしょ。違うの、全然」
そう言われて突然、ずっと以前に読んだ新聞のコラムを思い出した。ニュースキャスターの田丸美寿々さんがとても面白い文を書かれていたのである。
手もとにそのコラムの切り抜きがないので記憶をたどると、田丸さんの気分転換はマイクを握って司会をすることだという。友達や仕事仲間が集まってパーティなどをやると、必ず彼女がマイクを握って、
「では次にご登場願いますのは……」
と司会をしているという。彼女は「何も仕事を離れたらマイクなど握らなくても……」とご自分の気分転換法を苦笑しながら、歌手の細川たかしさんのことにも触れていた。
細川さんの気分転換はカラオケだという。私は雑誌でも読んだことがあるのだが、細川さんは仕事で歌った後、「気分転換のために」とカラオケパブに行き、マイクを離さずに歌いまくるとか。
運転手さんと話をしながら、田丸さんと細川さんのことを思い出し、それなら私の気分転換は何だろうと考えてみた。考えてみて、タクシーの座席で私は苦笑した。
私の気分転換は「手紙を書くこと」なのである。
それも目上の方へのものとか、お世話になった方へのお礼状などではなく、ごく親しい友達に宛てる手紙。早い話が要件など何もない。私は電話が億劫《おつくう》なタチで、電話より手紙の方がずっと気が楽で気分転換になる。その上、その手紙はいつも使っている二百字詰の原稿用紙に書くのが一番好き。目上の人には失礼になるが、友達なら許される。
私の二百字詰原稿用紙というのは、オレンジ色の罫《けい》で、「MAKIKO」と左隅に小さく名前が入っていて、これが結構気に入っている。考えてみると、私はいつでもどこでも暇さえあれば、このお気に入りの原稿用紙で手紙を書いている。あの揺れる新幹線の中でも平気で書く。たとえば、
「今、新幹線で三島近くを走っているんだけど、私、急にアータに腹が立ってきたわけよ。この前サァ、アータ、私に言ったでしょ。あれって見当違いもハナハダしいと思うんだよね」
このノリである。こんなものは電話一本ですむし、何もわざわざ新幹線の中で書くこともないのである。ところが書いている。相手とおしゃべりしている気分で、時には十枚くらいびっしりと書く。そして……書いた手紙の大半は出さないのである。書いたことで気分転換になって、出すのはどうでもいい。ひどい時は書きながら「この手紙、きっと出さないな」と思っている。それでもどんどん手が動く。
端《はた》から見れば、タクシードライバーのドライブも、キャスターの司会も、歌手のカラオケも不思議な気分転換法である。脚本家がいつも使っている原稿用紙で手紙を書くというのも妙だと思う。それでも確かに運転手さんが言うように「仕事じゃねえからどっか違う」のである。
何が違うんだろうと思って、ハタと気づいた。同じことをやっていても「気分転換」の方は何も「めざしていない」から楽しいのだと。同じ原稿用紙に書いても、脚本や企画書だと当然めざす「志」がある。これが「仕事」というものかもしれない。運転手さんにしても窓外の景色を見ながら走る赤坂と、客を乗せてひたすらめざす赤坂では全然違うのだろう。重さが違うのだろう。
タクシーを降りて、女友達の待つレストランに着くと、先に来ていた彼女は夢中で小型のファミコンゲームをやっている。私に気づくと嬉しそうに言った。
「気分転換にいいのよ、これ」
彼女の本職は、コンピューターソフトのシステムエンジニアである。