私は今、非常に無口になっている。無口にならざるを得ない状況に置かれており、どうしようもないのである。
実はパリにおり、これもパリのホテルで書いている。フランス語は「ヴァン・ブロン(白ワイン)」しか知らないので、無口にならざるを得ないという悲しさ。
私のプレスマネジメントをやってくれている進藤万里子は、村上弘明さんや仲村トオルさんの専属スタイリスト。私とは中学の同級生である。彼女は長いことパリに住み、パリで仕事をしていたので、フランス語はペラペラである。私の今回のパリ行きに関しても、彼女が何から何まで世話してくれた。
ところが、彼女は思いもかけぬことまで世話してくれたのである。私が日本を発つ直前に、彼女は言った。
「牧チャン、パリでフランス語の個人レッスン受けた方がいいわ。優秀な女子大生に話をつけておいたから、さぼらないでレッスンしてね」
私は内心、焦った。フランス語は大学時代もやらず、ABCすらわからない。一か月程度の滞在で会話ができるようになるはずもない。が、これもチャンスだし、何ごとにも軽さが必要だとばかり、私は軽やかにその申し出を受けたのである。
が、これは甘かった。フランス語の難しいことと言ったらお話にならない。その上、先生のアストリッド嬢は日本語が全然できない。彼女は英語で私にフランス語を教えるのである。正直言って、とんでもないことになってしまったと思った。
それでもパリに着いた翌日から、私はアストリッドのアパルトマンに通った。定期券を買ってメトロを乗り継ぎ、我ながら涙ぐましい勉学心である。
というのも、フランス人はフランス語を話せる人間には態度がコロリと変わることを到着初日から認識してしまったせいである。万里子も仕事があって、私と一緒にパリに来たのだが、ホテルでもカフェでも画廊でも、私と万里子に対するフランス人の態度が全然違うのである。
たとえばホテル。私の泊まっているホテルは十八世紀の建物で、「古きよきパリ」の匂《にお》いがする小さなところである。入口にはレセプションがあって、無愛想なムッシューが座っている。いささかバカにしたような目で、最初は私と万里子を見ていた。ところが万里子が囁《ささや》くように美しいフランス語を話すと知るや、コロリと態度が変わった。万里子にばかりか私にまで、ニッコリして、
「オヤスミナサイ」
などと言ったりする。私は心の中で「最初から愛想よくしろッ!」と毒づくのだが、日本語でなら啖呵《たんか》もきれるがフランス語は「ヴァン・ブロン」オンリーである。煮えたぎる思いを隠して、こっちもニコニコと、
「ハイ、オヤスミナサイ」
などという口惜しさ。私はアストリッドにしっかりとフランス語を習おうと、この時、心に誓ったのである。
アストリッドはモンパルナスのシックなアパルトマンに住み、弁護士をめざしている。大学の法科の学生で、美しい上に知的な二十二歳であった。
窓からはモンパルナスの街が見え、柔らかい四月の雨に煙っている。「何だか映画を観ているみたいだなァ」と私は窓辺でうっとりしていたのだが、
「ではレッスンを始めます」
というアストリッドの声で、神妙に机についた。彼女は英語で言った。
「フランス人の子供が初めて英語を学ぶ時に使う絵本で勉強しましょう。マダム・マキコ、いいですね?」
私はもうひとつ知っているフランス語で神妙に答える。
「ウイ」
絵本を開いて情けなくなった。幼児用のレッスン書なのでほとんどが絵である。文字といえば、
「これは何ですか?」
「これは本です」
などと書いてある。「マダム」と呼ばれる年齢になってから「これは本です」をやろうとは思いもしなかった。
ところが情けないのは絵本ではなく私自身である。「LIVRE(本)」というフランス語が難しくて発音できない。カタカナで書けば「リーブル」だが、「RE」が絶対に「ル」には聞こえない。のどの奥から出てくるような音にならぬ音なのである。日本人はみんな「R」の発音に泣くと聞いてはいたが、何とも不思議な、妙な音である。当然、「LOUVRE」も「ルーブル」などと言っても、フランスでは全然通じない。
「これは犬です」、「これはドアです」、「これは靴です」とたどたどしく口に出しながら、私は心の中で「犬か猫か見りゃわかるでしょッ」と思うのだが、生徒たるもの、そういう態度では上達しない。私は幼児のように「これは犬です」と繰り返した。
アストリッドは教え方がうまい上に、生徒の気持をはかることも上手で、私のうんざりを察すると、サッと今度は私を質問者の側に回す。
「これは何ですか? と言ってみましょう。ハイ、Qu'est《ケ》 ce《ス》 que《ク》 c'est?《セ》」
私は「そういえば東京に『ケスクセ』というバーがあったな」などと思っているのだから、上達も何もあったものではない。
そして私は明日、アストリッドの実家に泊まりに行く。フランス語しかできない人たちの中に単身乗り込むのかと思うだけで、武者震いがくる。