パリに来て二十日間になったが、どうも日本で聞いていたのと違うなァ……と思うことが少しずつ出てきた。
どれもこれも天下国家を揺るがすレベルの話ではなく、小さなことなのだが、どうも違う。たとえばマナーに関しても、日本で語られているのとは違うのである。
先日、サンジェルマンのレストランでトイレに入ったら、日本人の女たちがトイレの出入口に一列に並んでいた。それも出入りの邪魔にならぬように、壁に沿って静かに立っていた。
日本では今、デパートでも劇場でもこの並び方が非常に多い。トイレの個室のドア前に並ぶことは、少なくとも私の住む東京ではあまりない。個々のドア前に並ぶと、運不運があり、後から入ってきた人の方が早く順番がきたりするからである。出入口の壁に沿って並び、前から順にあいた個室に入る。これは実に効率がよく、運不運を呪《のろ》うこともなくいらだちがない。「日本人は何でも効率だ」という人もあろうが、トイレの順番は効率がいい方がいいに決まっている。つべこべ言われる筋あいはない。
この並び方が普及しはじめた時、私はフランス人女性が雑誌でコメントしたのを覚えている。彼女は日本で長く暮している人であった。
「日本人のマナーもこれでパリと同じになります。とてもいいことですね。昔からパリではトイレでは一列に並んでますよ」
私はこのコメントを読んだ時、結構恥じた。確かにパリ風に並べば、運不運を呪って目が三角にならずにすむだけ、エレガントである。やっぱりエレガンスを大切にする国は違うなァと私は感心し、そのフランス人女性の誇らし気な表情も納得できると思った。
ところが、いざ私がパリに来てみると、そんな並び方をしている女たちを見たことがない。私が行かないような超高級レストランにはいるのかもしれないが、国民のマナーというのは大衆レベルではかるはずであり、雑誌のフランス人女性は、パリの一般人を自慢していたと記憶している。
で、先のレストランで日本人ギャルたちは整然と並んでいた。そこにパリジェンヌが二人入ってきた。彼女たちは、日本人ギャルを無視して個室の前に立ち、サッサと入っていく。日本人ギャルがあっ気にとられていると、今度は三人だか四人の、フランス人中年婦人が入ってきた。彼女たちは個室の前にも並ばない。隣りあった個室の中間にウジャウジャと立ち、先にあいた方に突進する。まったくもって無法地帯である。日本人ギャルの一人が、「並んでちゃいつまでも入れないわね」と言い、ワァッとドア前に突進した。まったく「悪貨は良貨を駆逐する」とはよく言ったものである。
この話をパリ生活十年という日本人女性にしたら、彼女は首をかしげた。
「雑誌のコメントがおかしいわ。パリの人たちには元々『並ぶ』なんていう意識はないのよ。何をするのでもまず自分のことしか考えてないもの。それはもう徹底してるわよ。雑誌にコメントを寄せたフランス人女性は、日本で暮して、日本人がキチンとしているから恥しくなって、ウソを言ったのかもね」
そして先日、一週間ばかりイタリア各地を回ってきたのだが、ここでも日本に伝えられているマナーとの差を見つけた。
今、日本のイタリア料理店でスパゲティを頼むと、多くの場合はフォークと大きなスプーンが出てくる。このスプーンが普及しはじめた時、色んな雑誌に書かれていたものである。
「イタリア人はスパゲティを、大きなスプーンの上でクルクルとフォークに巻きつけて食べます。日本人はウドンやソバを食べる時も、スパゲティを食べる時も、同じように口にくわえますが悪いマナーです。一口分をフォークに巻きつけ、下に落ちないようにスプーンでカバーする。これが本場のマナーです」
ところが、ローマでも、フィレンツェでも、ミラノでも、ベニスでも、スプーンが出てきたことは一度もない。大衆的な食堂でも、五ツ星の超一流レストランでも一度たりともスプーンは出てこなかった。どの店でも陽気なイタリア人たちは男も女も大口をあけてスパゲティをくわえている。どう考えても、ウソの情報が日本に定着したとしか思えない。
そして、イタリアから再びパリに戻ってきた夜、私は日本料理店で夕食を食べた。その時、何気なく見るとパリジェンヌ四人が、味噌汁《みそしる》を飲んでいた。驚いたことに、四人ともスプーンで一口ずつ飲んでいる。ご丁寧に汁椀《しるわん》を向こう側に傾けて、洋風スープを飲むのと全く同じマナーである。日本人ウェイターがちょっと「本場のマナー」を教えてあげればいいのに、誰も何も言わない。美しい金髪娘たちは、ワカメをスプーンにすくいあげるのに必死である。何しろワカメは長いし、ヌルヌルしているし、やっとすくいあげても、口に持っていく前にポチャンと再び汁の中に落ちたりして、見ていても気の毒であった。
最近は、どこの国の和食店でも外国人がとても上手に、日本人と同じマナーで食べているから、彼女たちは特殊なのかもしれない。しかし、若い彼女たちの読むような最先端の雑誌で、もしかしたら、
「本場のマナーは味噌汁をスプーンで一口ずつ飲む。今までのマナーは違う」
と書いたのかもしれない。世界中のあらゆることに関する情報は実に多いが、どうも鵜呑《うの》みにしてはいけない気がしてならぬ。