私と私の友人たちの最近のキーワードは、「よかれと思って」である。
私の自宅の小さな庭に、池を造ることにした。自宅は海のすぐそばだ。もちろん川も田んぼも目の前で、春には蛙の大合唱が起こる。去年の春は魚アミでざりがにやおたまじゃくしを捕まえた。そこへお巡りさんが自転車で通りかかり、いい大人が川の中でざぶざぶやってるのを見て声をかけてきた。
「なーに捕ってんのかね」
「ざりがにとおたまー。ほらほらー」
「あー、ほんとだわー」
そんなところだから、池があるといいぞう、といつも思ってたのだ。ただでさえ庭に放っぽり出してある古い水槽にはしょっちゅう青蛙が泳いでいる。今は水槽の中にいるウーパールーパーを放したら、逃げちゃうかなあ。でも亀って手もあるぞと、池のイメージはどんどん広がっていくのでありました。
ところが池をこしらえてくれる業者と話していると、どうも、聞きもしないのに、当然「錦鯉」を飼うもの、と思っているらしいの。それも私はシンプルな池にしたいのに、話はどんどん別の世界へ。最後には、
「水の注ぎ口ですけど、ライオンの口から水が出るというやつでこれくらいのご予算……」
どひーっ、ライオンの口!
さすがに、
「ライオンの口なんてつけないよー」
と家の人たちと大笑いしたが、「よかれと思って」言ってくれている業者のほうは、何故私たちが笑っているのかわからないのであった。結局私たちは何度も何度もその人たちと話をして、やっとこさで自分ちの庭がローマ風呂になるのを防いだのだ。しかし、まだ掘っている最中なので油断は出来ない。よそ見をしてると、よかれと思ってビーナス像などをセメントでくっつけたりされるかもしれないのだ。そんなことをされたら観念して家の中にも虎の敷物や鹿の首やシャンデリアを置いてしまうしかないではないか。
あー困った。
よかれと思って、私のことを、
「マルチですね」
と言ってくれる人がいる。私はこのマルチという言葉を聞くとヘナヘナと体中の力が抜けてしまうのよ。わざわざ人が嫌がることを面と向かって、それも微笑みながら言う人はいないだろうし、言ってる人は当然私が喜ぶと思ってるわけよね。きっとその人自身だって、
「あなたってマルチですね」
と言われれば嬉しいのだろう。私は今度から、
「マルチですね」
と言われたら、微笑みながら、
「いいええ、○○さんこそマルチではありませんかー」
と言ってあげることにしよう。
「何をおっしゃる、本当にウチダさんこそマルチですよ」
「いいえー、マルチでは○○さんにとてもかないません」
何回くらい繰り返せば気づいてくれんでしょうか。高見山がCMやってるふとん綿か、私は。
もうひとつ、しつこいようだが「エッセイスト」がわかんない。私は「漫画家、歌手」、ふたつ言う時間がないときには「漫画家」だけを肩書にしているが、そこへ何故か「エッセイスト」という六文字が挿入されていることがある。この「エッセイスト」って、これ実は前にも書いたんだけど、どういう職業なんですかあ? 何言ってんだよおめえ、今自分で書いてんのがエッセイだろと言われるかもしんないが、エッセイを書くってことと、エッセイストってのになるってのは違うぞっ。そんじゃ漫画描いたことある人は全部漫画家かよう。だいいち、自分で「私はエッセイストをやっています」と言ったこともない私が、なんでエッセイストと呼ばれるのでしょ。答えは最近わかった。たぶん世の中では、漫画家よりもエッセイスト、というか文字書く人、の方が身分が高いらしいのよん。だから、どうも「ウチダさんはエッセイも書いててエライね、よしよし」と。だから、逆に活字関係者が漫画を描いても「漫画家」の三文字が勝手に肩書に侵入することはあんましない、のであろうと。なるほど、これで御祝儀のように「エッセイスト」とそーっと入れてあるナゾが解けたわ。でもまあ、エッセイの仕事でもお金貰ってるんだし、別にいいけどさ。これも「よかれと思って」入れてある六文字なのね。
しかし、それは別にしても「エッセイスト」という商売はナゾだ。勝手に言われてるにしろ、どうにかして「エッセイスト」という職業を把握したい、と思った私は、「エッセイ、随筆」を辞書で引いてみたのでやんす。すると、「筆の赴くままに書くこと」と出ていたのでごじゃるよ。それじゃあまるで自動書記。私はヴィージャ盤か。それともこっくりさんかしら、とほほ。
こっちが何も言わないうちから、どんどん先まわりして過剰サービスをしてくれる人の多いこの国で、「よかれと思って」の奥は深い。あるイベントで倉本聰さん、五代利矢子さんらとも話したが、あの冷蔵庫や電子ジャーやポットの花柄だってそうだい。少し前まで、なんでもかんでも真っ黒にしやがってと怒るおとうさんもいたが、あんなへんちくりんな花柄がついてるくらいなら私は真っ黒の洗濯機のほうが好きだあ。
「なーに捕ってんのかね」
「ざりがにとおたまー。ほらほらー」
「あー、ほんとだわー」
そんなところだから、池があるといいぞう、といつも思ってたのだ。ただでさえ庭に放っぽり出してある古い水槽にはしょっちゅう青蛙が泳いでいる。今は水槽の中にいるウーパールーパーを放したら、逃げちゃうかなあ。でも亀って手もあるぞと、池のイメージはどんどん広がっていくのでありました。
ところが池をこしらえてくれる業者と話していると、どうも、聞きもしないのに、当然「錦鯉」を飼うもの、と思っているらしいの。それも私はシンプルな池にしたいのに、話はどんどん別の世界へ。最後には、
「水の注ぎ口ですけど、ライオンの口から水が出るというやつでこれくらいのご予算……」
どひーっ、ライオンの口!
さすがに、
「ライオンの口なんてつけないよー」
と家の人たちと大笑いしたが、「よかれと思って」言ってくれている業者のほうは、何故私たちが笑っているのかわからないのであった。結局私たちは何度も何度もその人たちと話をして、やっとこさで自分ちの庭がローマ風呂になるのを防いだのだ。しかし、まだ掘っている最中なので油断は出来ない。よそ見をしてると、よかれと思ってビーナス像などをセメントでくっつけたりされるかもしれないのだ。そんなことをされたら観念して家の中にも虎の敷物や鹿の首やシャンデリアを置いてしまうしかないではないか。
あー困った。
よかれと思って、私のことを、
「マルチですね」
と言ってくれる人がいる。私はこのマルチという言葉を聞くとヘナヘナと体中の力が抜けてしまうのよ。わざわざ人が嫌がることを面と向かって、それも微笑みながら言う人はいないだろうし、言ってる人は当然私が喜ぶと思ってるわけよね。きっとその人自身だって、
「あなたってマルチですね」
と言われれば嬉しいのだろう。私は今度から、
「マルチですね」
と言われたら、微笑みながら、
「いいええ、○○さんこそマルチではありませんかー」
と言ってあげることにしよう。
「何をおっしゃる、本当にウチダさんこそマルチですよ」
「いいえー、マルチでは○○さんにとてもかないません」
何回くらい繰り返せば気づいてくれんでしょうか。高見山がCMやってるふとん綿か、私は。
もうひとつ、しつこいようだが「エッセイスト」がわかんない。私は「漫画家、歌手」、ふたつ言う時間がないときには「漫画家」だけを肩書にしているが、そこへ何故か「エッセイスト」という六文字が挿入されていることがある。この「エッセイスト」って、これ実は前にも書いたんだけど、どういう職業なんですかあ? 何言ってんだよおめえ、今自分で書いてんのがエッセイだろと言われるかもしんないが、エッセイを書くってことと、エッセイストってのになるってのは違うぞっ。そんじゃ漫画描いたことある人は全部漫画家かよう。だいいち、自分で「私はエッセイストをやっています」と言ったこともない私が、なんでエッセイストと呼ばれるのでしょ。答えは最近わかった。たぶん世の中では、漫画家よりもエッセイスト、というか文字書く人、の方が身分が高いらしいのよん。だから、どうも「ウチダさんはエッセイも書いててエライね、よしよし」と。だから、逆に活字関係者が漫画を描いても「漫画家」の三文字が勝手に肩書に侵入することはあんましない、のであろうと。なるほど、これで御祝儀のように「エッセイスト」とそーっと入れてあるナゾが解けたわ。でもまあ、エッセイの仕事でもお金貰ってるんだし、別にいいけどさ。これも「よかれと思って」入れてある六文字なのね。
しかし、それは別にしても「エッセイスト」という商売はナゾだ。勝手に言われてるにしろ、どうにかして「エッセイスト」という職業を把握したい、と思った私は、「エッセイ、随筆」を辞書で引いてみたのでやんす。すると、「筆の赴くままに書くこと」と出ていたのでごじゃるよ。それじゃあまるで自動書記。私はヴィージャ盤か。それともこっくりさんかしら、とほほ。
こっちが何も言わないうちから、どんどん先まわりして過剰サービスをしてくれる人の多いこの国で、「よかれと思って」の奥は深い。あるイベントで倉本聰さん、五代利矢子さんらとも話したが、あの冷蔵庫や電子ジャーやポットの花柄だってそうだい。少し前まで、なんでもかんでも真っ黒にしやがってと怒るおとうさんもいたが、あんなへんちくりんな花柄がついてるくらいなら私は真っ黒の洗濯機のほうが好きだあ。
そんなわけで、私と私の友人たちはなにかというと「よかれと思って」と指摘している。ちなみに、こないだまでのキーワードは、
「どの口で言った、この口か?」
であった。
「どの口で言った、この口か?」
であった。