私がまだ長崎にいたころ、歌手兼ホステスをしていた店に、ワタナベさんという人がお客さんで来た。東京の人だというワタナベさんは、メガネをかけたまじめそうな人で、建築関係の仕事らしかった。
「私、ちょうど上京しようと思ってたところなんですよー」
と話すと、
「僕にできることだったら、力になってあげよう」
と言ってくれた。私は、東京には知り合いが一人いるだけだったので、大喜びでご好意に甘えることにした。
しばらくして、私は貯金を持って上京し、まず住まいを捜すことにした。ワタナベさんが不動産屋を紹介してくれたので、そこへ行ってみると、担当者の女性はとても親切で、昼食をごちそうしてくれたり、住まい以外のことまでいろいろ相談にのってくれて、うれしかった。
その日ワタナベさんは、御徒町のタカラホテルの部屋をとってくれた。私は、東京でたった一人の知り合いのうちに泊めてもらうつもりだったが、
「それじゃあ連絡が取りにくいし、どうなったのかが心配だよ。ホテル代くらいおごるから」
と気まえよく、二日分のホテル代を出してくれたのだった。
それからワタナベさんは、私に新宿のクラブにつとめるホステスさんを紹介してくれた。私はその人と同じクラブへ、歌手兼ホステスとしてつとめることになった。住まいと仕事が決まり、これで一安心。私は親切なワタナベさんと知り合えたことを心から感謝し、一所懸命働いて、いつかきっとご恩返ししようと考えた。
そのとき少しだけ気になったのは、夜、電話をかけてきたワタナベさんが、
「電車がなくなっちゃったんで君のホテルの部屋に泊めてくんないかな」
と言ったことだったが、結局ワタナベさんは来なかったし、まあ、ちょっと言ってみただけなのだろうと思うことにした。
それから約一カ月。東京への引っ越しも無事終わり、電話もついた。ワタナベさんにその旨を報告すると、
「そうか、じゃあそのうち遊びに行かなくちゃなあ」
と言うので、
「ええ、来て下さいよ」
と答えた。
そのあたりまで何も問題はなかったのだが、ひとつだけ困ったことが起きた。紹介してもらったクラブが、あまり良い店ではなかったのだ。だらしない従業員なども多かった。私は、慰安旅行にも参加し、積極的になじもうとしたが、うまくいかない。店長だけは私を可愛がってくれたが、だんだん店がいやになってきた(そういえば去年、そこのバーテンの一人が、その慰安旅行のときの写真を、内田春菊のホステス時代の写真だといって写真週刊誌に売っちゃったの。頭にきたわ)。
しかし、水商売にはそういうことはよくある。合わなきゃ、店を替わればいい。でもワタナベさんにどう話そう、などと思っていたある夜、店のロッカーに入れておいたハンドバッグの中から、お金を盗まれてしまった。いやな気分で家へ帰り、
「もう、あの店は辞めよう」
と一人で考えていると、運悪くそんなときにワタナベさんから「遊びに行きたい」と電話。真夜中だし、とてもお客を迎える気にはなれない。紹介してもらった店のこともあるので、私はとっさに、
「今夜は彼が来てるの」
と嘘をついた。そんなのまだできてなかったんだけど、これが一番簡単だろうと思ったのだ。ところが、それを聞いたワタナベさんは、なんと、怒りだしてしまったのだった。
「なんだと! お前はなんてえ女だ!!」
などと東京弁で怒鳴っているのだ。私は驚いたが、少ししてワタナベさんの言い分に気づき、黙って電話を切った。なぜか彼は、手も握ったことのない私を、不動産屋とクラブを紹介し、ホテルの宿泊料を二日分払っただけで、すっかり「囲った」気になっていたようなのだ。私も彼を「親切な人」だと思っていたし、まあお互い勘ちがいしていたわけなんです。