新宿で、ある和食屋にはいった。「いらっしゃいませ、お茶のほうどうぞ」とお茶が出た。「ご注文のほうどうぞ」と聞きにきた。「こちらのほうお待たせいたしました」と料理が来た。だんだん気になって耳につく。ほかの客にも「カウンターのほうご利用くださいませ」「こちらのほう(テーブル)どうぞ」。
「カウンターをご利用くださいませ」や「こちらへどうぞ」では不安でしょうがないらしい。ついには、隅のソファでテーブルのあくのを待っていた客に「こちらのほうお待たせいたしました」と言っている。この時の「こちらのほう」は「こちらのかた」のかわりなのかしら。その一組しか待ってはいなかったのだから、「お客様お待たせいたしました」とか、ただ「お待たせいたしました」と言ったほうがよっぽど感じいいのに。もうすでに「のほう病」にかかってしまっている彼女は、「のほう」で言葉を長くしてリズムを取らないとしゃべれないようなのだった。
私はふと、昔やっていた『家族そろって歌合戦』という番組を思い出した。獅子てんや、瀬戸わんやの司会で、一般の人々が家族で歌を競い合う番組だ。その中で、どっちの人だったか忘れたが、家族を入場させるとき必ず、「あたいのほうからくまさんチームどうぞ!」と言っていた。「のほう病」ウェイトレスもあれを見ていたのかもしれない、なんてね。
しかし、カウンターには彼女も勝てない客がいた。おしぼりでスキンヘッドをふきながらとんかつを食べていたそのおじさんは、とんかつに取り残された茶わん半分のご飯を、なぜかみそ汁のおわんに移して蓋《ふた》をしてしまったの。そしてなんとご飯をおかわりし、今度はそれにたっぷりとしょうゆをかけて食っちゃったんだぜ! 私はおわんに移されたご飯の運命が気になってしょうがなかったが、おじさんはそれを顧みるそぶりも見せず、シーハと楊枝《ようじ》をくわえて帰ってしまいましたとさ。