十日間の休暇が明日一日で切れるという日の朝、雄一郎は東京へ着いた。
ここでの目的は伊東栄吉に会うためだった。
伊東栄吉というのは、嘗《か》つての姉の恋人である。はる子はいまでも伊東が好きらしいのだが、その伊東からはこのところしばらく、何の音沙汰《おとさた》もなかった。
彼は、はる子と同じ小学校の幼な友達だった。高等小学校を卒業して鉄道へ入り、雄一郎と同様、塩谷駅の駅手見習からスタートして、倶知安《くつちやん》駅、小樽《おたる》駅と転勤し、たまたま北海道へ来ていた鉄道省の尾形政務次官にその人柄を認められて、現在、鉄道の大学ともいわれる東鉄教習所で勉強していた。
以前、彼が小樽駅に勤めていた頃、はる子と時々|逢《あ》っていたのを雄一郎も知っている。
伊東はいよいよ東京へ出発するということが決まると、思い切って、はる子に結婚を申し込んだが、それは、はる子が断った。理由は、病身の母とまだ一人前でない雄一郎、千枝を抱え、彼女が一家の支えとして働かなければならなかったからだ。
「君が結婚できる状態になるまで、ぼくはいつまでも待っているよ……」
そう言いのこして伊東は去った。
それから五年の歳月が流れた。
はじめのうち、伊東からはる子の許へ、頻繁に手紙が寄越された。が、いつの頃からか、それもばったり途だえてしまった。
はる子は思い切って上京したが、運の悪いことに、母のしのの病気が悪化して、とうとう伊東には逢えずじまいで帰らなくてはならなかった。
はる子の結婚のことは、歿くなった母もいつも気にかけていたことだったし、雄一郎も千枝もいつも心配していた。
雄一郎は、今度の旅行の途中伊東を訪ねて、彼の本当の気持を確かめるつもりであった。
東京駅に降り立った雄一郎は、すぐ、伊東の勤務している新橋運輸事務所へ電話をした。ところが、伊東は今日、休んでいるという。
止むなく、雄一郎は伊東が寄宿している神田駿河台《かんだするがだい》の尾形邸へむかった。
尾形清隆の屋敷は、すぐに分かった。
石塀のある思ったよりはるかに立派な邸宅だった。
案内を請うと、女中風の若い女が出てきて、一旦《いつたん》引っ込んだが、すぐに戻ってきて、
「どうぞこちらへ……」
鄭重《ていちよう》な物腰で、雄一郎を伊東の部屋にあてられているらしい別棟へ案内した。
その様子から、伊東がこの尾形邸で、かなり大切にあつかわれているらしいことがわかった。
六畳の和室はきちんと片づけられていて、机の上には花が飾ってある。座布団も花模様の派手なものだし、置き棚には、手造りらしい人形がおいてある。
それらに、雄一郎はこの部屋に始終出入りする、若い娘の影を感じた。
しばらくすると、和服姿の伊東が入ってきた。
「やあ、やっぱり君だったのか……」
伊東はとても懐しそうだった。雄一郎はほっとした。
「いつ、上京したんだ……」
「今朝です……十日間ばかり休暇がとれたので、両親の骨を紀州へおさめに行って来ました。その帰りなんです」
「そうか……、南部の親父さん変りないか」
「相変らずですよ」
南部の親父さんというのは、現手宮駅長、南部斉五郎のことである。雄一郎の初恋の女性、三千代の祖父だ。
誰をつかまえても「この大飯くい!」と怒鳴るのが珠《たま》に瑕《きず》だが、それをのぞけば、部下にとってはまるで慈父のように懐しい存在だった。伊東も南部駅長には、随分世話になった者の一人だった。
「新平|爺《じい》さんは……?」
「やっぱり、線路の神さまですよ、新平爺さんがいる限り札小《さつしよう》線に事故は起るまいって、みんな言っています」
新平爺さん。岡本新平は一介の線路工夫にすぎない。彼は夏でも冬でも、一年中線路を見回って歩く。彼の鋭い眼は、一本の犬釘《いぬくぎ》のゆるみをも見逃さない。
五年程前、塩谷《しおや》駅付近で雪崩のため線路が破壊され、あわや大事故になるのを防いだのも彼だった。
新平爺さんは、まるで雪だるまのようになって塩谷駅にかけ込み、当時の駅長、南部斉五郎に報告した。南部は直ちにそのことを電信で蘭島《らんしま》駅その他に連絡したのだった。
このことは、それまで機関手にだけあこがれていた雄一郎の眼を覚まさした。
汽車というものは機関手だけでは動かない。みんなが力を合せてこそ、はじめて機関車は動くのだ、ということに雄一郎はようやく気がついた。
「そうそう、新平爺さんの息子が機関庫にいますよ、目下見習中です」
「ほう……」
伊東は雄一郎のする故郷の話に、むさぼるように耳を傾けた。
廊下で人の足音がした。
「伊東さん……入ってもよろしい?」
若い女の声である。
「はあ、どうぞ……」
伊東が応《こた》えると、障子が開いて、紅茶茶碗《こうちやぢやわん》をのせた盆を持った娘の顔がのぞいた。
「いらっしゃいませ」
雄一郎に愛想のよい笑いを浮かべた。
「やあ、わざわざ恐縮です」
伊東が坐り直して言った。
「お茶なら、お千代さんに持たせてくれればよかったのに……」
「ええ、でも、伊東さんの大事なお客様のようだったから……」
娘は伊東の傍へ坐ると、改めて雄一郎に一礼した。
着物も帯もかなり高価なものを着ている。
「尾形さんのお嬢さんの和子さんだ……」
早口に言い、和子にも、
「同郷の室伏雄一郎君です」
と紹介した。
「室伏さんとおっしゃると……」
和子がちょっと思い出すような眼をした。
「いつか、此処へおいでになった方の弟さん……?」
「姉が……お会いしたんですか」
はる子はそんな事を一言も言わなかったが、もし会ったとすれば、この前、伊東に逢うため上京した時だろう。
「ええ……」
和子は、はにかんだように笑って、
「あの時は……ちょうど、伊東さんが大阪へ出張なさっていたんですの、ですから……」
ちらと、伊東を見あげた。
「うん、そうでした……」
伊東が、ふっと眼を伏せた。
和子が居る時の伊東の態度には、雄一郎への気がねからか、彼女が恩人の娘だからか、なんとなくぎこちなさが目立つ。
伊東が黙りこくっているので、雄一郎もつい言葉のきっかけを失って、黙りこんでしまった。
そんな部屋の空気を感じたのか、
「じゃ、ごゆっくり……」
和子もようやく腰をあげた。
伊東は何を考えているのか、和子が去ってしまっても、いつまでも黙然と紅茶を啜《すす》っていた。
(あの娘と伊東との関係はいったい何んなのだろう、ただの、恩人の娘と下宿人というだけだろうか……)
雄一郎は不安になった。
「伊東さん……、伊東さんはもう小樽へは帰らんのですか」
「いや、帰るつもりだったんだが……なかなか帰れないことになってしまってね」
「小樽では、伊東さんが、こちらの尾形さんに気に入られて、このまま中央に残られるのだともっぱら噂《うわさ》をしているんですよ」
「…………」
伊東は曖昧《あいまい》な笑いを口元に浮かべただけだった。
雄一郎は、思い切って伊東にきり込んだ。
「実は……きょう伺ったのは姉のことなんです。僕が紀州の帰りに東京で伊東さんと会うことを、姉は知りません。従って、これから僕が言うことは、姉の意志というよりは姉の気持を推しはかって、僕が余計なお節介をやきに来たと考えていただければと思います……」
雄一郎は伊東から眼をそらさなかった。
「第一にうかがいたいのは、伊東さんは姉をどう思って居られるのか……つまり、姉と結婚する意志がおありなのかどうかということなんです」
「雄一郎君……」
伊東が当惑したような眼をむけた。
「姉は……僕のみる所、伊東さんを好いているようです……少くとも、僕にはそう思えるのです」
「はる子さんが……?」
伊東は、意外だという表情をした。
「はる子さんが、ぼくと結婚する意志がある……本当かね雄一郎君……」
「意志がなければ、一人で東京へ、伊東さんを訪ねては来んでしょう」
「そうか、はる子さんが、俺《おれ》を……」
だが、伊東の眼に灯がともったのはほんの一瞬で、たちまちそれは苦悩の表情へと変っていった。
「そうだったのか……」
深い溜息《ためいき》をついて、また黙りこんでしまった。
「これは、伊東さんも御存知だと思いますが、僕の家は父の死後、ずっと姉が一家の柱でした。母は病身だったし、どっちかというと、その母でさえもが姉を頼りにしきっているふうで……、経済的にも、気持の上でも、姉が一家を背負って来たようなものなんです。そのために、姉は婚期を逸しかけています……いくつかあった縁談を、姉はふりむきもしなかったし、実際、姉が嫁に行ける状態でもなかったんです……しかし、今は違います、僕もどうやら一人前に働いているし、妹も近頃、南部駅長さんのお計らいで小樽駅の売店で働かしてもらっています。家の状態も、金持ではないが、姉を嫁がせるくらいの余裕はあります……」
「雄一郎君……」
「どうでしょうか、姉をもらって下さいませんか」
雄一郎は必死だった。姉を想う気持が全身から迸《ほとばし》るようだった。
「…………」
伊東は答えない。
「それとも、伊東さんにその意志がないといわれるんでしょうか」
「…………」
憮然《ぶぜん》としたその表情からは、彼が何を考えているのか推しはかるすべもなかった。
「伊東さん……」
不意に障子が開いて、和子が今度は緑茶に菓子をそえて持って来た。
「お話中、お邪魔してごめんなさい、私の作ったビスケットなんですのよ、いかがかしら……」
雄一郎に菓子をすすめると、伊東に小声で、
「あの……お父さまが、ちょっと来てくださいって……」
と囁《ささや》いた。
「はあ……」
伊東が立ちあがった。
「室伏君、ちょっと失敬する……」
伊東が出て行くと、和子もそのあとを追って行った。
雄一郎は、あらためて部屋の中を眺めまわした。
書棚には、雄一郎が見たこともないような専門書や文学の本などがぎっしり積まれている。机の上には、読みさしの分厚い洋書が置いてあった。
(伊東さんは勉強しているなあ……)
雄一郎は、恵まれた伊東の境遇をうらやむと同時に、彼と姉とのあいだの隔たりがますます大きくなるような気がして、心配になった。
天気が変ってきたのか、風が窓を鳴らしている。
せかせかとした足音が廊下でした。
「雄一郎君、すまないが、公用ですぐ出かけなけりゃいかんことになった……」
伊東が、さも残念そうに言った。
「さっきの話、あらためてゆっくり話し合いたいんだが……君、休暇はいつまでなんだ」
「明日、一日です」
「すると……?」
「夕方の列車に乗る予定なんです……六時二十分上野発です……」
「よし、それだったら、五時三十分に上野の待合室で逢おう……都合はどうかな」
「結構です、五時三十分、上野駅の待合室ですね」
「うん」
和子がやって来た。
「伊東さん、車が来ているんです、お父さまがお急ぎよ」
「今、行きます……」
伊東は上着のボタンを嵌《は》めながら返事をした。
「じゃあ……」
雄一郎に片手をあげて、あたふたと出て行った。
「僕もこれでおいとまします」
雄一郎も帽子を持って立ちあがった。
「そうですか……」
和子は雄一郎の視線をはずした。
「なんのお構いも致しませんで……」
「お邪魔しました」
「お帰りになりましたら、お姉さまによろしく……」
眼を伏せたまま言った。