上野駅の待合室で、午後五時三十分、会おうと言った伊東栄吉は遂に来なかった。
列車が動きだし、雄一郎は心残りと腹立たしさで、遠ざかって行く東京の灯をみつめた。
雄一郎は、東京で伊東に逢ったことは姉は勿論、妹の千枝にも話さなかった。
尾鷲で、伯父夫婦に無理矢理、見合をさせられた話をすると、
「折角伯父さんがお世話してくださったのに、もっと真面目にやらなくては駄目でないの……」
はる子は、まるで自分が見合に失敗したように残念がった。
十日間の休暇が終ると、雄一郎には、又、鉄道員としての忙しい明けくれが戻ってきた。
朝の八時に出勤すると、翌朝の八時まで、びっしり二十四時間の勤務である。
そして——。
宿直室の窓に、雪のちらつく夜が次第に多くなって行った。
北海道に、今年も又、冬将軍の訪れる季節が来たのである。
南部駅長の孫娘、三千代の結婚式は明治節の日に東京で行なわれ、小樽からは、祖母の節子が上京し、出席したという噂《うわさ》が雄一郎の耳にも風のたよりに伝わって来た。
三千代の結婚の話を、雄一郎は自分でも意外なくらい平静で聞けた。
諦めというのではなく、今の雄一郎にとって、三千代は遥《はる》か遠い存在であり、彼女への初恋も、もはや過去の出来事になってしまっていた。
そんな或る日、千枝が一通の封書を持ってやって来た。
「兄ちゃん、オワシの伯父さんからだよ」
「馬鹿だな、尾鷲と書いてオワセと読むんだ」
手紙は、昔気質の伯父らしく、巻紙に毛筆で認めてあった。
「伯父さんから、何んと言って来なすったの……」
炊事場に居たはる子もとんで来て、手紙をのぞき込んだ。
「まあ……中里さんが小樽へ来なさるんじゃないの」
はる子が思わず声をあげた。
「姉ちゃん、中里さんて誰アれ?」
「ほら、このあいだ雄ちゃんがお見合した……」
「ああ、あの人……」
が、千枝は首をかしげた。
「だって、あの縁談、駄目だったって言ってたじゃないの。なんで、それなのに小樽へ来るのよ」
「先様で、もう一度雄ちゃんと会ってみたいっておっしゃるんだって……」
「じゃ、そのお嬢さん、余っ程、兄ちゃんに惚《ほ》れちゃったんだね」
千枝の眼が好奇心で輝きを増してきた。
「振られても振られても、離れないなんて……まるでスッポンみたいなお嬢さんだね」
「馬鹿……」
「えへ……、兄ちゃん、ぐっといい男ぶっちゃってる……」
「馬鹿……」
千枝は亀の子のように首をすくめると、ペロリと舌を出した。
「この浦辺さんていうかたは?」
「ああ、尾鷲の村会議員とかいっていた。もともと網元の家でね、同業だから伯父さんとも親しいし……中里さんとも商売かなにかで関係があるらしい……。村会議員なんてのは、そんな世話ばかりやいて歩いてるもんじゃないのかい。中里さんが小樽へ来るっていうの、おそらく、その人あたりのお膳立てだよ」
「そうかしら……、でも、やっぱり向うさんが雄ちゃんを気に入ったからじゃないの、そうでもなけりゃ、わざわざ北海道くんだりまで出向いていらっしゃるかしら……」
「どうせ、暇だから、北海道でも見物してやろうっていうのか、浦辺さんの顔を立てなきゃならない義理があるんじゃないのかな……」
「あんなこと言って、内心、うれしくってわくわくしているくせに……」
千枝が悪戯《いたずら》っぽい眼をして言った。
「馬鹿……」
「ほうれ、赤くなった……」
「こらッ」
雄一郎が撲《なぐ》る真似をして腰を浮かすと、千枝はまるくなって土間へ逃げた。
「止めなさい、雄ちゃん……、千枝も……」
しかし、はる子は手紙のことが気になってならないらしかった。
「近いうちにって書いてあるけれど、もし、年内にいらっしゃるんだったら、雄ちゃん、着物と羽織新調しとかんと……」
「いいよ、そんなの……」
雄一郎は面倒くさそうに言った。
「そうはいかないわ……、それにこの家、もう少しなんとかせんとね……」
「こんなボロ家見たら、兄ちゃんの縁談あかんようになるかのう」
千枝が不安そうな声を出した。
「うるさいな、家だの着物だの、どうだっていいだろう……とにかく、俺は絶対に結婚なんかしないよ……真ッ平ごめんだ……」
雄一郎は肩をそびやかした。
雄一郎の気持は複雑だった。
見合の相手の中里弘子には、別にどうという感情もなかったが、彼女の妹の有里を想うとき、心にほのかな揺めきが湧《わ》いた。
なにを馬鹿な、と自分で自分を叱《しか》りつけながら、雄一郎は、あの竹林での、あまりに鮮烈な有里の印象を忘れかねた。
しかし、そんなこととは知らないはる子は、弟の縁談にすっかり夢中になっていた。
人一倍気の回るはる子は、その晩、手宮《てみや》の南部斉五郎の官舎を訪ね、伯父からの手紙を見せて相談した。
「まとまるものなら、なんとしても纏《まと》めてやりたいと思うのですが、なにしろ、こんなこと生れてはじめてなもんですから……」
はる子は正直に自分の気持を打ちあけた。
「ふーん、しかし、それでわざわざ、小樽まで出てくるというのは解せんなあ……」
話を聞き終ると、南部は首をひねった。
「雄一郎は、この浦辺というお方に、中里さんが何か義理があって、それで一応|恰好《かつこう》をつける意味で北海道まで出向いてくるのだと申すんですけれど……」
「或はそうかも知れん……」
まるい顎《あご》を撫《な》でながら、天井を見上げた。
「でも、その弘子さんてかたが、お見合のとき気のり薄に見えたっていうの、雄一郎さんの誤解だったんじゃありませんか。女ってものは、お見合の時なんぞに、なかなか本当の気持を表に見せないものですよ。まして深窓育ちのお方でしたらねえ……」
南部の妻の節子が、そばから口をはさんだ。
「そうか、女ってのは嘘《うそ》つきだからな……」
「いいえ、慎しみ深いからですよ、第一、はじめてのお見合なら、恥かしくって、顔も上げられないものですわ」
「なにを言っとる。見合の席で洋食ぱくぱく食いやがって、テーブルのかげで帯をゆるめてやがったの、どこのどいつだ……」
「あら、知ってらしったんですか」
「当り前さ、伊達《だて》や粋狂で見合したわけじゃないわい」
二人のやりとりを、はる子は半ば羨《うらや》ましいと思いながら眺めていた。
南部駅長の坐っている場所に、伊東栄吉が坐り、南部夫人の所に自分が居たら……。
(ああ、そんなことは考えないことだ……私には、まだまだそんなことは許されない。結婚することだけが女の仕合せではないのだ……)
はる子はいそいで、妄想《もうそう》を振りはらった。
「失礼だけど、御器量は……?」
節子がこちらを向いて何か言っていた。
「は……?」
「そのかた、お綺麗《きれい》なの?」
「雄一郎は、美人だって申しましたけれど……」
「あいつに女の器量なんぞわかるものか。女ならみんな美人に見える年頃だ……。とにかく、その人が来たら、わしが一遍会ってみよう。顔を見りゃ、大抵《たいてい》のことは見当がつく。これでも無駄には年はとっとらんつもりじゃよ」
「お願い致します」
はる子は両手をついた。
「それと……はなはだ勝手なお願いなんですけど、駅長さんがご覧になって、もし、よいお嬢さんだったら、なんとしても雄一郎のところへ来て頂けるよう、駅長さんからお口添え願いたいのですけれど……」
「いいとも、及ばずながら尽力しよう」
南部は大きく顎を引いた。
「有難うございます……なんですか、雄一郎の話を聞いたときからこっちがわくわくしてしまって、仕事もろくに手がつきませんの。これでほっとしました」
はる子はあらためて礼を述べて、座を立った。
南部は玄関先まで見送って来たが、ふっと声をひそめて、
「はる子さん、あんた雄一郎君の縁談に夢中になるのはいいが、あんた自身のことも考えにゃいかんよ」
と言った。
「この次来るときは、あんた自身のことで相談に来なさい。尾鷲《おわせ》にゃ、生憎知りあいもないが、東京にはいくらでも居る……、もしあんたの相手が東京に居る人間なら、たぶん、なんか役に立てると思うでな……」
はる子は思わず南部の顔を見た。
(駅長さんは、栄吉さんのことを……)
恥らいが、はる子の頬《ほお》を赤くした。
「じゃ、おやすみ、気をつけてな……」
南部の微笑に送られて、はる子は門を出た。
外に出たとたん、何か冷めたいものが頬に当った。朝からの曇り空が、とうとう雪を降らせはじめたのだろう。
しかし、はる子の胸には、南部斉五郎の慈父のような言葉の数々が染みていて、まるで春の陽《ひ》を浴びてきたように暖かかった。