伊東栄吉が尾形政務次官の娘と結婚するかもしれないという噂《うわさ》を、雄一郎は姉にも妹にも話さなかった。
その日、彼は南部駅長に呼ばれて、駅長室に行った。駅長の顔を見たとたん、雄一郎は、
(これは何かめんどうなことだな……)
と思った。案の定、話は伊東栄吉とはる子のことで、
「はる子さんの恋人は伊東栄吉だと聞いた記憶があるが、間違いないか?」
と尋ねられた。
「はあ……恋人というのかどうかはよく分らんのですが、伊東さんが東京へ行くとき姉に求婚したらしいんです」
「なんでその時、OKしなかったんじゃ」
「はあ、姉が嫁に行けるような家の状態じゃなかったんだと思います……」
「うむ、しかし、拒絶したわけでもないんだろう?」
「姉の気持からすると、いい加減な返事をしたとは思えません。ずるずる待ってくれなどと言える姉じゃないんです……。しかし、伊東さんからは其の後も手紙が来たり、姉にパラソルを送って来たりしていました」
「今も、ちょいちょい手紙が来るのか」
「いや……、ここんとこ来んのです」
「お前、この間、紀州の帰りに東京へ寄ったな、あれは伊東と逢《あ》うためか」
「はあ……」
「逢えたのか」
「はあ……」
「姉さんの話はしたか」
「しました……、しかし、結論が出なかったんです……、実は、もっともっと立ち入った話をするために、上野駅で待ち合せすることにしたんですが……、来ませんでした」
「すると、なにか……、伊東からその後、そのことについての釈明の手紙でも来たのか?」
「来ません」
「ふむ……」
南部は眉根《まゆね》に皺《しわ》をつくって、考え込んだ。
「駅長、なぜそんなことを訊《き》かれるんです」
「うむ……」
南部は机の上の手紙を取った。
「お前の姉さんと伊東のことで、ちょっと東京の親しくしている者に照会してみたんじゃ、尾形君に、それとなく尋ねてみてくれっちゅうてな」
「なんと言ってきましたか」
「尾形君には娘が一人居るのを知っているか」
「はあ、一遍お目にかかりました。伊東さんを訪ねたとき、お茶を運んでくれました」
「そうか……、その娘を尾形君は伊東と妻《めあ》わせるつもりでいるらしい……」
「尾形さんの娘さんが伊東さんと結婚するんですか」
「もっとも、この話を伊東栄吉がどう思っとるかは、知らんが……」
「…………」
「まあ、まだたんなる噂ていどの段階じゃ、姉さんをあんまりくよくよさせんように気をつけてやるんだな……」
しかし、雄一郎が考えても、この情報は真実性があった。
尾形邸を訪れたときの、伊東栄吉の部屋の様子といい、和子という令嬢の馴《な》れ馴《な》れしい振舞いといい、どれも、南部駅長の言葉を裏づけるに充分だった。
伊東栄吉の将来からいっても、鉄道省の要職にある尾形の娘との結婚は、輝やかしい未来につながっている。又、長年、世話になっている恩人の要請であれば、伊東としても断りにくいだろうことは、雄一郎にも、容易に想像できた。
そして、それらの想像を更に決定的づけるのは、伊東栄吉がとうとう上野駅に現れなかったという事実であった。
雄一郎は姉の顔を見るのが辛《つら》くなった。
はる子は、弟の縁談に夢中になっている。
尾鷲《おわせ》の伯父からは、今月中に弘子と、彼女の母がたぶんそちらへ行くという手紙が届いていた。
(そうなれば、いそいで障子の張りかえもしたいし、お客用の布団も、もう一組作らなければ……)
はる子の頭と体は、めまぐるしく回転をはじめた。
「馬鹿だねえ、姉ちゃん、中里さんってのは尾鷲で一番の金持なんでしょう。そんな家の人たちが、こんな荒家《あばらや》へ泊ると思う? 小樽《おたる》にいくらだって宿屋があるっていうに……」
千枝に嗤《わら》われても、
「そりゃア、そうだけれど、もしもってこともあるし……、それに、宿屋さんじゃいろいろと御不便だろうと思ってね。荒家だって心をこめておもてなしすれば、きっとわかって下さると思うのよ」
と、取り合わなかった。
その、はる子の耳にもう一つ、ちょっと気になることがとび込んできた。
千枝の勤める、小樽駅の売店で一緒に働いている小母さんが、家へ立ち寄ったついでに話して行ったことなのだが、
「この頃、どうも変な男が千枝ちゃんに惚《ほ》れて通ってくるらしいんだよ、余っ程の甘党らしくて、毎日アンパン買ってくんだけど、なにしろ千枝ちゃんだって嫁入り前の娘だもんねえ……」
声をひそめて報告した。
「なんでも、手宮駅機関区にいる機関手だとか言ってたけど……」
はる子は、その夜、千枝に小母さんの話の真偽を問い糺《ただ》した。
「うん、その人だったら毎日アンパン買いに来たんだけれど……ここんとこずうっと来んのよ」
千枝はちょっと複雑な表情をした。
「飽きたんだろう、アンパンが……」
雄一郎は先日の仕返しに、千枝をからかった。
「今度は蕎麦屋《そばや》に日参しとるのと違うか……」
「そうかな……」
千枝が急に肩をおとして、しょんぼりとした。
「なんだ、やけにしゅんとしとるじゃないか。アンパン売れなくなって、がっかりか……」
「アンパンに飽きたのなら、仕方ないけど……あたいに飽きたんじゃったら、癪《しやく》じゃもん……」
「お前に……?」
はる子と雄一郎は思わず顔を見合せた。
「だって、売店の小母さん言うとったんよ、あの人、千枝に気があってアンパン買いに来よるんじゃって……」
「千枝……その人いったいどこの人、なんて名前……?」
はる子の声が思わずうわずった。
「さあ、知らん……」
千枝はけろりとした顔をしている。
「そいつ、機関手だといったな」
雄一郎も真剣になった。
「うん……、手宮の機関区に居るんじゃと……」
「雄ちゃん、手宮の機関区ならすぐ近くでしょう」
「ああ……」
「知っている人、居ないの?」
「いるよ、いくらだって……」
雄一郎は知っている人間の顔を思い浮かべた。
「そうだ、岡本新平|爺《じい》さんの伜《せがれ》もあそこに居るんだ」
「ああ、何度も試験に落ちてばっかりいる人ね」
はる子は意味ありげに笑った。
保線の神様とまでいわれる岡本新平爺さんの息子が、何度試験を受けても落っこちて、万年|釜《かま》たき見習と呼ばれていることは、この辺の鉄道関係者のあいだでは評判だった。
「そうそう、いつか雄ちゃんが札幌《さつぽろ》で酔っぱらった時、送って来てくれたわね」
はる子の言うのは、雄一郎が三千代に失恋した帰りに、はじめてやけ酒を飲んだ時のことである。
「いっぺん、その人に訊《き》いてみてよ、千枝の売店へ来る人のこと……」
「なんで訊くの?」
千枝が不安そうな眼をした。
「だって、心配じゃもん。いい人ならいいけれど……」
「いい人だよ」
「それにしても、どうして名前くらい聞いておかなんだの、千枝……」
「こっちから聞くの損じゃからね」
「どうして損なの」
「知らんの、姉ちゃん……」
呆れたといった顔つきをした。
「先にいろいろきいた方が相手に気があると思われるもん……安くふまれて損なんじゃ」
「千枝、あんた、そんなこといったい誰に聞いたの」
「聞かんでも、そのくらいのこと知っとる」
千枝は首を縮めて、くすりと笑った。
その日の昼休み、雄一郎は姉の言付け通り、手宮の機関区へ出かけて行った。
手宮駅から機関区までは、駈《か》け足でほんの五分の距離である。
機関車が何台も入っている機関庫で岡本良平の名前を言うと、
「ああ、万年釜たき見習か、あいつ油灯の掃除しとるわ」
一番隅の機関車の所だと教えてくれた。
良平は顔から手足まで煤《すす》で真黒になって、油灯の掃除をしていた。
雄一郎が声をかけると、
「おお、あんたか……」
そこだけが異様に白い歯を見せて笑った。
「凄《すご》い煤だな、洗い落とすの大変だろう」
と感心すると、
「ああ、毛穴に煤がもぐっとるからね、洗っても落ちん。眼のふちと耳ん中が落せるようになったら一人前じゃと……」
他人事のように答えた。
「なにか用事かね」
「いや、ちょっとききたいことがあってね……、この機関区の機関手で、アンパン好きな奴がいるかい」
「アンパンね……」
良平は眉《まゆ》をしかめた。
「俺もよく食うが……」
「いや、釜たきじゃなくて機関手なんだよ」
「機関手ねえ……みんな食うだろ、アンパンくらい」
「特別、好きらしいんだなそいつが。毎日昼飯がわりに食ってるらしい……」
「へえ……」
「ここの機関庫に機関手は何人くらい居るかな」
「そりゃ、沢山いるよ……名前わからんのかい」
「わからん」
「年齢《とし》とか、顔は?」
「まあ、当人を連れて来て見せれば判るんだろうがな」
「当人?」
「うん、妹なんだ」
「あんたんとこ、妹も居るのかい」
「姉と妹と三人きょうだいだ」
「そりゃいいのう……」
良平は羨《うらや》ましそうな顔をした。
「うちは親一人、子一人じゃ」
「お袋さんは?」
「もう居らん」
「それじゃ、飯たきや洗濯は誰がするんだ」
「学校出てからは俺がやっとる」
道理で、いつか機関庫で洗濯している手際がいいと思った。
「だけど君、アンパン食う男、なんで尋ねとるんじゃ」
「いや、ちょっとね……」
雄一郎は言葉をにごした。
「いずれ妹を連れてくる、そのときは頼むよ」
「ああ、俺もなるべく聞いてみておいてやるよ」
良平と別れて、雄一郎は、道々千枝とはる子のことを考えていた。
(同じ姉妹だというのに、どうしてああも違うんじゃろう……なにもかんも、みんな正反対じゃ)
雄一郎は、二人を足して二で割れば、女として一番仕合せになれるのではないだろうかと、ふっと思った。