中里有里を乗せた列車が小樽へ到着する時刻は、有里の手紙によると、四月十八日午後六時五十分の予定だった。
この列車は急行列車であるため、塩谷駅は通過である。有里は小樽駅で下車するはずになっていた。
小樽の駅には、はる子と千枝が雄一郎の代りに出迎えに行き、塩谷駅では、雄一郎が時計の針を眺めながら、なんとも落着かない時をすごしていた。
その塩谷駅には、小樽から関根重彦が予備助役として来ていた。
関根重彦は帝大法科出身の秀才で、年齢は雄一郎と幾つも違わないが、東京の教習所を出ると、いきなり北海道で助役見習として勤務することになった。
普通、雄一郎のような高等小学校出が判任官の助役になるためには二十年くらいかかるのが珍しくなかったから、関根は異例の出世である。
しかも、二、三年助役や駅長として現場の修業を終ると、大概管理局へ入り、将来は鉄道省の役人というのがお定りのコースだったし、彼の母方の伯父が鉄道省の尾形政務次官というに及んでは、最早や、眼をつぶっていても出世コースを歩むこと間違いなしという男だった。
それだけに、現場で十年二十年たってもまだ駅手などという連中には関根の存在は面白い筈《はず》がなく、なにかにつけて反感を抱く。関根もまた、そういう連中を無視すると同時に、現場の経験に乏しいから、蔭で関根のことを良く言うものは余り無かった。
その彼が、どういう風の吹き回しからか、雄一郎とはよく馬があって、よく判らないことがあると尋ねるし、悩みなども打ち明けてきた。
雄一郎は、他の者たちのように関根を色眼鏡では見なかったし、多少お坊っちゃん育ちで我儘《わがまま》な所があるが、人は極くいいので、割合親しいつき合いをしていた。
有里のやってくるという日、雄一郎はあいにく当直だった。
「おい、どうしたんだ、馬鹿に落着かんじゃないか」
関根に肩を叩《たた》かれて、雄一郎は頭をかいた。
「関根さん、まだ居たんですか、もうとっくに帰られたのかと思った……」
「いや、勤務は終ったんだが、今夜の下りで女房の両親がやってくるんでね、小樽へ出迎えようと思ってその時間待ちさ」
「そうですか、そりゃあ偶然だなあ……」
雄一郎は眼を瞠った。
「偶然……?」
「実は、僕の知人もその列車に乗ってるんです」
「知人……?」
関根は急ににやにやした。
「そうか、判ったぞ、噂《うわさ》に聞く恋人がいよいよやってくるんだな、道理で間の抜けた顔をしてると思った……」
「間の抜けた顔とはひどいなあ」
関根と雄一郎は声を出して笑った。
「よし、ついでにその恋人の所へ行って、挨拶《あいさつ》してこよう」
「向うには姉と妹が行っています」
「ああそうか、姉さんの方ならよく知ってるよ、すごい美人だものなあ……」
関根は冗談を言いながら帰って行った。
雄一郎は時計を見た。
午後六時である。もうそろそろ、有里を乗せた列車が小樽駅に到着する。雄一郎は何の間違いもなく、有里が小樽に着いてくれることを神に祈った。
子供のころから、父を失い、母に先立たれ、苦労な目に逢いつづけてきただけに、有里だけは、またあの意地悪い悪魔の手に奪われてはならないというのが、雄一郎の正直な気持だった。
もし誰かが雄一郎に、逆立ちをしたままホームを一周して来い、そうすれば有里の安全は保障してやるといえば、恐らく彼は直ちにそうしただろう。
小樽駅へ午後六時五十分に到着とすれば、次の普通を待合せるとして、塩谷駅へは有里は遅くとも八時には着かなくてはならない。
ところが、どうしたことか、有里はその当然乗っていなければならないはずの普通列車から降りてこなかった。無論、はる子と千枝の姿もない。
(おかしいなア……青森で打った電報にも、たしかに午後六時五十分小樽到着の列車に乗ったとあったんだがなあ……)
雄一郎は、すぐ事務室へとって返して、どこかで事故が発生していないかを調べた。青函《せいかん》連絡船にも、函館本線の列車にも事故は発生していなかった。
(どうしたんだろう……)
やがて、有里を迎えに行ったはる子と千枝がしょんぼり帰ってきた。
「どうだった!」
雄一郎はホームまで一気に駈《か》けあがって訊《き》いた。
「それがねえ、雄ちゃん……」
はる子の声にはなんとなく力が無い。
「有里さんに、逢えなかったのよ……」
「え、逢えない?」
雄一郎が顔色を変えた。
「有里さん、あの汽車から降りなかったんだよ」
千枝が説明した。
「そ、そんな馬鹿な……」
「ずいぶん探したのよ、ホームも待合室も……」
「念のためにね、兄ちゃん、いつか中里さんたちが泊った小樽の旅館まで行ってみたんだよ」
「…………」
「有里さんはお兄さんと一緒のはずだから、まさか間違いはないと思うけれどねえ……」
はる子は心配そうに、小樽の空をふりかえった。真暗い空に、光の薄い星が二つ三つわずかに瞬いていた。
雄一郎は茫然《ぼうぜん》と闇《やみ》をみつめた。
はる子と千枝は、
「もし、家のほうに電報でもあればすぐ知らせるから……」
と言い、不安そうに帰って行った。
その夜、当直だった雄一郎は、終列車が通過してしまうと同僚と交替で仮眠した。
しかし、電話の鳴るたびにとび起きると、次々と悪い連想が浮かんできて、とても眠れたものではなかった。
一方、室伏の家の方でも、はる子と千枝が眠れない夜をすごしていた。
「姉ちゃん、まだ、ねむれんの?」
「ああ……」
「有里さん、どうしたんだろうねえ」
「ねえ、千枝……」
はる子は床の中で天井を見上げていた。
「有里さん、やっぱり北海道へ嫁にくること、辛《つら》くなったんじゃないかしら……」
「どうして?」
「だって、もし途中で具合が悪くなって下車したんなら、一緒においでの兄さんが電報をお寄越しになるはずでしょう。今まで待っても、電報もなんにも来ないというのは、やっぱり……」
「でも……お嫁に来るって、ちゃんと兄ちゃんと約束したんだもの……」
「そりゃあそうだけれど、お母さまが最後までこの縁談には反対だったというし……」
「姉ちゃん、有里さんてそんな人じゃないよ」
千枝は寝ていられなくなり、布団の上に起き上った。
「あの人はいっぺん約束したらきっと来るよ、そういう人だよ、有里さんて……」
はる子は、むきになっている妹に微笑した。
「本当をいうとね、千枝、姉さんも有里さんてそういう人だと思っているのよ……」
「そうだろう、そうだよ……」
「だから心配なの……」
はる子は再び表情を曇らせた。
「なぜ、姿も見せず、連絡もないのかって……なにか余っ程、悪いことが起ったんでは……」
「姉ちゃん……」
千枝はいまにも泣きそうな声を出した。
夜明けの二時、雄一郎は同僚と交替した。
春なお寒い駅のホームは、かなり強い風が吹いていた。
一番列車は早暁四時二十分に塩谷駅にすべり込んでくる。
雄一郎や、はる子や千枝の心配をよそに、またいつものような忙しい一日が始まるのだ。
雄一郎は切符を売り、それから鋏《はさみ》を持って改札へ行った。
塩谷のような小さな駅では、夜勤の場合、どうしても一人で何役か兼ねることになる。出札もすれば改札もする。手小荷物の受付もしなければならないときがある。乗降客の少い駅だから、それでも充分間に合った。
列車が到着して客たちが降りてくると、今度は切符を受け取る番である。
客は二人ほどあって、そのうちの一人は酔っ払っていた。雄一郎が差し出された切符を見ると登別《のぼりべつ》までとなっている。
「もしもし、お客さん、乗り越しですよ」
「なに……?」
「この切符は登別までです」
「なんだと、ここは登別だろう」
「違います、登別からは四つも先の駅ですよ」
「へえ……」
酔客は眼をまるくしている。
「そらあ、ちっとも知らなかったなあ……」
「お客さん、どこへ行かれるんですか」
「どこって、登別さ、きまってるじゃねえか」
雄一郎は苦笑した。
駅につとめていると、しばしばこうした客の相手もしなければならない。
「それでは、もう三十分もすると上り列車が来ますから、そこの待合室で待っていて下さい、いま、切符にそのことを記入してあげますから」
そう言いながら、雄一郎はひょいとうしろを振り返って息をのんだ。
有里が、たった一人で立っていたのだ。
雄一郎は、咄嗟《とつさ》には声が出なかった。
「ごめんなさい、おそくなって……」
有里が小さな声で言った。
彼女は矢絣《やがすり》の着物に赤紫の被布《ひふ》を着ていた。
ようやく明るくなりだした空を背景にして、そんな有里の姿は、寝不足気味の雄一郎の眼には眩《まぶ》しすぎた。
「有里さん……」
雄一郎はかすれた声を出した。
「やっぱり、来てくれたんだね……やっぱり……」
あとの言葉はふたたび咽喉《のど》にからんだ。