雄一郎と有里の新しい生活が始った。
横浜へ去った姉のはる子からは、元気で働いているから安心するようにとの、心の籠《こも》った手紙も来た。
はる子の思いやりは、有里の心に強く残った。
義理の姉の、このこまやかな心づかいに対しても、よい嫁となって、室伏の家の柱にならなければ、と有里は懸命であった。
そして、五月。北海道の遅い春は、梅も桜も桃もいっせいに花盛りとなった。
ある日、有里が浜の魚屋で、魚をえらんでいると、
「あの……あなたは、もしや……」
乳呑児《ちのみご》を抱いた若い女に声をかけられた。
「ああ、あなた……いつか青函連絡船で……」
有里もすぐ気がついた。
「やっぱり、あの時のお嬢さんで……」
女は瀬木千代子といい、昨年の秋、有里が母や姉の弘子と一緒にはじめて北海道へ渡る途中、青函連絡船の甲板で、気分が悪くなっているのを見て薬を与えたことがあった。
「あの節は本当に有難うございました」
千代子が懐しそうに言った。
「いいえ……」
有里の眼は赤ん坊に吸い寄せられている。
「赤ちゃん、何か月ですの」
「まだふた月とちょっとなんですけどね……あのときはまだお腹の中にいたのに、生れてしまうと早いものですわ」
「あの時、御主人はたしか釧路《くしろ》にいらっしゃるって……」
「ええ、それがね、釧路へ訪ねて行ったら、ほんの一足違いで小樽へ行ったというんですよ。それから小樽へ来て、まあ、どうにか一緒に暮してるんですけどねえ」
「そうでしたの……」
「お嬢さん、この近くにお住いなんですか」
「ええ……すぐそこの塩谷村に……」
有里は眩《まぶ》しそうな眼をした。
「四月に、嫁に来たんです」
「おや、それは……お目出とうございます……で、旦那《だんな》さんはやはりここの……」
塩谷は小さな漁村である。どうしても、それに関係のある職業の人が多かった。
「いいえ、鉄道員です」
「そりゃあようございますねえ、なんといっても堅気の商売が一番ですよ……、やくざな亭主を持ったら、女は一生泣かされますからねえ……」
「御主人、船員さんでしょう」
「ええ、まあね……酒と博打《ばくち》が好きなんですよ、それさえ無けりゃ、いい人なんですがねえ……」
女の顔が、ふっと翳《かげ》った。
「流れ流れて、こんな北の果まで来ちまって……ほんとに、明日のことを考えると……」
腕の中の子供の顔をじっとみつめていた。
有里はいそいでいたので、この時、瀬木千代子とはそれだけで別れた。
ところが、それから一週間程たった頃、売店の仕事を終えて、千枝が家へ戻ってくると、家の前を見慣れぬ女がうろうろしている。
女はまだ生れて間もない赤ん坊を抱いていた。
「あの、ちょっと伺いますが……」
千枝を認めると、女は自分の方から近づいて来て言った。
「ここの家、室伏さんのお宅ですか?」
「そうですよ」
千枝は女をじろじろ見た。
まだ若いくせに、ひどく疲れているようだった。
「あの、御主人が鉄道へ勤めておいでになる……」
「ええ、そうですよ」
すると女は、一言の礼も言わず、ふらふらと去って行った。
「おかしな人……」
千枝はしばらく、女の去った方を眺めながらそう思った。
千枝はそのまま家へ這入《はい》った。そして女のことは、忘れるともなく忘れてしまった。
有里がお茶をいれてくれたので、それを飲みながら、世間話をしていると、どこかで赤ん坊の泣き声が聞えた。
有里と千枝はどちらともなく顔を見合せてほほえんだ。
「赤ちゃんの泣き声っていいわね」
「うん、赤ん坊が泣くのって、あれ運動のかわりなんだってね……」
だが、赤ん坊の泣き声は止むどころか、ますます激しくなり、まるで火のついたように泣きだすに及んで、二人はあらためて顔を見合せた。
「変ねえ、どうしたのかしら……」
「このへんじゃあ赤ん坊が生れたって話も聞かんけどねえ、赤ん坊連れのお客でも来たのかなあ」
「でも、あれはただの泣きかたじゃないわ」
有里が眉《まゆ》に皺《しわ》を寄せた。
「誰もそばに居ないのかしら……」
「ああ、そういえば、さっきあたいが帰って来たとき、赤ん坊おんぶした女の人が家の近くをうろうろしていたなあ」
「そう、じゃ、きっとその人ね」
「それがねえ、その女の人ったら、どうもうちを訪ねて来たみたいだったんだよ。御主人が鉄道へお勤めのかたですか、だなんてね、そのくせ、うちの前を通りすぎて行っちゃったんだけどさ……」
「妙な人ねえ」
「うん……」
その間にも、赤ん坊はいっこうに泣きやむ気配もない。
「ちょっと見てくるわ……」
有里は居たたまれなくなって立ちあがった。
「あんなに泣かしては、可哀そうよ……」
「うん、そうだね」
千枝も有里のあとに続いた。
有里は表の引き戸をあけて外をのぞいた。千枝の見たという、それらしい女の姿はない。だが、赤ん坊の泣き声はしている。
有里はふと足許を見て、思わず息をのんだ。
小さな籐籠《とうかご》の中に顔だけ出して、赤ん坊が真赤な顔をして泣いていた。
「あっ……赤ちゃん……」
有里は夢中で抱きあげた。
あとから首を出した千枝も眼をまるくしている。
「千枝さん。ちょっと、籠の中に手紙かなにかはいっていないかしら、たぶん捨て児だと思うんだけど……」
「えーッ、捨て児」
千枝は奇妙な叫び声をあげて、とび出して来た。
「なんだべ、千枝ちゃん……?」
隣りの小母さんも、騒ぎを聞きつけて出て来た。
「家の前にね、赤ん坊が置いてあったんだよ」
千枝は籠の中をさぐりながら答えた。
「ああ、それでさっきから赤ん坊が泣いとっただな」
隣りの小母さんは有里の抱いている赤ん坊をのぞき込んだ。
「こりゃ、女の子だなあ……」
そのとき、千枝が手紙を見つけた。
「あッ、あったあった……」
「なんて書いてあるか読んでみて」
「うん」
宛名に、室伏奥さんへと書いてある手紙を、千枝は一応有里に示してから封を切った。
「いいかい、読むよ……、室伏奥さん、どうかお願いします。この子をしばらくの間預ってください。東京へ帰って、もう一度やり直しをしたいのです。どうか、この子をお頼みします。きっと、いつか引き取りに来ます。この子の名前は奈津子といいます。瀬木千代子……」
「へえ——、ずいぶん勝手なこと言ってるねえ」
隣りの小母さんが今度は手紙を読み下した。
「お姉さん、瀬木千代子って人、知ってる?」
「そう……今、考えてるところなのよ……」
有里は赤ん坊の顔から、母親の面影を思い出そうとしているらしかった。
「お姉さんは北海道へ来てまだ間がないんだから、そんなに前に逢った人じゃないよね。うちの兄ちゃんの職業まで知ってるんだもの」
「あ、思い出した。あの人だわ、きっと……」
「やっぱり、知っとったの」
「ええ、ほんのちょっとね……。それより、千枝さん、すまないけど、どこかで牛乳買って来てくれない、この子お腹がすいてるのよ」
「うん、でもどうするの、この子……」
「それは……あとで考えるわ、とにかく牛乳……」
「うん、買ってくるよ」
千枝は家から空瓶《あきびん》を持ってくると、井戸でよく洗った。
「どのくらい買えばいいの」
「腐るといけないから、一合か二合ね」
「よし、わかった」
千枝はいそいで走って行った。
「おお、よしよし、泣かないでね。すぐ、おっぱいが来るからね……よしよし、いい子ね、いい子ね……」
まるで自分の子のように、あやしつづける有里を、隣りの小母さんがあっけにとられて眺めていた。