室伏家の前に捨てられた赤ん坊は、昨年の秋、青函連絡船で有里が介抱した瀬木千代子の子供であった。
赤ん坊には、ミルク瓶とつぎはぎだらけのおむつが十枚、それに肌着と替えが一枚ずつ添えてあった。
その哀れな捨てられかたに、理由ははっきりしないまでも、母親の追いつめられた様子がはっきりと判った。
しかし、その日から、室伏一家は赤ん坊のために翻弄《ほんろう》される結果となった。
大人たちの浴衣は次々と解体され、子供のおしめに変えられて行く。常時、大声で話すことも、足音をたてることもできない。すべての生活が、赤ん坊を中心として回転した。
雄一郎は毎日、いつか瀬木千代子が有里に言ったという言葉をたよりに、小樽の周辺を子供の母親を探して歩いた。
有里と千枝は、瀬木千代子はもう東京へ発ってしまったという意見だったが、雄一郎だけは、案外小樽あたりでぐずぐずしているような気がすると言い張った。
もっとも、雄一郎の本当の気持は、思いもかけない闖入者《ちんにゆうしや》にいささか辟易《へきえき》して、一日も早く、この邪魔者を母親の許に帰そうというのが本当の狙いらしかった。
実際、赤ん坊のおかげで、新婚早々の甘い生活などどこかへ吹きとび、夜は子供の泣き声で眼をさまされ、夜勤あけの翌日など、ゆっくり休んでいる暇もなかった。もちろん、有里は赤ん坊にかかりっきりである。
しかし、奈津子の母親はなかなかみつからなかった。
その日も雄一郎は疲れ切って帰って来た。
「どうでした、瀬木さん……」
有里が待ちかねたように聴いた。
「見つかりまして?」
「いや、船会社の事務所をきいて回ったんだが、瀬木なんて名前の船員はどこにもおらん……」
「まあ……どうしてかしら……」
「それで、事情を話したら向うでも気の毒がって、船員仲間に聴いてくれたんだが……、その中に、内地から女が追っかけて来て、赤ん坊の生れた奴《やつ》がいるというんだ。もっとも瀬木じゃなくて片山という男だがね……」
「あなた、きっとその人ですわ、まだ正式に結婚しなくて、名前が別々だったんですわ」
「ところが……」
雄一郎は顔をしかめた。
「困ったことに、その男は、五日ほど前の夜に殺されちまったんだ……」
「えッ、殺された……」
「うん、博打《ばくち》のことから喧嘩《けんか》になって、胸を刺されたんだ、病院へ担ぎ込んだ時はもう死んでいたらしい……それも刺されてから、長い時間、路端に放っておかれたんだそうだよ……」
「まあ……」
有里はそばに寝かせてある奈津子をふりかえった。
奈津子は、すやすや可愛い寝息をたててよく眠っている。父親が無慙《むざん》な最期を遂げたことなど、夢にも知らないのだ。奈津子がこのことを大きくなって知ったら、はたしてなんと思うだろう。そう考えると、有里は眼頭が熱くなるのを感じた。
「とにかく、その男の家を教えてもらって行ってみたが、誰も居ない……。隣りで話を聴いたら、やっぱり片山という男と暮していたのは瀬木千代子という女だった。二月の末に女の子を産んで、育てていたそうだし、子供のことを奈っちゃんと呼んでいたそうだ……」
「瀬木さんはどうしたんでしょう……?」
「近所では、赤ん坊を連れて葬式の晩に夜逃げしたと言っていた……。家賃から米、味噌《みそ》、醤油《しようゆ》の代金まで借り倒しだったそうだよ」
「それで奈っちゃんをうちの前に……」
「赤ん坊を連れてちゃ、どうにもならんしな……」
有里が、ほっと歎息をもらした。
「ほんとうに可哀そうな奈っちゃん……」
「ねえお姉さん、どうするのこの赤ん坊……」
千枝が心配そうに言った。
「隣りの小母さんが言っとったけど、村役場に捨て児だって届けると、捨て児の収容所みたいなところへ連れて行かれちゃうんだって……そういう所へ入れられた赤ん坊は可哀そうなもんだってね、人手は足りないし、お金もないから……すぐ死んじゃうんだって……」
「ふーん、なにしろまだ二か月だからなあ……」
雄一郎は深か深かと腕を拱《こまね》いた。
「こんな小さいんだもの、病気をしたらいっぺんでころりよね……」
「しかし……うちで育てるわけにも行かんだろう……」
雄一郎はちらと有里を見た。
「そりゃ、夜、ピイピイ泣かれたらうるさいだろうけど……でも、死んだらかわいそうだよねえ」
千枝は直感で、有里がもはや奈津子を育てる気でいるのを知っていた。だから、いざとなれば、有里の肩を持つつもりだった。
有里は黙って考え込んでいる。
奈津子が泣くと、手早くおむつを換えはじめた。
翌々日の夜勤あけに、雄一郎は村役場へ出かけて行った。
むろん、赤ん坊の処置について相談するためである。
雄一郎は、人の家の前に子供を捨てて行った女に腹を立てると同時に、自分の子供でもないものを育てようとする有里の気持が理解できなかった。
雄一郎は、役場の書記に子供に添えられてきた手紙を見せた。
「役場には捨て児を育てるような場所があるんですか……?」
「ここには無いが、小樽へ行けば乳児院ちゅうもんがあってな、親なしっ子や、親が育てられん子供を収容しとるんじゃ……」
書記は人のよさそうな老人だった。
「この瀬木千代子という人とは親しいんけ?」
「いや別に……家内がちょっと知り合いだったらしいです」
「じゃあ、まるきり他人の子け?」
「はあ、まあそうです……」
「だら、手続きさえすれば、いつでも子供は引きとるけえのう」
書記は老眼鏡越しに雄一郎を見上げた。
「けど、手紙にはあんたんとこへ頼むと書いてあるけんども……」
「ええ、それで困ってるんですよ」
「もし、育てるんだったら、この手紙にあるように、あんたんとこで暫《しばら》く預かるっちゅうことにすんだべな、そんなら別に役場へ届けさ出すには及ばねえ……届けがいらねえっていうんじゃねえだが、ちょっとの間ならさしつかえあんめえちゅうこった……」
「そうですか……」
「その子の戸籍はどうなっとるかな」
「さあ……、どうも両親が正式に夫婦になっとらんようですから……」
「内縁じゃな」
「そうだろうと思います」
「だども、名前さついてんだから、戸籍には入ってるんだべ……小樽に住んでたんだな……」
「はい……」
「よし、とにかく、籍が入ってるかどうか調べといてやっから、そっちでも自分で育てるか乳児院に入れるか、よく考えておいてくれや……」
「分りました。二、三日中にもう一遍出直して来ます」
「ンだな、養子ってこともあっから、じっくり考えてやんなせ……」
雄一郎は決心のつかぬまま、村役場をあとにした。老書記の言うのを聞いていると、なんだか子供は乳児院に入れるより、里子という形で育てたほうがいいという意味を、言外にほのめかしているような気がする。
(そりゃ、可哀そうには違いないんだが……)
雄一郎には、どうしてもあの子を家で育てるという気が起らなかった。
雄一郎が家の前までくると、ちょうど有里が乾いたおしめを取り込んでいるところだった。
有里は雄一郎の来たことに気がついていない。たのしそうに歌をうたっている。雄一郎もはじめて聞く、鄙《ひな》びた子守唄だった。
彼女の横顔が夕陽《ゆうひ》にほんのりと紅く染まり、余計、活き活きとして見えた。
(余っ程、子供が好きなんだなあ……)
雄一郎は感心して有里を見ていた。
「あら、お帰りなさい……」
有里がようやく気がついてふりかえった。
「いつもより遅かったんですのね」
「うん、役場へ行って来たんだ……」
「役場……?」
「赤ん坊どうしてる」
雄一郎はちょっと家の中をのぞき込んだ。
「よく寝てますけど……」
有里の表情が引き締った。
本能的に赤ん坊を取られまいとする、母親の防禦《ぼうぎよ》の姿勢である。
雄一郎は、その有里の表情の一部始終を見守っていた。
「あの……、役場へ届けを出したんですか?」
「いや、子供を拾った事情を話してきただけだ」
有里の表情が、ふっとゆるんだ。
「やっぱり、乳児院へ入れなければいけないんでしょうか……」
雄一郎は、じっと有里をみつめた。
「お前……、乳児院へ入れろといわれて、あの赤ん坊を手放せるかい……?」
「…………」
有里は眼を伏せた。
恐らく、雄一郎が手放せといえば有里はその通りにするだろう。しかし、有里の胸にぽっかりと大きな洞《あな》があくことも事実である。雄一郎にはそれがよく判った。
「まあ、いろいろ話を聴いてみたんだが、乳児院へ入れんでも、あの手紙を証拠に、瀬木さんから預かったということにすれば、うちで育ててもかまわないそうだ……」
「あなた……」
有里の表情がぱっと輝いた。
雄一郎はそれには気がつかないふりをして、わざと横を向いて言った。
「俺はうちで育ててもかまわないが……、お前はどうする……」
「許してくださるんでしょうか、あの……赤ちゃん、うちで育てても……」
有里の声は上ずっている。
雄一郎は苦笑した。赤ん坊を育てることがそんなに嬉《うれ》しいことなのだろうか。
(女というのは、不思議なものだ……)
と雄一郎は思った。
「大変だよ、犬や猫の子じゃあないんだから……病気にでもなったらどうするんだい、俺は意地悪で言ってるんじゃないが、本当に大丈夫か……」
「私、やってみます……大丈夫ですわ、あなたさえ許して下されば、あたし一生懸命やってみます……。きっと、丈夫な大きな赤ちゃんに育てますわ……」
「有里……」
雄一郎は、赤ん坊を乳児院へ送ることは諦めた。明日にでも、そのことを役場へ行って話して来ようと思った。
有里を見ているうちに、はっきりと決心がついたのである。
「ごめんなさい、あなたに御迷惑かけて……」
有里は済まなそうに言った。
「でも、あたし……、たった五日間一緒に暮しただけなのに、あの子が可愛くって……、まるで自分の子みたいな気がするんです。なんにも判らないくせに、まあるい眼をしてじっと私をみつめて、時々にこっと笑うの……、なんにも疑わずに、母親だと思うのかしら……、子守唄をうたっていると、腕の中で安心しきって眠ってしまう……、そんな赤ちゃんを、私、とても乳児院なんかへ渡せない、誰にも渡せないんです……」
「わかったよ……」
雄一郎はいつくしむような眼で有里を見た。
「俺も協力する……二人で、いい子に育てよう……」
「あなた……」
有里の眼が夕陽を受けて、キラリと光った。
「ありがとう……」
「うん……、だけどなあ……」
雄一郎が、ちょっとはにかんだように唇《くちびる》をゆがめた。
「その……、俺のことも忘れないでくれよなあ……」
「まあ……」
有里がにらんだ。
「忘れるはずがないでしょう……」
雄一郎が頭を掻《か》いた。
「ちょっと心配になったんだ、俺……」
「嫌ねえ……」
二人は夕陽に向って、明るく笑った。