函館本線、塩谷駅は平常、夜勤は三名であった。
駅長が、このところ夏風邪をこじらせて休んでいるので、いつものように、小樽から予備助役の関根重彦が手伝いに来ていた。
その夜の当直は、関根とポイントマンの佐伯、それに室伏雄一郎という組合せだった。
十時すぎ、札幌から長万部《おしやまんべ》へ行く終列車が通ってしまうと、あとは貨車が通過するだけである。
事務所では、北海道名物のごしょいも、つまり、じゃがいもを蒸して来て、眠気ざましの雑談に花が咲いていた。
「君んとこ、赤ん坊が居るそうだね……」
関根がふと思いついたように言った。
「捨て児だって……?」
「はあ……、まあ、そういうことです……」
「世間では、いろいろ妙な噂をたてる奴もいるらしいが……」
「はあ……、しかし、世間の奴は世間の奴ですから、別に気にはしてません」
「しかし、先日、駅長が心配しておられたんで、ちょっと君にも注意しておこうと思ってな……」
「駅長って……?」
「ほら、南部の親父さんさ」
「親父さん、どんなこと言っとられましたか?」
雄一郎は身をのりだした。
「まさか、世間の噂をそのまま……」
「当り前さ、親父さんがそんな軽薄な噂を信じるものか……、だがね、室伏君……」
佐伯がヤカンに水をくみに出て行くのを待って、声をひそめた。
「南部の親父さんは、君が新婚早々で、そういうことにいつまでも耐えられるだろうかと心配しとられたぞ」
「そういうことといいますと……」
「つまりだな、自分の子のことなら我慢できることでも、他人の子ではなかなかそうはいかんということらしいな」
「…………」
「そういえば、正直なところ、僕だって結婚したてのころは子供なんてちっとも欲しいとは思わなかったものな……、しかし、夫婦なんてものには、そういう期間がある程度必要なんじゃないだろうかね、女房だって、子供が出来てしまえば変に所帯じみて、皺《しわ》がふえる一方なんだし……新婚早々の甘い生活の記憶なんてものが、あとへいって、かなり重要な役割をはたすような気がするんだ。そういう意味では、どういう事情があるかしらんが、君は可哀そうだと同情するよ」
そこへ佐伯が戻って来たので、話はそこで打ち切られた。
「君、君はたしか小樽の出身だったね」
関根は、今度は佐伯の方へ向きをかえた。
「はあ、そうですが……」
「小樽にはいい産院あるかね」
「サンイン……?」
「ほら、赤ん坊を産むとき這入《はい》る病院さ」
「ああ……」
佐伯は首をひねった。
「さあ……、産婆《さんば》さんならかなり居るようですが……」
「やっぱり、病院は札幌の方がいいかね」
「誰か、赤ん坊が出来たんですか」
雄一郎が訊《き》いた。
「うん、まあな……」
関根は照れくさそうに言って、顎《あご》を撫《な》でた。
「関根さんですか」
「どうも、そうらしいんだ……」
「そりゃあ、おめでとうございます」
雄一郎は関根の妻をよく知っていた。いつか関根の誕生日に呼ばれて、彼女の舞う地唄舞《じうたまい》の�雪�を観たことがあった。舞踊のことは余り知らない雄一郎にも、彼女の舞いはまったく素晴らしいものだった。
また、彼女、関根比沙の実家の両親が、たまたま有里の結婚式の仮親になってくれたこともあり、その後京都から届けられて来たお祝の反物や帯を、彼女がわざわざ有里の許まで届けてくれたりして、二人はかなり親しくしているらしかった。
「いつ頃ですか、生れるのは……」
佐伯が尋ねた。
「医者の話では、暮か正月頃ということだがね」
「どうせだったら元旦がいいですな、おめでたくって……」
「無責任なことを言うなよ、佐伯君。それよりいよいよ親父になるかと思うと、まるで坊主に引導渡されたような気がするぜ」
「そんなものですかね……」
雄一郎が言った。
「とにかく不愉快だね、女房はこれで亭主を家庭に縛《しば》りつけられると思って喜んでいるらしいが……縛りつけられてたまるかってんだ……」
「でも、助役さんの顔みていると、とっても嬉《うれ》しそうですよ」
佐伯がからかった。
「馬鹿いえ、馬鹿いえ……」
そのくせ、関根は腹の底からこみあげてくる笑いを、隠そうともしなかった。
「なあ、室伏君、そのうち君の所のかみさん、うちへ遊びに行ってやってくれないか、大事をとって家にばかり引き籠《こも》ってばかり居るので、少々可哀そうでね……」
「はあ……」
雄一郎は複雑な気持でそれを受取った。
(やっぱり、自分の子と他人の子は違うのかもしれない……俺は一度もこんな、関根さんが見せているような気持を味わったことはなかった……)
雄一郎は、自分の気持が索莫《さくばく》としてくるのを、どうすることも出来なかった。
翌日、雄一郎はまだそのことにこだわっていた。
夜勤あけの日は、昼間すこしでも寝ておかないと、次の日の勤務にさしつかえる。周囲が全部活動しているとき眠るというのは、なかなかむずかしい。そのうえ、奈津子が、やれおむつだ、やれ空腹だといってはよく泣いた。
そのたびに、有里があわてて奈津子を抱きかかえて外へとび出して行く。
(有里も気をつかっているのだ……)
と思いながらも、腹が立ってたまらなかった。
雄一郎をゆっくり寝かせたいと思うからそうするのだろうが、彼が寝ているときだけ有里がそばに居たところで、どうしようもないのだ。彼が眼を覚ますと、家の中から有里と奈津子の姿が消えている。
南部駅長の心配していたという言葉の意味が、ようやく、彼の胸にしみた。
空腹感をおぼえても、誰もそれに気づいてくれる者もない。
有里は外で隣りの小母さんにつかまり、どうやら奈津子の母親のことを根掘り葉掘り訊《き》かれているらしかった。
「有里、有里……」
雄一郎は妻を呼んだ。
「あら、起きたんですね、ごめんなさい」
有里がいそいで戻って来た。
「隣の婆さん、口がうるさいんだ、つまらんこと話すな」
雄一郎は不機嫌な顔をしていた。
「はい……御飯にします?」
「ああ……」
有里は奈津子を隣室に寝かせ、勝手で食事の仕度をはじめた。
雄一郎は傍に置いてあった本を取りあげて読みはじめた。念願の車掌科の試験を受ける準備である。段々課目がむずかしくなるので、文字通り寸暇をおしんで勉強しないと及第は覚束無《おぼつかな》かった。
そんなことへの焦りも、余計、雄一郎を苛立《いらだ》たせていたのかもしれない。
隣室の奈津子が、またむずかりだした。
「うるさいなあ、昨日から、馬鹿に泣くではないか!」
雄一郎は本を投げだして、珍しく大きな声をだした。
「すみません……、別に熱もないようなんですけど、どうしたのかしら……」
有里がおろおろと隣室へはいって行った。
「一日中抱いとるから、抱き癖《ぐせ》がついたんだろう、こんなじゃ、家で勉強もよう出来ん」
「どうしたの、奈っちゃん……お利口だから、泣かないのよ……ね、奈っちゃん……」
奈津子はなかなか泣きやまない。有里のほうも泣きそうな声を出していた。
「もういい、外で食ってくる……」
腹立ちまぎれに、雄一郎は本を懐へねじ込むと、足音も荒く外へ出て行った。
「あなた、もう御飯できましたけど……」
そんな有里の言葉に、ふりかえろうともしなかった。
家をとび出した雄一郎は、結局小樽へ出た。
この頃の小樽は、にしんの漁場であると同時に商人の町であった。
俗に、札幌は官員の町、小樽は商人の町といわれるくらいで、小樽には、石炭をはじめとして、十勝《とかち》地方で作られる雑穀類やパルプ材など、ありとあらゆるものが集まって来た。
町の中に立ち並ぶ巨大な倉庫と、肩で風を切って歩く越中《えつちゆう》だの江州《ごうしゆう》だのの商人たちが、小樽を支えるエネルギーであった。
あらゆるものが活気に溢《あふ》れ、それだけに荒っぽさも目立った。
たとえば、これは雄一郎が実際に出合ったことだが、或るやん衆の親方など、小樽、札幌間五十五銭の切符を買うのに二十円の札を出し、つり銭がないと言うと、あっさり要らんと答えたくらいである。
北角《きたかど》、南角《みなみかど》、という遊廓などは、一晩三円から五円が相場だが、毎晩たいへんな賑《にぎわ》いかただった。
そうした場所は、薄給な鉄道員である雄一郎などには無縁な場所だった。
空きっ腹をかかえて、駅前の小さな蕎麦屋《そばや》の暖簾《のれん》をくぐると、雄一郎は新しく腹が立ってきた。本来ならば、今頃は有里の手料理で、夫婦水いらずの食膳《しよくぜん》にむかっていられる筈《はず》なのだ。
すぐそばの椅子席で、三歳くらいの女の子を連れた夫婦ものが、仲睦《なかむつ》まじく蕎麦をすすっていた。
雄一郎は急にみじめな気持に襲われて、あわてて眼をそらした。