普段なら、大好物の蕎麦なのに、何か胸のあたりに固いしこりのようなものが出来て、あまり美味いとも思わず、雄一郎は箸《はし》を置いた。
ぼんやり眼をあげたとたん、二階の階段から良平と千枝がおりてくるのにぶつかった。
雄一郎は黙って二人を見ていた。
先に雄一郎の居ることに気づいたのは千枝だった。
「兄ちゃん……」
吃驚《びつくり》して、駈《か》け寄ってきた。
「なんだ、お前……」
雄一郎は、良平と千枝を交互に見くらべながら言った。
「こんなところに居ったのか……」
「こんちは……」
良平が頭を下げた。まるで、子供が悪戯《いたずら》をみつけられたときのように首をすくめ、困ったような笑いをうかべている。
「兄ちゃん、岡本さんにお蕎麦ごちそうになったんよ」
千枝は、雄一郎と良平とのあいだの微妙なニュアンスには気づかず、いたって無邪気な表情であった。
「いつも、妹がいろいろとお世話になっています……」
雄一郎は、ちらりと良平を見てから礼を述べた。
「いやいや、そんな……」
良平はちょっと顔を赤くした。
「世話をかけてるのは俺のほうだで……」
「兄ちゃん、岡本さんねえ、機関助手の試験やっと合格したんだって……」
「ほう……」
雄一郎は素直に眼を瞠《みは》った。
「そりゃあ、よかった……」
「明日から札幌の教習所へ岡本さん行くんよ」
「うん……、御苦労さんです。新平|爺《じい》さんもきっと大喜びだろう」
「いやあ……」
良平は照れて、手を頭へ持って行った。
「千枝、お前これからどうするんだ」
「もう家へ帰るよ、兄ちゃんは……」
「俺も帰る、いま蕎麦湯を飲んだらな……」
「じゃ、待ってるよ、一緒に帰ろう」
「うん……」
「それじゃ、わしはこれで……」
「そうかい、じゃ、どうもごちそうさん……」
千枝は思ったよりあっさり言った。
「元気でがんばってね……」
「ああ、さいなら……」
良平も千枝には軽く手をあげただけで、雄一郎に目礼し外へ出て行った。
「千枝……」
「ええ……?」
「お前、ここの二階へ岡本とちょいちょい来るのか」
「ううん、今日がはじめてだよ」
「二階でなにしてたんだ……」
「なにって……」
千枝は不思議そうに雄一郎を見た。
「お蕎麦たべとったよ、鴨南《かもなん》ばんとラムネと……」
「それだけか?」
「ああ、なんで、兄ちゃん……」
「馬鹿、嫁入り前の娘が男と二人で蕎麦屋の二階なんぞへ上るもんでないぞ」
「何んして……」
「上ったらいかん」
「だから、何んしてさ……」
「わからんのか」
「わからん」
雄一郎は拍子抜けがした。
「男女七歳にして席を同じゅうせずというだろう」
「男と女が同じ席に坐ったらいかんの?」
「そうだ……」
「そいでも、汽車に乗ったらそんなこと言えんよ、男の人の隣りだって、席があいていれば坐るよ、みんな……」
「人の大勢いるところならいい、二人っきりはいかんということだ……」
「ふうん……」
千枝にはまだよく判らないらしかった。
「それでも、岡本さん、別になにもせんよ」
「今日なんにもせんでも、明日なんにもせんとは限らん、男とはそういうもんだ」
「へえ、そういうもんかね」
千枝は驚いたようだった。
「兄ちゃんもやっぱりそうかね……」
「馬鹿……」
雄一郎はあわてて蕎麦湯を口へ運んだ。
「兄ちゃん、今日はたしか非番だね……」
「そうだ……」
「どうして今頃、小樽なんかへ出て来たの……」
千枝が雄一郎の顔をのぞき込んだ。
「昨夜《ゆうべ》、泊りだったから、今朝は家へ帰って一ねむりして、今頃、ほんとだったら有里姉さんと夕飯たべてるわけでしょう?」
「それが……、うるそうて寝られん」
吐き出すように言った。
「奈っちゃんが泣いたの?」
「泣いても泣かんでも、赤ん坊が家に居ると落着かんもんだ」
「なに言ってるの、そんなの贅沢《ぜいたく》だ」
千枝は兄をにらみつけた。
「兄ちゃんみたいに神経質なこと言うとったら、鉄道員は子供育てられんよ」
「そりゃ、自分の子なら我慢もするさ……、どこの馬の骨ともわからん奴の子なんだぞ……」
「兄ちゃん……、そんなこと言うたら奈っちゃんが可哀そうよ。家で育てるってこと、兄ちゃんだって賛成したんでないの……」
「…………」
「わかった……、兄ちゃん、お姉さんにあまりかまってもらえんので、それで、奈っちゃんに焼餅《やきもち》やいとるのね」
「馬鹿……」
「そうよ、そうなのよ、兄ちゃん……」
千枝の眼が次第に光を増して来た。
「奈っちゃんが泣いたんで、うるさい言うて、有里姉さんを叱ったんだね、そうだね……」
雄一郎が黙って蕎麦湯を飲んでいると、
「兄ちゃん!」
凄《すご》い声で怒鳴った。
雄一郎は驚いた。
「お、おい、大きな声だすな……、人が見るでないか……」
「見たってかまわん……」
千枝は坐り直した。
「兄ちゃん、あんた、そんなの我儘《わがまま》だよ。奈っちゃんはなんてったって赤ん坊だろ、口がきけんから、泣くより仕方ないんだよ……。赤ん坊だってね、虫の居所が悪かったら泣くよ、それを大人がいちいち腹立ててたら仕様がないよ、お姉さんを怒ったら可哀そうだよ……。兄ちゃんがうちに居るとき、お姉さん、奈っちゃんのことでどれくらい気い遣うてるか、兄ちゃん知らんの。夜だって、ちょっとむずがるとすぐおんぶして表へ出る……、真夜中だってそうなんだよ。兄ちゃん、自分の子でもなんでもないからっていうけど、お姉さんだって、自分の子でもなんでもないよ……」
「そんなこと、判っとる……」
「わかっとらんよ。兄ちゃん、奈っちゃんをどうせい言うの……、あんなになついとるものを、あんな可愛い子を、兄ちゃん、乳児院へやれって言うの……、兄ちゃん、鬼だね……、鬼だよ、兄ちゃん……」
「千枝……」
「千枝、兄ちゃん嫌いだよ……、そんな惨《むご》いこという兄ちゃん、嫌いだよ……」
千枝はくるりとうしろを向いてしまった。
そっと袂《たもと》で眼を拭《ふ》いている。
「千枝……」
雄一郎は立ちあがると、千枝の肩に手をかけた。
「いや!」
千枝が激しく振りはらった。
「わかったよ、千枝……、帰ろう……、有里がきっと心配しとる……」
「兄ちゃん……」
「俺がわるかった……、なんだかむしゃくしゃしとったんだ……帰ろう……」
「うん……」
ようやく、千枝の頬《ほお》に笑いが浮かんだ。
雄一郎が出て行ってしまったあと、常になくむずがる奈津子を宥《なだ》めながら、有里は赤ん坊といっしょに声をあげて泣きたい気持だった。
しかし、有里は泣かなかった。
こんな場合、普通の女なら、まず嫁いでくる時、実家の兄から「つろうなったら、いつでも帰っておいで……」と囁《ささや》かれた言葉を思い出すところであろう。が、彼女が思い出したのは兄の言葉ではなく、雄一郎との婚礼がすんだあと、自分から横浜へ去って行った義理の姉、はる子の残して行った手紙のことだった。
有里は神棚から、そっとはる子の手紙をおろして読んだ。
有里に主婦の座をゆずるため、住みなれた土地を離れたはる子のこまかい心遣いが、一つ一つ痛いほど身にしみた。
(こんなことでへこたれたら、お義姉《ねえ》さまに申しわけがない……)
有里は、しっかりと自分に言い聞かせた。
しばらくすると、気持は嘘《うそ》のように平静になった。有里の気持が落着いたせいか、奈津子も眼をさまさない。
有里は、晴れ晴れとした表情で台所へ立ち、雄一郎の好物の茶碗蒸《ちやわんむ》しを作る支度をはじめた。
雄一郎と千枝は、ちょうど茶碗蒸しが出来あがったところへ帰って来た。
「奈っちゃんは……?」
千枝が顔だけ出し、小声で聴いた。
「ねてるわ、とってもよく……」
すると、千枝はじろじろ有里の顔を眺めた。
「有里姉さんは泣かなんだ?」
「私が……? いいえ、奈っちゃんは泣いて困ったけれど……」
「そう……」
千枝はくるりとうしろを向いて、手まねきした。
「兄ちゃん。大丈夫だよ、お姉さん、泣いとらんよ」
「馬鹿……」
雄一郎が照れくさそうな表情で這入《はい》ってきた。
「お帰りなさい……」
有里は笑顔で迎えた。
(これがお義姉さんの手紙を読む前だったら、はたして笑顔で迎えられたかどうかわからない……)
と有里は思った。
「ごめんなさいね、奈っちゃんをあんなに泣かせて……」
「いいんだよ……」
雄一郎はずんずん奥へ上って行ってしまった。
「あのね、兄ちゃん、小樽の蕎麦屋に居ったんだよ……。自分で腹立てて出て来たくせに、お姉さんが泣いとるかもしれんと心配しとったよ……」
千枝が有里の耳許で囁《ささや》いた。
「まあ……」
それだけの言葉が有里にはひどく嬉《うれ》しかった。
「ごめんなさい、千枝さんにまで心配かけて……」
思わずしんみりと義妹の顔をみつめた。
「おーい、みんな、早く来いよ——」
雄一郎が呼んでいた。
「はーい」
行ってみると、いつの間にか雄一郎が台所から茶碗蒸しを持って来て、自分の膳《ぜん》の上に置いていた。
「おい、早く食おう……冷めないうちに……」
有里に飯茶碗《めしぢやわん》をさし出した。
「頂きまあす……」
雄一郎は飯をよそうのも待ちきれずに茶碗蒸しに箸《はし》をつけ、相好《そうごう》をくずした。
「うん、なかなかうまいぞ……、千枝、姉さんのよりコクがあるな……」
「なんだって……、生意気いってら、ねえ……」
千枝は同意を求めるように有里を見たが、そのまま眼は有里に釘《くぎ》づけされた。
「あれ……、今日のお姉さん、なんだかとても綺麗《きれい》だよ……」
まじまじと有里を見つめた。
「あっ、お化粧しとるね……、兄ちゃん、お姉さん、お化粧して兄ちゃんのこと待っとったんだよ……」
「馬鹿……」
「嫌だわ……」
雄一郎と有里は思わず顔を見合せ、頬《ほお》を染めた。
しかし、有里は泣かなかった。
こんな場合、普通の女なら、まず嫁いでくる時、実家の兄から「つろうなったら、いつでも帰っておいで……」と囁《ささや》かれた言葉を思い出すところであろう。が、彼女が思い出したのは兄の言葉ではなく、雄一郎との婚礼がすんだあと、自分から横浜へ去って行った義理の姉、はる子の残して行った手紙のことだった。
有里は神棚から、そっとはる子の手紙をおろして読んだ。
有里に主婦の座をゆずるため、住みなれた土地を離れたはる子のこまかい心遣いが、一つ一つ痛いほど身にしみた。
(こんなことでへこたれたら、お義姉《ねえ》さまに申しわけがない……)
有里は、しっかりと自分に言い聞かせた。
しばらくすると、気持は嘘《うそ》のように平静になった。有里の気持が落着いたせいか、奈津子も眼をさまさない。
有里は、晴れ晴れとした表情で台所へ立ち、雄一郎の好物の茶碗蒸《ちやわんむ》しを作る支度をはじめた。
雄一郎と千枝は、ちょうど茶碗蒸しが出来あがったところへ帰って来た。
「奈っちゃんは……?」
千枝が顔だけ出し、小声で聴いた。
「ねてるわ、とってもよく……」
すると、千枝はじろじろ有里の顔を眺めた。
「有里姉さんは泣かなんだ?」
「私が……? いいえ、奈っちゃんは泣いて困ったけれど……」
「そう……」
千枝はくるりとうしろを向いて、手まねきした。
「兄ちゃん。大丈夫だよ、お姉さん、泣いとらんよ」
「馬鹿……」
雄一郎が照れくさそうな表情で這入《はい》ってきた。
「お帰りなさい……」
有里は笑顔で迎えた。
(これがお義姉さんの手紙を読む前だったら、はたして笑顔で迎えられたかどうかわからない……)
と有里は思った。
「ごめんなさいね、奈っちゃんをあんなに泣かせて……」
「いいんだよ……」
雄一郎はずんずん奥へ上って行ってしまった。
「あのね、兄ちゃん、小樽の蕎麦屋に居ったんだよ……。自分で腹立てて出て来たくせに、お姉さんが泣いとるかもしれんと心配しとったよ……」
千枝が有里の耳許で囁《ささや》いた。
「まあ……」
それだけの言葉が有里にはひどく嬉《うれ》しかった。
「ごめんなさい、千枝さんにまで心配かけて……」
思わずしんみりと義妹の顔をみつめた。
「おーい、みんな、早く来いよ——」
雄一郎が呼んでいた。
「はーい」
行ってみると、いつの間にか雄一郎が台所から茶碗蒸しを持って来て、自分の膳《ぜん》の上に置いていた。
「おい、早く食おう……冷めないうちに……」
有里に飯茶碗《めしぢやわん》をさし出した。
「頂きまあす……」
雄一郎は飯をよそうのも待ちきれずに茶碗蒸しに箸《はし》をつけ、相好《そうごう》をくずした。
「うん、なかなかうまいぞ……、千枝、姉さんのよりコクがあるな……」
「なんだって……、生意気いってら、ねえ……」
千枝は同意を求めるように有里を見たが、そのまま眼は有里に釘《くぎ》づけされた。
「あれ……、今日のお姉さん、なんだかとても綺麗《きれい》だよ……」
まじまじと有里を見つめた。
「あっ、お化粧しとるね……、兄ちゃん、お姉さん、お化粧して兄ちゃんのこと待っとったんだよ……」
「馬鹿……」
「嫌だわ……」
雄一郎と有里は思わず顔を見合せ、頬《ほお》を染めた。