札幌の関根重彦の妻から、遊びに来てくれという言伝てがあったのを、つい延ばし延ばしにしてしまった有里が、赤ん坊の奈津子を千枝に預けて、札幌へ出掛けたのは、七月半ばの日曜日であった。
関根の妻の比沙は、少しやつれて、気だるそうに見えた。まもなく、六か月目にはいるのだと言っていた。
「起きていらっしゃっていいんですか……」
浴衣を着て、団扇《うちわ》をつかっている比沙の身を有里は気遣った。
「娘の頃から、夏まけのする体質《たち》どすよってに……、北海道は冬が寒むおすさかい、夏は凌《しの》ぎやすい思うたら、結構、暑うおすな」
「塩谷は少し山になるので、朝晩は涼しいようですけれど……」
「そういえば、どこぞにお針してくれはるお人知っといやしたら、おせとくれやす……」
「お針……?」
「へえ、大方は実家のほうで用意してくれはるようやけど、おしめや、ねんねこくらい、こちらでも作っておかんならん思いますよってに……」
「おしめくらいでしたら、私、お手伝いします」
「そやかて、赤ちゃんがおいやすのに……」
「ええ、でも眠っている暇に、ほどきものや直しものぐらい、お急ぎでなかったら出来ますし……」
「おおきに……、なんや知らんけど、冬のさなかのお産どっしゃろ、いろいろと気イつけんならんことが多いさかい……、いっそ、実家へ帰って産んだほうがええかしら思うてみたり……」
「御主人様はなんておっしゃっておいでです?」
「あの人は、なんでもお前のええようにせいとしか言わはらへん」
比沙はちょっと不満そうな顔をした。
「でも、とっても嬉しそうにしてらっしゃるって、主人が申しておりますよ」
「おたくは、まだ……?」
比沙が有里の眼をのぞき込んだ。
「…………」
有里は笑って首を振った。
「他人の子オ、育ててはって、自分のことがお留守になってはいけしまへんえ……」
「ええ……」
有里は眼を伏せた。
「あの……、おしめにする古い浴衣《ゆかた》見てくれはります……?」
比沙がいそいで話題をかえた。
「はい……」
「ちょっと待ってておくれやす……」
比沙はいそいそと立ちあがった。
その比沙が流産したのは、それからまだ半月とはたっていない夜のことだった。
関根の家から預ってきた浴衣を、有里がせっせとほどいていると、今日は夜番《よるばん》だったはずの雄一郎がひょっこり戻ってきて、いきなり、
「おい、大変だよ……」
有里の顔を見るなり言った。
「関根さんとこの奥さん、入院したんだ」
「ええッ」
有里は雄一郎のそばへ駈《か》け寄った。
「流産らしい……昨夜だ……」
「まあ……」
そう言ったきり、有里は絶句した。
「お前、今夜、奈っちんが寝たら、隣りの小母さんにでも頼んでおいて、札幌まで行ってくれないか……、関根さんの奥さんのところだ……」
「はい、そうします」
「鉄道病院だから、ちゃんと看護婦さんもついてるはずだが、やっぱり、なにかと心細いだろうし……」
「ええ……」
有里は、あんなに嬉しそうにしていた比沙のことを想い浮かべると、すっかり気が動転してしまい、これからいったい何をしたらいいのかさえ判らなくなってしまった。
「しかし、奈っちんは大丈夫かな……」
「あの子は、近頃、ミルクを飲んで寝てしまえば、朝までぐっすりですもの……」
「じゃ、そうしてくれ。千枝をとも考えたが、場合が場合だから、千枝よりお前のほうがいいだろう」
「関根さんはどうしていらっしゃいますの、病院にずっとついていらっしゃるんですか?」
「いや、昨夜は夜っぴて病院に居ったそうだが、今朝は定刻に出勤されている。あいにく駅長がまだ休んどられるし……、関根さんという人も、あれで、なかなか責任感の強い人だから、休まないんだろう……」
「私、なるべく早く札幌へ行きます」
「うん、頼む……、じゃ、俺は駅へ帰るから……。ひょっとすると、二、三日家へ帰れんかもしれん、なるべく関根さんの宿直かわってあげたいと思っとるから……」
「はい、あなた、体に気をつけて……」
「うん……」
二人はこの日、そのまま別れた。
そして、関根比沙の流産が、その後どんな大事件につながって行くか、二人は全く知るよしもなかったのだ。
その時の塩谷駅は、坂本駅長が風邪から肺炎を併発して長期にわたり休んでいたため、助役の戸波と予備助役の関根重彦とが、駅長の仕事を代行するという形になっていた。
塩谷の駅は、上り下りともに単線であった。
上り列車と下り列車のすれ違いは、駅の構内で行われる。
地方の単線の区間を走る列車に乗ったことのある方は、経験されたことだろうが、駅の構内で、「上り列車との待合せのため、何分停車……」などという指令や、又、駅長と機関手とが駅の発着ごとに交換する、まるい輪の端につけられた小さなケースの中の、タブレットと称する通票など、いずれも単線のため、線路上で上りと下りの列車が鉢合せしないための配慮である。
従って、単線区間の場合は、駅では絶対に事故の起らぬよう、列車を発車させるにしても、通過させるにしても、又、構内に進入を許すにしても、すべて運転指令に基き正確に慎重に隣り同士の駅と連絡をとり、それによって信号とポイントの操作を行っている。
一方、列車を走らせる機関手は、あくまでも信号に忠実に列車を走らせることを義務としているのである。
以上のことでも判るように、鉄道員にとって、事故は起すべからざるものであり、鉄道の業務がすべて正確に行われているかぎり、絶対に起る筈《はず》のないものであった。
しかし、事故は起り得べからざる時に起る。そして……、人間は神ではなく、鉄道員もまた、人の子であった。
大正十五年七月二十九日の黒い翼は、函館本線塩谷駅に、音もなく舞い下りた。
その時刻。
塩谷駅で働いていたのは、予備助役の関根重彦、出札係の室伏雄一郎、改札係の岡田均以下ポイントマンその他合計八名であった。
坂本駅長は欠勤、助役の戸波はちょうど勤務時間が終えて、駅から歩いて二分ほどのところにある官舎へ帰っていた。
つまり、駅長、助役の仕事を代行していたのは、どちらかというと現場にはまだ不馴れな関根重彦であった。
その時の列車交換に関する運輸事務所からの緊急指令を受けたのは、従って、関根重彦だったのだ。
『上りの急行列車が二十三分遅れのため、塩谷駅で、臨時に下りの普通列車を行き違い変更させる』という指令である。
平常のダイヤでは、急行列車は塩谷駅には停車しない。この上り急行列車は、本来ならば、蘭島《らんしま》駅で下りの普通列車と待ち合せ、すれ違う筈であった。しかし、二十三分遅れのこの上り急行列車は、平常ダイヤ通り塩谷駅を通過してそのまま驀進《ばくしん》して行けば、定時に蘭島駅を発車した下り普通列車と、まともに正面衝突してしまうことになる。
だから、蘭島駅でなく、塩谷駅での行違い変更の指令が発せられたのである。当然、この指令により、塩谷駅では上り急行列車の臨時停車の手配をすべきだった。
ところが、どう魔がさしたものか、この運転指令を黒板にきちんと記録しておきながら、関根重彦は塩谷駅の関係者たちに、急行列車を停める連絡を失念した。
おそらく、二日間も病院で、妻の容態を案じつつ徹夜した疲労もあったであろう。初めての子の流産というショックもあった。しかも、現場に不馴《ふな》れなという悪条件が重なった。ベテランの駅長、助役が二人ながら不在であったというのも、いってみれば一つの運命を決定したといえる。
塩谷駅の信号は、小樽を発車した急行列車を通過させるべく、場内信号も通過信号もすべて青のままであった。
そして逆の方向からは、下り普通列車が定刻どおり、すでに蘭島を発車し、塩谷へ塩谷へと近づきつつあったのだ。
それは、ちょうど夕刻のことで、出札も改札もかなりいそがしかった。
駅全体が、いつもの通り、定められた歯車の噛《か》み合せで回転していた。
駅の事務室に居たのは、だから、妻の容態を気にして落着かない関根と、出札の窓口に坐っていた雄一郎の二人だけだった。
しかも、最初に異常に気がついたのは雄一郎だった。長年の勘が働いたのである。
彼は出札をしながら、いつものように近づいてくる下り普通列車の音を聞いていた。ところが、何故か彼は、
(おや……?)
と思った。いつもとは駅へ接近するスピードが違う。ブレーキのかけかたが異常である……。そして、次の瞬間、彼の耳はけたたましい汽笛の断続音をとらえた。
(なんだろう、あの汽笛の音は……?)
しかも、列車は場内には入らず、信号機の手前で停止した様子だった。
雄一郎はなに気なく関根のうしろの黒板に眼をやって、思わず、
「あッ!」
と声をあげた。
そこには、先刻関根重彦が受け取った、塩谷駅での行違い変更の指令が書かれてあったのだ。
下り普通列車の機関手は、すでに塩谷駅での行違い変更の指令を受けていた。当然ホームへ入るつもりで来たのに、下り場内信号が赤になっている。彼は一応列車を停止させ、警笛を鳴らして、塩谷駅に注意をうながした。その音を雄一郎が聞いたというわけだった。
彼が咄嗟《とつさ》に考えたことは、急行列車を一刻も早く停めるということだった。
「たいへんだ。急行が来る!」
あとは何を叫んだか憶《おぼ》えていない。
雄一郎は夢中で事務所をとび出し、信号機のリバーにとびついた。
彼の眼には、黒煙を噴きつつ、まっしぐらに接近する上り急行列車の姿が、まるで大きな魔物のように映っていた。
気が動転しているせいか、膝《ひざ》ががくがくし、腕にもまるで力がはいらない。抱きつくような恰好《かつこう》で、雄一郎は次々とリバーをあげて行った。
まず場内信号機の青が赤に変り、次いで通過信号機、出発信号機が青色から赤色の光に変った。
急行列車の機関手が急ブレーキをかける。けたたましい金属音の悲鳴が聞え、車輪と線路の間で火花が散った。
巨大な鉄の塊である機関車は、乗客を満載した客車の列を引いたまま、すぐには停止できずに、線路上を滑った。同じ線路の上には普通列車が停止している。
雄一郎は思わず眼をつぶった。
そして、次の一瞬の結果を待った。
が、結果は、無気味なほどの静寂さだった。すべてのこの世の動きが停止してしまったのではないかと思えるほどの静けさだった。
雄一郎は、そっと眼を開けた。
急行列車は普通列車の約百五十米くらい寸前でぴたりと止まっていた。
(助かった……事故は防げた……)
急に全身の力が抜けて行くのを感じた。
と同時に、
(もう、一秒間、機関手がブレーキをかけるのが遅れていたら……)
そう考えると、雄一郎の全身に冷汗がふきだした。
ふと気がつくと、彼のすぐうしろに、関根重彦が蒼《あお》ざめ、虚脱したような眼で二台の機関車を眺めていた。
「関根さん……」
「室伏君……」
二人はどちらからともなく駈《か》け寄り、しっかりと抱き合った。
「よ、よかったですねえ……」
「ありがとう……、室伏君、ありがとう……」
関根はぼろぼろ涙をこぼしながら泣いていた。