南部斉五郎が鉄道を去り、関根重彦夫婦が東京へ転勤となったその年の暮。
大正天皇の崩御があって、年号は大正から昭和とあらたまった。
翌年の春。
室伏雄一郎は予定通り車掌科の試験に合格し、札幌での教習期間を卒《お》えて、函館本線の車掌見習として勤務することになった。
その最初の日、雄一郎は小樽の列車従事員詰所で、車掌監督助手吉川の点呼を受けた。
先輩の車掌三田が挙手の礼をして、
「車掌三田、車掌見習室伏、制動手村林、只今より上り四十二列車に乗務します」
と報告する。
「御苦労さんです……」
それから、四人は時計の針を調整する。
そうしたことの一つ一つが、昨日とはまるで別の世界のことのように、雄一郎には新鮮に感じられた。
ホームには、四十二号列車が白い煙を上げて停車している。雄一郎にとっては、車掌として乗務する最初の列車だった。
「おや、室伏さんでないかい」
機関助手席から岡本良平が半身をのり出して雄一郎を呼んだ。
「やあ、すごいなあ……」
良平は、真新しい胴乱《どうらん》を肩にした雄一郎をしげしげと見た。
「いよいよ車掌さんだね、お目出度《めでと》う……」
「ありがとう……、君もいよいよ機関車に乗ることになったんだな」
「うん、それがね……、本当はまだなんだがね……」
良平はちょっと憂鬱《ゆううつ》そうな顔をした。
「実は当分、機関車とお別れせんならんでね、いま名残りを惜しんでいる最中なんだ……」
「どうして?」
「徴兵検査でねえ……」
「なんだ、君、まだだったのか」
「室伏さんはすんだのかね」
「もうとっくさ」
「へえ……室伏さん、体格がいいで、てっきり甲種《こうしゆ》合格かと思うとったが、そうでなかったのかね」
「残念ながら第一乙種だった。ロクマクのあとがあったんだとさ……、知らないうちにわずらっとったらしい……」
「そうかね……」
良平は頷《うなず》いてから、声を低めた。
「ま、大きな声ではいえんが、乙種でよかった……、家族のもんが可哀そうだでのう」
「君んとこ、親父さん一人だけだったな」
「うんだ、俺が居らなんだら不自由だでなあ……けど、まんずお国の為だで、仕方ないがね……」
「うん……」
雄一郎は時計を見た。そろそろ行かなければならない。
「じゃ、又……」
軽く敬礼した。
「ああ、じゃ……」
近頃、二人がどんなつき合いかたをしているか雄一郎は知らなかったが、良平は千枝のことをおくびにも出さなかった。
朝早く家を出ても、長万部《おしやまんべ》往復をして、詰所で勤務のあとの事務、引きつぎなどをしていると、どうしても帰宅は夜半に近くなる。
有里はたいがい甘酒をあたためて、雄一郎の帰りを待っていた。
時には千枝も、甘酒を目あてで起きていることもある。
雄一郎は、千枝に良平の徴兵検査のことを話してやった。
「へえ、良平さん、兵隊に行くの……?」
千枝は眼をまるくした。
「そりゃ、検査が済まなければわからん」
「甲種っていうのだと行くんでしょう」
「うん……」
「あの人、甲種になるかね」
「まあ、機関手になるもんはたいがい体がいいからな」
「そういえば、兄ちゃんは乙種だったね」
「ああ、みかけ倒しだと怒られたがなあ」
「あの人も、ロクマク、知らんうちに患った痕《あと》でもあるといいね……」
「こら、お前そんなこと外で言ったらいかんぞ」
「知ってるよ……」
千枝は首を縮めた。
「でもさ、あの人んちは良平さんが兵隊に行っちまったら可哀そうだよ」
「だがまあ、訓練うけるだけだからな……、日本が戦争してるわけではなし……」
「だけど、戦争起ると、甲種の人、すぐ出征するんだね」
「まあな……」
「嫌だねえ……、戦争なんぞ起らんといい」
「お前、今でも岡本とつき合ってるのか」
「うん……、ここんとこお互に忙しいんで、ちょっと御無沙汰《ごぶさた》してるけどね」
「お前もそろそろ嫁に行かなきゃならん年齢だからな、あまり、変な評判立てられんように気をつけろよ」
「わかってるよ、そんなこといちいち言われんでも……」
千枝は面倒くさそうに言って立ちあがった。
「なにさ、あんな万年|釜《かま》たき……」
「そのうち機関手になるさ」
「いつのことか知れんよ、釜たきになるのだって何年かかったか知れやせんもの」
「お前、嫌いか、あいつ……」
「別に嫌いじゃないけど……」
「嫌いじゃないけど、どうなんだ、結婚する気はあるのか……?」
「誰と?」
「岡本とさ」
すると、千枝は声をあげて笑いだした。
「やだあ、兄ちゃん……あんまり変なこといわんでよ……」
「なんで……」
「それだって……つまらんよ、あんな奴……」
千枝はまだ笑っていた。
しかし、岡本良平が明日徴兵検査に発つという日、千枝は良平の家を訪ねた。
良平は前掛をかけ、夕餉《ゆうげ》の仕度をしていた。
「やあ、千枝ちゃんでねえか……」
良平はあわてて前掛をとった。
「まあ、上れや」
「お父さんは?」
「最終列車が出んと戻らん」
「へえ、保線て、いつもそんなに遅いの」
「いいや、うちの爺《じい》さまだけじゃ、休みもめったにとらんしのう」
「ふうん……」
「ちょうど飯の支度してたとこだ、どうだ、千枝ちゃんも一緒に食ってかんか、いつも一人でつまらん思いしてるんだ」
「そうね、食べてもいいよ……私、手伝ってあげるよ」
千枝は良平のとった前掛をして、気安く上へあがりこんだ。
「あれ、こんなところにお裁縫がしかけてあるよ……」
畳の上に、縫いかけの袷《あわせ》が放り出してある。
「これ、あんたが縫ったの?」
「うんだ、うちは女っ気がねえもんだで……」
「ふうん、まめしいねえ」
千枝はすっかり感心した。
「料理だって出来るし、あんた、これじゃったら嫁さんいらんね」
「そったらことねえ、嫁さんはやっぱり貰わねえといかんね」
良平は真面目な顔になった。
その顔を見て、千枝はちょっと満足そうだった。
「そんなら、あんた、どんな嫁さん貰いたい?」
「そりゃ……」
良平はちらと千枝を見た。
「めんこい嫁さんがいいよ」
「めんこい嫁さん……」
千枝はますます機嫌がいい。
「でも、あんた、どこかに好きな女の人いるの?」
「そったらこと知らんね」
「知らんことないでしょう、自分のことじゃないの……、いたんでしょう、好きな人」
「そりゃ……居る」
「えっ、居ったの……?」
千枝は驚いて良平を見た。
彼女はこの際、良平の過去をのこらず聴いておくべきだと考えたのだ。しかし、良平のことだから、まさか、そんな気のきいたことの出来る筈《はず》はないと多寡《たか》を括《くく》っていた。だから、彼が過去に女が存在したと言ったとき、自分の耳をうたぐった。
「ほんとに……?」
「はあ……居る」
良平は苦笑した。
「ふーん、居るの……、めんこい人?」
「はあ、めんこいね」
「美人……?」
「はあ、美人じゃ」
良平はさばさばした顔をしている。
千枝は次第に呼吸がせわしくなるのを感じた。
「そいで、あんた、今でもつき合っとるの」
「はあ、つき合っとる」
「長いこと……?」
「はあ、かなりになるねえ」
「そんなら、さっさと結婚したらええのに……」
「はあ……実は、俺もそう思っとるね……」
さすがに、それだけは小さな声で言った。
千枝は眼の前が暗くなるような気がした。
「さあ、千枝ちゃん、食ってけれ……」
良平がごしょいもの煮たのを、ドンブリに山盛りにして持って来た。
「もう、いらん……」
千枝は立ち上った。
「そったらこと言って……千枝ちゃん、ごしょいも好きだって言ったでねえの」
「いらん」
「千枝ちゃん……」
「いらんいうたら、いらん」
「千枝ちゃん……」
良平がいまにも泣きだしそうな表情をした。
「良平さんの馬鹿、意地悪……あんたなんか嫌い……」
千枝は前掛をとって、良平に投げつけた。
「お前なんか、熊に食われて死んじまえ」
そのまま外へとび出して行った。
「あっ、千枝ちゃん……」
あとを追おうとして、良平は汁の鍋《なべ》をけとばした。
「なんたらことだべ……、さっぱりことわかんねえ……」
良平は首をかしげて、考え込んだ。