雄一郎との約束の時刻より多少早目に、三千代はうなぎ屋の暖簾《のれん》をくぐった。
女中に案内されて二階へ上る。
(ほんとに何年ぶりかしら……)
三千代は懐しさに胸が熱くなった。
なにもかも昔のままである。
古びたうなぎ屋の二階の部屋は、古びたままに、そっくり元のままだった。
小樽の町も、丘も、空も……、なにもかも昔のままなのに……、自分一人だけが変ってしまった。
三千代には、それが悲しかった。
三千代は花巻の家へ嫁ぐ前、はじめてこの部屋で雄一郎と逢った晩のことを思い出した。
二人の間に愛の芽生えがあることに気づき、また、三千代が花巻利夫の妻になることを好んでいないと知った南部斉五郎の、いかにも苦労人らしい配慮からだった。
しかし、三千代が部屋の襖《ふすま》を開けると、雄一郎は座布団を枕にして、大の字になって眠っていた。
南部の粋なはからいも、並はずれて背も高く、でっかい体をしているくせに、恋には初心《うぶ》な雄一郎には通用しなかった。
雄一郎は、あとから三千代が来るともしらず、南部がちらと漏《も》らした三千代の結婚話で、もはや目がくらむような絶望と悲哀のどん底に叩き落されたような気がした。
たいして飲めない酒をコップであおったため、前後不覚に寝込んでしまったのだった。
雄一郎がいつまでたっても目を覚まさないので、三千代は雄一郎の胸に、そっと自分の羽織をかけて家へ帰った。
港から、出船の汽笛が聞えていた。
雄一郎はまだ現れない。
三千代はそっと出窓の障子をあけてみた。
霧がたちこめて、小樽の町は墨絵のようにかすんでいた。
三千代が二階へ上って間もなく、この家の階下へ千枝と良平が這入《はい》って来た。
一番奥まった、あまり人目に立たない場所をえらんで席をとった。
「ほんとによかったね、大きな声じゃいえんけど……くじに落ちたなんて、運がよかったよ。甲種合格と聞いたときはほんとにどうなることかと思っちゃったんだ……」
「うんだ、知らせ持って来た役場さ人も、なんとなくにやにやしてたよ。残念じゃったのう、だと……」
「お腹ん中は誰だって同んなしだよ……」
「兵隊さ行くのはちっとも嫌でねえだども、機関車さ乗れなくなるのと、お父つあんが心配だでのう……それに、ぼつぼつ嫁さんさ貰わねえといけねえしなあ……」
「え、貰うの、嫁さん……?」
「はあ、貰えたら貰いたいでなあ、どうやら試験も受かったこんだし……」
「…………」
千枝が寂しそうな顔をしたのに、良平は気づかなかった。
「あのなあ……この家の二階なあ……」
良平が照れくさそうに、口ごもった。
「いっぺん、千枝ちゃんとここの二階でうなぎ食いてえべさ……」
「二階と下と、うなぎの味が違うのかい」
「そうでねえよ……」
良平はちらと千枝の顔色をうかがった。
「あのな……千枝ちゃん、怒らねえかな」
「なんで、あたいが怒るのよ」
千枝は良平をにらみつけた。
「ほ、ほれほれ……」
「怒らんよ、怒らんから言ってみな……」
「この家の二階なあ……ほんとは好き合ってるもん同士が飯くいに来るんだと……」
「うん……?」
千枝はまじまじと良平を見た。
それから、ぽっと赤くなった。
「やーだ、そんだらこと……」
「そんだって、仕方なかんべ、好きだもんな……」
「やーだ、良平さんたら、こんだら所で……おお、恥かしい……」
千枝は着物の袖《そで》で顔をおおった。
註文のうなぎ丼《どんぶり》がきても、千枝は箸《はし》をとらなかった。
「ほんとに良平さん。千枝のこと好き……?」
「ああ、好きだ」
「いつから……」
「いつって……そうだね、売店で逢うてからだべ」
「アンパン買いに来たころだね」
「ンだ……」
「だったら、なんでもうちっと早く言わんの……」
「そったらこと、気まり悪くて言えっか……」
「千枝のこと、めんこいと思っとる……?」
「ああ、思っとる」
「……どんなところが好き?」
「どんなところちゅうて……みんな、ええよ」
「お嫁に欲しいんだね」
「ンだ、欲しいよ」
「お嫁に行ったら大事にしてくれる?」
「そら大事にするって……床の間さ置いて、おがんでやってもええ……」
「またそんな、冗談ばっかし……」
「とにかく、俺は今日でも明日でもええけど……」
「はんかくさ……まだあんたのお父さんやうちの兄ちゃんや、姉ちゃんにも許してもらわないかんし……、それに、女にはいろいろ仕度もあるのよ、猫の子が貰われて行くのとは違うんだから……」
「そりゃ、そうだべ……、けど、早けりゃ早いほどええでね……。長いこと辛抱《しんぼう》しとったが、好きじゃちゅうて打明けてしまったら、胸がすっとして……なんたら、こう、あずましい気分だべ……」
良平は嬉《うれ》しくてたまらないといった顔をした。
ちょうどその時、良平は背中を向けていて見えなかったが、三千代との約束の時刻に遅れた雄一郎が汗をふきふきとびこんできた。
「あれッ……」
千枝が目を瞠《みは》った。
「なんだべ……」
良平もうしろをふりかえって、雄一郎を認めると不安そうな色をうかべた。
「まずいかな、こんなとこ見られて……」
だが、雄一郎は二人に気づかなかった。
「連れの者が先に来てると思うが……」
「はい、室伏さんですかね……」
「そうだ……」
「さっきから、お待ちでいらっしゃいますよ」
そんな、女中とのやりとりが聞えた。
「兄ちゃん、誰と待合せだろう」
「二階で鉄道の寄合でもあるんでねえのか」
「だって、この家の二階、惚れ合ってるもん同士が来るとこだって言ったじゃないか」
「そんでも、まあ、男同士ってこともあるだべさ」
「あんた、兄ちゃんのことかばってるんだね……、男の人って、浮気するときお互にかばいっこするっていうけど、あんたもいまに浮気するとき兄ちゃんにかばってもらおうと思って……、そいで兄ちゃんにゴマすってるんだね……」
「ちがうよ、千枝ちゃん……、そったらこと、今から考えとりゃせんてば……」
「わかるもんか……」
「しようがねえ千枝ちゃんだなあ……」
「ちょっと二階さ見てこようかな」
「や、やめれってば……」
「だって、相手が男なら、構わんでないの」
「そんでも、はあ、そったらことよしなよ、俺たちがそんなことされたら嫌だべさ」
「だども……」
千枝はそっと二階を見上げた。
しかし、千枝が心配するほどのことは、なにもなかった。
うなぎ屋の二階で三千代と雄一郎が語り合ったのは、ほんの一時間ばかり、それも、話題は主に退職中の南部斉五郎のことだった。
三千代は雄一郎の家庭についての話題を避け、雄一郎も三千代の結婚後のことには触れようとしなかった。
お互に聴きたいようで、聴きたくないような複雑な気持のまま、二人は次の雄一郎の休みに小樽でもう一度逢う約束をして別れた。
千枝と良平は、三千代の顔を見なかった。そうすることが、人間同士の大切な礼儀のように思われたからだ。
千枝も良平も、なんだか自分たちが急に一人前の人間になったような気がしていた。
その夜、二人は嬉しさのあまり、すこしいつもの破目をはずすことにした。
良平の教習所のある札幌へ行き、活動写真を観てもう一軒、つぶ焼きの店へ這入った。
「さて、ぼつぼつ行かんと、塩谷へ帰る列車、出てしまうで……」
「まだ、平気よ……」
千枝はつぶを食べながら言った。
「そんでも、乗りおくれるといかんで……」
「あんた、そんなに千枝のこと早く帰したいの?」
「そったらこと、ねえが……」
良平は残った酒を手酌でついだ。
「あたいにも、お酒ちょうだい……」
「千枝ちゃん、いかんでよ、そんなもん飲んだら……室伏さんに叱られるで……」
「あたい、お酒くらい飲んだことあるよ……」
「そいでもなあ……もう、時間だで……」
そういう間にも、千枝は二つ三つ盃《さかずき》を重ねた。
「おばさん、つぶ焼きちょうだい」
「千枝ちゃん……」
「お金なら、あたい持っとるよ」
「弱ったなあ……」
「だって……」
千枝が急にしょんぼりした。
「今夜、わかれると……、当分逢えないんだもん……」
「ンだなあ……」
良平も肩をおとした。