はじめて良平と札幌ですごした休みの一日を、千枝は少々楽しみすぎていた。
ようやく互の気持を確め合った嬉しさもあったし、いつもの小樽の町でなく、たとえ汽車で一時間足らずとはいえ、家から離れた土地へ来ているという解放感も手伝ったかもしれない。
千枝は陽気に酔っ払った。
そんな千枝に気を遣っているうちに、良平も無理にころして飲んでいた酔いが急に上って来てしまった。
「おいしいね……」
「うん……、うまいね、千枝ちゃん……」
二人は子供のように単純になり、二人だけの世界を楽しんだ。
「あたい、良平さん、大好きだよ……」
「俺だって、千枝ちゃんが大好きだべさ」
「はい、お酌……」
「へえ、へえ、ありがと……」
二人の頭の中には、最終列車の時刻のことも、家で心配している家族のことも、あとかたもなく消え去っていた。
二人は遂に最終列車に乗り遅れた。
「あの馬鹿、今頃までなにしてるんだ……」
雄一郎は心配のあまり、家を出たり這入《はい》ったりしていた。
「あなた、やっぱり何かあったんでしょうか……」
有里もおろおろと土間へ出て来た。
「お腹がいたくなったとか……道に迷ったとか……」
「馬鹿、子供じゃないんだ、朝から出掛けて……いったい今、何時だと思う……」
「すみません、もうすこし行先をよく聴いておけばよかったんです……、私がぼんやりしていて……」
「お前があやまったって仕様がない……」
「でも……」
「列車が遅れることはないと思うが、俺、ちょっと駅まで行ってくる」
雄一郎は言い捨てると、たちまち闇《やみ》の中へ消えた。
独りになると、有里は俄《にわか》に落着かなくなった。
雄一郎が居るあいだは、彼に話しかけることによって、多少とも気が紛《まぎ》れたのだが、独りで考えることといったら、すべて千枝に関する不吉な場面ばかりであった。
お金を落したのなら、駅で雄一郎の名前を言えば貸してくれる。病気や怪我なら病院から連絡があるはずだ。何かの原因で意識を失っているか、それとも誰かに監禁でもされていない限り、今頃まで、家に何んの音沙汰《おとさた》もないというのは変だった。
一時間ほどして、雄一郎が一人で戻って来た。
「あなた、千枝さんは……?」
「…………」
雄一郎は首を振った。
炉端《ろばた》に坐って、溜息《ためいき》をついた。
「あなた、千枝さんのこと何もわからなかったんですか」
「駅で、札幌の教習所の寮に電話してみたんだ……岡本良平がいるかどうか……」
「岡本良平さん……?」
有里は、はっと思い出した。
そういえば、近頃、千枝と良平についてとかくの噂《うわさ》を耳にしたことがある。
売店の小母さんなどは、先日、わざわざそのことで家まで注意しに来てくれたほどだ。
「それで、どうだったんです?」
「岡本もまだ寮へ帰っとらんそうだ……」
「でも、まさかあの二人が……きっと偶然です……」
「偶然かも知れん……そうでないかもしれん……」
「いったい、どこに居るんでしょう……千枝さん……」
雄一郎は腕を組んで考えこんだ。
一刻も早く千枝を探したいのは山々だが、彼女の居場所が知れなくては、探しに出ることも出来なかった。
奥の間で奈津子が泣いたので、有里はいそいで奈津子を寝かしつけに奥へ這入った。
どのくらい時間が経っただろうか……。
奈津子が寝ついて、ほっとしたとき、表戸を叩《たた》く物音がした。
「はい、いま開けます……」
雄一郎が緊張した声で言い、戸を開けに立った。
やがて、表戸の軋《きし》む音と共に、男の声で、
「たった今、駅へ札幌から電話連絡が入った……」
報告するのが聞えた。
「岡本良平からじゃったが……」
声の主は、どうやら塩谷の駅の佐藤らしかった。
「千枝も一緒か……?」
「ンだ、お前が心配するといかんで、なんとか連絡してくれということだった……」
「あいつら、今、どこに居るんだ」
「それが……札幌の警察署からだ……」
「なに、警察……」
「なんでも、札幌で二人ともすっかり酔っ払ってしまい、川っぷちに寝とったところを巡査に見つかったらしいんだ……千枝ちゃんがどうやら商売女と間違われたかして、だいぶ面倒なことになっとるらしい……」
「千枝が商売女……?」
雄一郎の声が変った。
「千枝の奴がそんな女に間違われたのか……」
有里は、そっと足音をしのばせて、部屋を出た。
「なにしろ、時間が時間だでなあ……とにかくお前、駅から警察へ電話してみたらどうだ、四時になれば一番が通るで、札幌へ迎えに行ってやるにしても、千枝ちゃんの身許だけは、はっきりしておいてやったほうがええぞ……」
「うん……」
雄一郎がちらと時計を眺めて、むずかしい顔をした。
「あなた、今朝の勤務早かったんでしょう」
「何時だ?」
佐藤が聴いた。
「小樽発八時十二分の二十八号列車だ……」
「そりゃまずいな……」
佐藤が顎《あご》をなでた。
「警察へ行ったら、とても八時までには無理だな」
「そうなんだ……」
雄一郎は舌打ちをした。
「まったく、どこまで人に世話をやかせなきゃならんのだ、もう知らんぞ、みんな身から出た錆《さび》だ……警察ですこし反省すればいいんだ……」
「しかしなあ……そういうわけにもゆくまい……」
「あなた……」
有里がすすみ出た。
「私が行きます。あなたが駅から警察へ電話だけしといて下されば、四時の一番で札幌へ行って来ます」
「そうか……じゃ、すまんがそうしてもらうか……」
雄一郎がようやくほっとしたように言った。
だが、その頃、札幌郊外にある南部斉五郎の家でも、近くの交番の巡査に叩き起されていた。
「実はただいま本署から連絡があって、不審な行動をしとった男女二名を保護したところ、こちらの南部さんの知り合いだと申したそうで、念のため調べにまいったのですが……」
深夜のことなので、巡査も恐縮しながら言った。
「それはどうも御苦労さまでございます」
寝巻の上から羽織をひっかけた節子が応対に出た。
「それでその人たちの名前は何んと申しますのでしょうか……」
「女は室伏千枝、十九歳……」
巡査は手帳を読んだ。
「室伏千枝……まあ、あの子が……」
「やはり、御存知でしたか」
「はあ、よく存じております……。主人が鉄道に居たころ、大変に目をかけておりました者の妹でございますよ……」
節子はちょっと首を傾けた。
「でも、困りましたねえ……、あいにく今夜、主人は旭川《あさひかわ》のほうへ参って留守でございますが……」
「いや、別に御主人でなくとも結構ですが……、つまり警察では、しかるべき人を保証人として身柄をお引き渡し致すわけでして……」
「でもねえ、こんな夜ふけに……」
「おばあさん、あたし、札幌の警察へ行って来ます」
三千代が前にすすみ出た。
「お前ひとりでかい」
「でも、身許を保証するものがないと、千枝さん、いつまでも留置されていなければならないんでしょう。可哀そうだわ、どんなにか心細いでしょうし……」
「それでも、お前、まだ外は真暗だよ」
「仕度して、歩いているうちには明るくなるわ……、お巡りさん、その人、間違いなくうちの知り合いですから、どうかあんまりひどいことをしないように連絡しておいてくださいな」
三千代は身を翻《ひるがえ》すと、奥へ駈《か》け込んで行った。