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盆踊りの夜から、雄一郎と有里の間に微妙な心のくいちがいが生れた。
夫が自分に嘘《うそ》をついている。
留守中に岡本新平が訪ねて来たことを、雄一郎が隠している……。
そのことが有里にはショックだった。
けっして疑うまい、疑ってはならないとあせればあせるほど、その気持と裏はらに、有里の心の中の夫への不信は芽をふき、枝をのばして行くばかりだった。
おたがいの心をおたがいに隠そうとする余り、雄一郎と有里は逆に口数が多くなっていった。
そのくせ、会話は二人の心を通り抜けず、上っ面だけをなでて通って行った。
心の通い合わない会話を持つ空《むな》しさは、いっそう夫婦の間に違和感を増した。
そんなある日、雄一郎と千枝をいつものように送り出してしまってから、有里は気をとり直して戸棚の整理をはじめた。
結婚して二年目である。ぼつぼつ使い古した衣類だの、縫い直しをしなければならないものなどが出て来ている。
有里は古いものと、まだ使えるものとを丹念によりわけ、一つずつ整理して行った。
そうしていると、不思議と有里は気持が落着くのだ。
昼近くなって、どうやら全部の整理が終り、最後に大きな箱を棚の上へあげようとすると、棚の奥にあったらしい小さなボール箱がはずみで下へころげ落ちた。
落ちた拍子《ひようし》に、箱の蓋《ふた》があいて、中から古い手紙の束が散らばった。
なにげなく拾いあげて、有里はどきりとした。白い封筒の差出人の名は三千代であった。
封筒の古びていることから察しても、その手紙は何年も前のものと思われた。
封をひらいて、中味を読みたい誘惑を漸《ようや》く堪え、有里はのろのろと手紙を箱の中へ納めた。
有里の胸の動悸《どうき》がはげしくなっていた。
(やっぱり本当だったんだ……)
こんな手紙を大事そうに保存しているところをみると、雄一郎はまだ三千代をきっぱり思い切っていないのに違いない。
有里は目の前が真暗《まつくら》になるような気がした。額に脂汗がにじんでいる。
(いいえ、そうじゃないわ……あの人を疑ってはいけない、あの人はそんなひどい人ではない……)
有里は果てしもなく広がる疑惑の中で、かろうじて踏み止《とど》まった。
噂《うわさ》は噂を呼ぶという。
また、四面楚歌《しめんそか》という言葉があるが、これは一夜あけてみたら、まわりはすべて敵の歌ばかり聞えて来たという、中国の故事である。
雄一郎の場合がそうであった。
旭川で雄一郎のとった行動にも、多少の無用心な点があったことは事実だが、世間はいつのまにか雄一郎と三千代の関係を抜きさしならぬもの、宿命の悲恋、道ならぬ恋ときめてしまっていた。
雄一郎は今更のように、噂の怖《おそろ》しさ、馬鹿馬鹿しさを知った。
噂に対して、雄一郎は沈黙を守りつづけた。それが、彼の唯一《ゆいいつ》の抗議であった。
しかし、雄一郎が沈黙することで、一層窮地に立たされたのは有里であった。
外からも内からも、有里は激しく心を苛《さいな》まれた。
井戸へ水を汲《く》みに行くと、それまで井戸端でにぎやかに喋《しやべ》りながら洗濯やら炊事《すいじ》をしていた近所の女たちが、みんな一斉に話をやめて有里を意識する。
有里が居なくなると、また待ちかねたように喋りだす。
狭い土地だけに、噂の伝わるのは早かった。
岡本新平が良平と千枝の縁談を断りに室伏家を訪れたことも、もうこの辺一帯で知らぬ者はなかった。
千枝はある日の夕方、勤めから戻ってきて有里の顔を見ると、いきなりワッと声をあげて泣きだした。
「千枝さん、どうしたの、ね、千枝さん……」
いくら尋ねても、千枝は理由を言わなかった。
恐らく、それを言えば、雄一郎と三千代とのことにも当然話が触れなければならないためだったからだろう。
毎朝、しょんぼりと家を出て行く千枝の後姿に、有里はまるで自分のことのように胸を痛めた。
また、三千代のことで有里を哀《かな》しませまいとする千枝の心遣いが嬉《うれ》しかった。
(千枝さん、だいじょうぶよ、こんなことくらいで負けはしないから……)
心の隅でそっと呟《つぶや》いた。
しかし、その頃頼まれて村の娘たちに裁縫を教えていたのを、村長から、娘たちへの影響上当分休んで欲しいと言われた時には、有里は完全にうちのめされた。
そんなにも、夫と三千代との噂が世間に広まっていようとは夢にも思わなかったのである。
流石《さすが》に有里はまっすぐ家へ帰る気になれなかった。
道を歩くのも辛かった。世の中のすべての人が、自分を笑っているような気がした。
有里の足はなんとなく海岸へ向った。
浜辺の漁船のかげに腰をおろして、ぼんやり海を眺めた。
海をみつめていて、有里は尾鷲《おわせ》の海を想い出した。
浜にうち寄せている白い波……。沖に浮かぶ、小さな島……。そこには幼い日の想い出がいっぱいに詰っている。
母は今頃なにをしているだろう……、兄は、姉は……、屋敷の庭の萩《はぎ》は今年も白い花を咲かせたろうか……。
だが、有里の幻想は、突然、大きな男の声で中断されてしまった。
「中里の有里さんじゃありませんか」
有里は吃驚《びつくり》して、ふりかえった。
白絣《しろがすり》に小倉の袴《はかま》を着けた若い男が立っている。有里の顔を見ると、ぽっと表情がかがやいた。
「尾鷲の……浦辺です。公一ですよ……」
「まあ、公一さん」
思わず、有里の声もうわずった。
浦辺公一は、尾鷲の村会議員、浦辺友之助の長男だった。
有里とは子供の時からの遊び仲間であった。
彼は母親と幼い時に死別し、その後、二度目の母が家にはいったということもあって、小学校を出ると、すぐ東京の学校へ入学し、そのまま、寄宿生活をしていて、めったに尾鷲には帰らなかったから、有里も、つい忘れるともなく忘れていた存在だった。
「お久しぶりです……実はこれからお宅をお訪ねするところだったんですよ」
公一は子供のときと同じように、厳《いか》つい体つきのわりに眼がやさしかった。
「いつ、北海道へいらっしゃったの」
故郷の尾鷲のことを想い出していたときだけに、有里は公一が眼の前に立っていることがまだ信じられない気持だった。
「それにしても、どうしてこんな所へ……」
「この春やって来ました、僕、北大へはいったんです」
「まあ……東京の学校へ行っていらっしゃったんでしょう」
「ええ、僕……やはり医学を専攻しようと思って……北大を志望したんですよ……実はこの春、三年ぶりに尾鷲へ帰ったらあなたが小樽へ嫁に行ったことを聞きましてね。北大へはいったら、すぐお訪ねしようと思っていたんですが、つい機会がなくって……」
「まあ、そうでしたの、懐しいわ……」
今の有里にとっては、百万の味方を得たように心強かった。
ともあれ、有里はこの幼馴染《おさななじみ》を塩谷の家へ案内した。
「この家ですの、とり散らかして居りますけど、ちょっと、お茶だけでも召し上って行って下さいな」
路地の奥の、尾鷲の実家にくらべたらまるでちっぽけな荒家《あばらや》だったが、有里はべつに気恥ずかしさは感じなかった。むしろ、自分たちの力で勝ちとった新所帯に誇りさえ抱いていた。
「私たちの結婚のとき、お父さまにはすっかりお世話になってしまって……」
「いやア、親父はああいうことが好きなんですよ。半分は道楽にやっているんです。かえってご迷惑だったんではないかと心配です……」
「いいえ、とんでもない、何もかもお父さまのお蔭ですわ……」
有里は土間の障子を開けて中をのぞいた。
今日は朝から千枝が腹痛をうったえ、売店を休んでいた。
「きっと寝冷えだよ、すこし寝ていればすぐ良くなるから、有里姉さんは補習に行っといでよ……」
千枝も言うし、顔色も案外良いので、有里は安心して出掛けたのだった。
だが、どこにも千枝の姿は見えない。
「千枝さん……ただいま……」
呼んでみたが返事がなかった。
勝手に外出するはずもないがと思いながら、念のため奥の部屋の襖《ふすま》を開けて仰天《ぎようてん》した。
千枝が蒲団《ふとん》から転がりだし、体を海老《えび》のように折り曲げて苦しんでいた。
「千枝さんッ、どうしたの!」
千枝は眼をあけたが、呻《うめ》くだけではっきりした言葉にならない。額にべったり脂汗が浮いていた。
「苦しいの……苦しいの、千枝さん……?」
有里は千枝の背中をさすった。
余程苦しいのだろう、汗で寝巻が湿っていた。
「ごめんね千枝さん、ちっとも知らなかったのよ……どこが痛いの、お腹……?」
千枝が顔をしかめて頷《うなず》いた。
「しっかりするのよ、千枝さん、いますぐお医者さんを呼んできてあげるからね……」
奥の異様な空気に気づいたらしく、
「どうしたんです?」
土間から公一がたずねた。
「すみません……義妹《いもうと》の具合がちょっと……朝からお腹が痛いっていってたんですけど、とっても苦しいらしいので……」
「そりゃいかん、近くにお医者さんありますか」
「診療所があるんです、路地を出て左へ行ったところ……」
「よしッ……僕、行ってきます」
公一は返事も待たずにとび出して行った。