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千枝の腹痛は急性盲腸炎であった。
診療所の医者はとりあえず、応急処置をして、患者の落着いたところで札幌の鉄道病院へ移して手術をすることになった。
居合せた浦辺公一は、さすがに医者の卵と自称するだけに、てきぱきと入院の準備を手伝い、有里と一緒に荷物を背負って札幌の病院までついて来てくれた。
鉄道病院の医師は、更に念入りな診察をしてから、
「やっぱり、手術は急いだほうがよいと思います。手遅れになると面倒ですから……」
と有里に告げた。
「あの……先生……手術に危険なことは……」
「いや、盲腸の手術はそんなに危険なものではありませんよ……それに、患者さんの状態も決して悪くはありませんし……」
医師はもの慣れた調子で言った。
出来れば雄一郎に相談したいところだが、彼はいま列車に乗務していて、早急に連絡のしようがない。
「ちょっと、義妹と話をしてもよろしゅうございましょうか」
有里は咄嗟《とつさ》に手術をさせる決心をしてから、医師に言った。
「かまいません……どうぞ……」
有里が病室をのぞくと、千枝がたった一人で心細そうな顔をして寝ていた。
「千枝さん……」
声をかけると、
「あたい、お腹切るんだって……切らないと死んじゃうんだって……」
いまにも泣きそうな顔で、しっかり有里の手を握った。
「だいじょうぶよ、千枝さん。盲腸の手術は簡単だって、お医者さんがおっしゃっていたわ」
「だけど姉さん、千枝、怖《こわ》いんだよ……姉さんそばに居てよ、千枝の手、しっかり持っていて……ね、お願い……」
「いいわ、傍《そば》に居てあげる……そのかわり頑張《がんば》ってね」
たった二年間、一緒に暮しただけなのに、千枝はまるで実の姉のように頼り切っている。有里にはそれが涙の出るほど嬉しかった。
ただそれだけで、北海道へ来た甲斐《かい》があったような気がした。
「頑張るのよ……」
有里はもう一度、しっかりと千枝の手を握って言った。
しかしそれは、半分は有里が自分自身に向けて言った言葉でもあったのだ。
千枝の盲腸炎は、患部が癒着しかかっていたため、手術はかなり長引いた。
手術の間中、有里は約束どおり千枝の手をしっかりと握りしめていた。
いくら簡単だといっても、手術は手術である。千枝は痲酔をかけられて朦朧《もうろう》としていたが、有里は流石《さすが》に顔色が紙のように蒼《あお》ざめていた。
だが、その眼はしっかりと手術の進行と千枝の状態をとらえてはなさなかった。
(私は結婚したときから、室伏の家を義姉《ねえ》さんから託されているんだもの……どんなことがあっても挫《くじ》けてはいけないんだわ……)
有里は心の中で繰り返した。
手術がようやく終り、廊下へ出ると、公一が走り寄って来た。
「どうでした。手術……?」
「成功だそうです、ほんとに有難うございました、みんな公一さんのお蔭だわ、私ひとりだったらどうなっていたか……」
「いや、僕はなにもしやしない……随分疲れたでしょう」
有里を抱きかかえるようにして壁ぎわのベンチへ連れて行った。
「すこしお休みなさい、でないと今度はあなたが参ってしまいますよ」
「公一さんこそ……勉強でいそがしいんでしょう」
「なあに……どうせ寄宿舎へ帰ったからって勉強なんかしやしません。友人とダベるか、将棋《しようぎ》をさすくらいがオチですよ」
「まあ……」
有里はやさしく公一をにらんだ。
「駄目《だめ》ですよ、ちゃんと勉強しなくちゃ」
「はい、済みません……」
公一が殊勝らしく頭を下げたので、有里はつい吹きだした。
ちょうどそこへ千枝の手術を執刀した医師が通りかかり、二人の会話は中断された。
「ありがとうございました……」
有里が立ち上って礼を述べた。
「やあ、もう御心配はいりません……順調に行けば一週間で抜糸できるでしょう」
「お蔭さまで……本当に、何とお礼を申しあげていいか……」
「いやいや……しかし、奥さんは気丈ですな、御婦人は血を見ただけで大概貧血を起されるものなんですが……いや、驚きました」
「まあ……」
有里は顔が熱くなった。
「一生懸命、我慢していただけですわ……」
「それがなかなか出来ないんですよ」
医師は笑いながら去って行った。
「嫌だわ……ああ、恥かしい……」
両手で、赤くほてった頬《ほお》を押えた。
それを眺めていた公一が、
「やっぱり変らないなあ……」
感に堪えたといった表情をした。
「何が……?」
「有里さんがさ……昔とちっとも変っていない……子供のころも、あなたは普段やさしいくせに、いざとなると馬鹿に勝気で、しんの強いところがあった……」
「あら、そうだったかしら……」
「そうですよ。僕はいつだって有里さんの……」
言いかけて、途中で口を噤《つぐ》んだ。
「でも良かった……あなたが昔とちっとも変っていないんで……安心しました」
すこし間を置いてから言った。
公一はそれからも、今夜は千枝の病室に泊るという有里の手伝いをしたり、弁当を買って来てくれたりしていたが、連絡を受けた雄一郎がようやく駆けつけて来たころには、彼の姿はいつの間にか消えていた。
有里が雄一郎に今日の出来事を話し、二人して公一に礼を言おうと捜したが、彼の姿はどこにも見えなかった。
そのときになって、有里はようやく、公一が子供のころ中里家の塀の白壁に、自分の名前と有里の名前をいくつも並べて落書しているところを発見され、こっぴどく叱《しか》られたことがあったのを思い出した。
(あの人も、ちっとも昔と変っていないみたい……)
有里はひとりでに微笑した。
(照れ屋で、人がよくって、世話好きで……世話好きなところはきっとお父さんに似たんだわ……)
このところ、辛い思いばかりしてきた有里の胸に、ようやくちょっぴり、暖い春のような陽射しがさし込んだ。
「おい、何を思い出し笑いしてるんだ……?」
雄一郎が不審そうに有里を見た。
「べつに、なんでも……」
有里は、だが、すぐに言った。
「公一さんがあんまり昔と変らないもんだから、ついおかしくなったんです」
「なんだ、そうか……」
雄一郎は頷《うなず》いたが、すぐ複雑な表情になって視線を逸《そら》した。