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横浜のクリーニング店、白鳥舎で働いているはる子は、千枝の病気のことも、雄一郎夫婦の危機も知らなかった。
伊東栄吉は休みを利用して、せっせと横浜へ逢《あ》いに来たし、二人の間には、やがてそろって北海道へ帰って行く日の計画が、つつましやかに語られはじめていた。
来月は歿《な》くなった両親の法要を塩谷で行なうことになっている。
はる子は、月が変ったら早々に北海道へ久しぶりで帰るつもりだった。
そのことをちらと伊東に漏らすと、
「そうか……そんなら俺《おれ》、はるちゃんと一緒に行こうかな……」
と言った。
「ええッ……」
まったく思いもかけないことなのではる子が眼をまるくすると、伊東は、
「厚かましいようだけど……法事にも出たいし、この際、雄一郎君にもはるちゃんと僕のことを正式に話をして来たいと思ってね……」
きわめてさりげなく言った。
「俺……もう、一人で暮してるの嫌なんだよ……法事がすんだら……むこうで仮祝言《かりしゆうげん》だけでも出来ないかな、どっちみち、東京ではきちんと式も披露《ひろう》もしなけりゃならんが……」
「そんな……困るわ……」
はる子の耳たぶが真赤《まつか》になった。
色の白い方だけに、首筋までも桜色に染っている。
「なにか、困るかい……?」
伊東は照れくさそうに、ぼそっと言った。
「別に困らないけど……でも、千枝の式もこの秋っていってるし……」
「こっちはその前にすませようよ、元々こっちのほうが先口《せんくち》なんだから……」
「また、そんな……」
はる子がやさしく睨《にら》んだ。
「でも……弟や妹に話すの、きまりが悪いわ……」
「話は俺がするよ、はるちゃんは黙って知らん顔しとりゃいい……」
「そんなわけに行かないわ、自分のことなのに……」
「なんのかんのといって、俺んとこへ嫁に来ない気じゃないのか、はるちゃん……」
伊東が遂に眉《まゆ》を顰《しか》めた。
「ちがうわ……違います……」
はる子はあわてて否定した。
「ただ、あんまり急だから、どうしていいかわからなくて……」
「はるちゃんは急かも知れんが……俺はもう七年間も待ってるんだよ……」
「ごめんなさい……」
「いいか、これ以上待たすと、もう、待ってやらないぞ、はるちゃん……」
伊東が笑いながらおどかした。
「嫌、嫌よ、栄吉さん」
はる子は伊東の腕にしがみついた。
伊東の言葉が冗談と分っていながら、はる子はおびえた。
(もし、ほんとうにそんなことになったとしたら……)
はる子は考えてみただけで、背筋を冷たいものが走るのを感じた。
折角つかまえたばかりの仕合せが、今にもするりと手の中をすべって逃げだしそうな気がした。
伊東はそんな彼女の不安に気がついたのか、
「はるちゃん……」
胸の中にしっかりと、はる子の体を抱きしめた。
その日は二人にとって、生涯《しようがい》に二度と無いような仕合せな一日だった。
伊東もはる子も、北海道での仮祝言のこと、東京での披露宴、結婚後の事柄について、ただもう夢のように語り合った。
そして別れぎわ、もう一度伊東は、
「はるちゃん、北海道へ帰る日がきまったらおしえておくれ、かならずいっしょに帰るからね」
と念を押した。
伊東は、はる子と別れると真直ぐ下宿へ戻った。
玄関をはいると、待ちかねたように下宿の小母さんが顔を出して、
「伊東さん、お客さまよ……」
二階の方を顎《あご》でしゃくった。
「もう二時間も待ってなさるんですよ」
「二時間も……」
「そう……」
ちょっと意味ありげな微笑を見せて、
「女の人よ……」
声をひそめた。
(女の人って……誰だろう……)
伊東の下宿へたずねてくる女の人といえば、はる子以外には無い。そのはる子にはついさっき別れてきたばかりである。しかも二時間も前から伊東の帰りを待っているという。
まったく心当りの無いまま、伊東は部屋の襖《ふすま》を開けた。
「お久しぶりでございます、お留守にお邪魔いたしまして……」
きちんと両手をついて挨拶《あいさつ》したのは、尾形清隆の娘和子だった。
稽古《けいこ》帰りの途中らしく、かたわらに普段楽譜入れに用いている鞄《かばん》が置いてあった。
「御無沙汰《ごぶさた》しています。尾形先生も奥さまもお変りありませんか」
伊東もあらたまって挨拶した。
「はい、おかげさまで……でも、父のほうはこのところお医者さまから御注意が出て居りますの……血圧が又、高いようですわ」
「そりゃあ……お気をつけにならんと……お酒を少しひかえられるといいのですが……」
「家では慎んで居りますのですけれど、他所《よそ》ではやはり……宴会が多うございましょう。秘書の大原さんがそれとなく気をつけて下さっているのですが、やっぱりねエ……」
「相変らず、夜はおそくなられますか」
「ええ、十時より早いことはめったにありませんの」
「そうですか……」
階段に足音がしたので、二人はふっと沈黙した。
小母さんが気をきかして、お茶をいれて持って来たのだった。
しかし、小母さんが去っても、和子はしんとうつむいて黙りこくっている。
「あの……僕に、何か御用だったんじゃありませんか?」
伊東は遠慮がちにきいた。
「ええ……」
「お一人でいらっしゃったんですか」
「ピアノのお稽古の帰りなんです……」
「ここへお寄りになること、お屋敷では御存知ですか」
「いいえ……」
「お嬢さん……」
「伊東さん」
和子が何か思いつめた表情で顔を上げた。
「私、あなたにどうしても直接、おうかがいしたいことがあったんです……」
「なんですか……?」
「私の周囲では……いつも、私に本当のことを言ってくれません。父も母も……大原さんも……ずっと前に、あなたがまだ家にいらっしゃった頃、父が私に申したことがございます。伊東さんをどう思うかって……」
和子はそっと視線をそらした。
「その頃の私……まだ子供で……あなたのこと嫌いではありませんでしたけれど……結婚するとか、妻になるなどということはずっと遠い世界のことで……とても、実感にならなかったのです。それでも、いつでしたか……あなたが、大阪へ出張なさっているお留守に北海道から……その写真の方がみえたとき……」
和子はちらと伊東の机の上に飾られた、はる子の写真を見た。
「嫉妬《しつと》というのでしょうか……ねたましいような、そんな気持になったことがございます」
「お嬢さん、その話だったら私は……」
伊東が口を挟もうとするのを押えて、
「あなたが私の家から出ておしまいになってしまって……私、うすうす気がついていたのです。伊東さんが私との縁談を嫌っていらっしゃる……ご迷惑なんだということが……。父や母は、あなたが屋敷を出ていらっしゃってから、あわてたように、私に見合をさせました……何度も、いろいろな方と……」
和子は話し続けた。
「どうしてもその気になれなかったんです、私……そんな私を見て、父はまた大原さんに相談したようですわ、私が伊東さんを忘れられないのなら、なんとかして、あなたと結婚させてやりたいと考えたのだと思います。どうしても、あなたが承知しないときは……あなたを恩と権力で金縛りにしてでも……馬鹿な娘を押しつけようと……」
「おやめなさい、お嬢さん……」
伊東はたまりかねて言った。
「ご自分のことを、そんな言い方されるのはおよしなさい」
「でも伊東さん……あなた、私との縁談をお断りになるとどうなるか、おわかり……?」
和子はちらと伊東の反応をうかがうような眼をした。
「父が鉄道省でどれくらいの実力者か、伊東さんのほうが御存知ですわね」
「失礼ですが……お嬢さん、尾形先生は公私を混同される方じゃありません……が、仮に私が先生の怒りにふれて、どういう立場に追い込まれようとも、私は自分の意志をひるがえそうとは思っていません……」
伊東は坐《すわ》り直すと、膝《ひざ》の上に両肘《りようひじ》を張った。
「私は妻を娶《めと》ることで出世の裏づけをしたくないのです。それでは、お嬢さんにも申しわけがない……又、長い間私が妻と決めていた女《ひと》に対してもすまないと考えています」
「……長い間……妻ときめていた女……」
恩人の娘という、一段高い所からものを言っていた和子の姿勢がぐらりと揺らいだ。
肩をおとして、はる子の写真を眺めた。
「その写真の方なんですのね」
「お嬢さんも、一度逢われたことがある筈《はず》です」
「そんなに……あの方が好きなんですか……」
「はあ……もう七年も待たされているんですから……」
「七年……」
「尾形先生が私を東京へ呼んで下さる前からのつき合いなんです……」
「そう……」
いまにも泣きだしそうなのを、持ち前の勝ち気さでからくも堪えていた。
「伊東さん……失礼なことうかがってよろしい……?」
「はあ、どうぞ……」
「あの方と伊東さん……七年前から……プラトニックラヴ……?」
「はあ、そうです……今でもそうです」
「そんなことがあるでしょうか……七年間も……」
「信用できませんか……?」
伊東は苦笑を浮かべた。
「信じられないけど……伊東さんがおっしゃるのなら、信じますわ……でも……よくお待ちになりましたのね、七年間も……」
「気は長いほうですな、どっちかというと……融通もきかんほうらしいですよ」
「何故もっと早くに結婚なさらなかったんです」
「最初のときは、むこうの都合が悪かったんです。家庭の事情で……つまり、彼女が経済的に一家を支えていたんです……そのあと、私のほうも東京の教習所に二年行っていたし、震災以後一、二年は鉄道の復旧やら開発などで夢中ですぎてしまったんです……」
「あの方が東京へ出ていらっしゃったのは、たしか震災の翌年でしたわね」
「そうです。あの頃が結婚できる二度目の機会だったんですが……」
「私のことで、こじれておしまいになったのじゃありません?」
「こじれるというより……連絡が切れてしまったんです」
「連絡……?」
「お嬢さんは、私がどうしてお屋敷を出たかご存知ないのですか……?」
伊東が不意に真剣な色を眼に浮かべて和子をみつめた。
「つまり、直接の原因です」
「父がなにかあなたに申し上げたのでしょう、私との結婚のことで……」
「そうじゃないんです……」
ふっと眼をそらした。
「実は彼女と私との間にとりかわされていた手紙が、お互いの手許に届かなくなっていたのです……」
「どういう意味なんですか、それ……」
「私はあの頃、手紙をお屋敷の加代さんに投函《とうかん》してもらうようにしていました。勤めに出る途中で出せばよかったんですが……いつも加代さんが出してくれるというので……届かなかったんですよ、その手紙が……」
「伊東さん……」
和子は眼を瞠《みは》った。
伊東の話は和子には寝耳に水だった。
事実としたら大変なことである。父もおそらくそのことは知らないだろう。
「ほんとうですか、それ……」
「こっちから出す手紙が届かないばかりじゃない……むこうから私へあてた手紙も、私の手には届きませんでした。それがわかったのは、今年の春、私が公用で北海道へ行き塩谷へ立ちよった時なんです……」
「母ですわ……」
突然和子がはっとしたように言った。
「母の仕業です……なんてひどいことを……」
「どなたの仕業でもかまいません、もうすんだことなんです」
「知りませんでした、私……本当に知らなかったんです。でも、やっぱりそれは私の罪ですわ……」
「どうしてですか、そんなことはありませんよ」
「いいえ、私が伊東さんをあきらめないから……それで母がそんな卑怯《ひきよう》なことを……」
「いいんです、もう誤解はとけたんですから……わたしたちは横浜で逢いました……七年ぶりでした。七年目に逢ってお互の気持が全く変っていないことを知ったんです。今度こそ、結婚しようと思っています……今度こそ必ず……」
伊東は夢みるような遠い眼つきになった。
だが、すぐ和子のことに気づき、
「お嬢さん、あなたのお気持は有難いと思っています。私のような男にはもったいないほどです……しかし、お嬢さんには私でなくとも、いくらでも仕合せの道があります」
とつけ加えた。
「伊東さん……」
和子はうらめしそうに言った。
「やっぱり私がお嫌いなのね……お嫌いだからそんなことをおっしゃるのね」
「いや、違います」
伊東は、はる子の写真を見た。
「この女《ひと》には、私しかいないのです。長い間、不仕合せを不仕合せと思わず、けなげに生き抜いて来た女なのです……私が仕合せにしてやらなけりゃア……絶対に仕合せになれん女だと……己惚《うぬぼ》れかもしれませんが、伊東栄吉はそう信じて居るのであります。どうか分ってください、お願いします……」
率直に気持を打ち明けて、頭を下げた。
和子はじっとうなだれて、彼の言葉を聞いていた。
一言一言が鋭く胸に突き刺さった。いっそ耳を覆ってしまいたい思いを、じっとこらえて聞いていた。
和子にとっては、生れてはじめて味わう敗北であり、屈辱だった。今まで、父の権力、地位を利用すれば、およそ通らぬものはなかった。
どんな傲慢《ごうまん》な人間でも、権力者でも、一言父の名を口にすれば簡単に尻尾《しつぽ》を振って来た。
ところが、ここにたった一人父の権力や地位、財産をもってしても、びくともしない人間が居たのだ。
和子は哀《かな》しかった。そういう人間こそ、彼女にとっては望ましかったのに……。
しかし和子は懸命に哀しみと戦った。
そして、坐《すわ》り直すと顔をあげた。
「伊東さん、わかりました……和子は……あの方が羨《うらや》ましいと思います……同じ女ですのに……」
涙が出そうになったので、あわてて立ち上った。
「ごきげんよう、お仕合せに……」
伊東を見ないようにして、部屋を出て行った。