21
室伏雄一郎と有里との間に生れた男の子は、秀夫と名づけられた。
その喜びの知らせは、横浜に居る姉のはる子の許にも届けられた。
そして、そのあとを追うように、岡本良平の妻になった千枝からも、来年の正月には、たぶん母親になるだろうという照れくさそうな報告が来た。
弟夫婦の家と、千枝のところと、二つの仕合せをはる子は素直に喜んだ。
同時に、心のどこかに自分もやがてと、恥らいながら未来を夢みた。
女なら、誰しも一度は祈るに違いない、愛する人の子を産みたいという祈りを、はる子も心のふかい処で、はにかみながら祈っていた。
いつの日か、愛する人の子を我にも亦《また》、授け給え……と。
だが、そういう間にもはる子の身辺は、白鳥舎の女主人きんの留守で、毎日が眼のまわるような忙しさだった。
そんなところへひょっこり、南部斉五郎が姿を見せた。
「よう、元気でやっとるな……おきん婆《ばあ》さん、まだハワイから帰って来んそうだな……」
「相変らず口が悪いんですね、おかみさんのことを婆さんだなんて……」
はる子がそっと睨《にら》むと、
「なに、女が五十過ぎりゃ、立派な婆アだよ。もっともあいつは子供ンときから婆ア面してやがったがね……」
遠慮のない声を張り上げて、周囲の店員たちを笑わせた。
それからしばらくは、二人の間に、北海道の雄一郎夫婦の間に子供が生れたこと、良平と千枝のところも来年早々出産の予定であること、南部がこの九月から業界第一の実績を誇る帝国運送株式会社の川崎支店長として迎えられたこと、あれからずっと東京に居た関根重彦が自分から希望して釧路へ転任したことなどを話し合った。
「関根の奴、今度はえらく気負って赴任して行ったそうだ……釧路には雄一郎も居るこったし、きっと二人でまた何かやらかす算段でもしているこったろう……」
「そういえば、なんですか北海道の鉄道をスピード・アップする計画を二人でねっているという手紙が雄ちゃんから来ていましたわ……」
「うん……ま、なにをやらかすか楽しみに見ていることにしよう……」
南部はそこでちょっと言葉を切り、今度は表情をあらためて言った。
「ところで伊東栄吉はどうしている……今頃はロンドンあたりかな……」
「はい、このあいだ葉書がまいりました、言葉が通じないので、なにかと大変なようですけど……」
「しかし、この秋には帰ってくるんだろうな」
「はい、予定よりは少し遅れるようですけれど……」
「帰って来たら、今度こそ有無を言わさずとっつかまえて式を挙げちまいなよ。もたもたしてると、又、とり逃がすぞ……」
「だって、そんな……」
はる子が笑った。
「いや、そういうもんだ……」
南部は真面目だった。
「おかしなもんで、人間の縁なんてものは、一つ取り逃がすと不思議に次々と駄目になる……気をつけなけりゃいけないよ。とにかく、伊東が帰って来たら、あいつの上役の誰かに声をかけて、それの音頭でぱアッと一気に披露《ひろう》しちまいな……わかったね」
「はい……」
「どれ……これ以上ねばって居ても、お茶うけ一つ出て来そうにないな、帰るとするか……」
南部は腰をあげた。
「あらッ……」
はる子が狼狽《ろうばい》すると、
「いや、冗談だよ……」
まるい体をゆすって笑った。
「はるちゃんも、伊東に早く帰って来いとせっせと手紙を書くんだな……早く帰って来ないと、他の男のところへ嫁に行ってしまうかもしれんとおどかしてやれ。どうもあいつは、肝腎《かんじん》のところでのんびりする癖があるんだ、しようのない奴だよ……」
南部を見送ってから、はる子の心の中に、彼が残して行った一つの言葉が妙にひっかかった。
人間の縁なんてものは、一つ逃がすと、次々と手からこぼれて行きやすいものだ……。
(そうかもしれない……)
と、はる子は思った。
漠然とではあったが、はる子はようやく自分の未来について、小さな不安を持った。
南部が帰って一時間もたたない頃、はる子はハワイからの一通の電報を受け取った。
差出人は亮介で、きんが急に発病し病院に入院して心細がっているので、至急ハワイへ来て欲しいというものだった。
白鳥舎の方は、横浜元町で質屋を営んでいる、きんの兄の和太郎と番頭の横川に頼んでおけば、まず当分は差支《さしつか》えなさそうである。
それと、あの気丈なきんがはる子に来てもらいたがっているというのは、よくよくの事に違いなかった。
はる子はハワイへ行く決心をした。
いよいよハワイへ向けて出発するという日の午後、わずかな時間をさいて、はる子は川崎の南部宅を訪れた。
しばらく日本を離れる挨拶《あいさつ》に赴いたのだった。
ところが、そこで、はる子はひどくものものしい表情の節子から、思いがけない事実を聞かされた。
「大変なことってなんでしょう……?」
はる子は咄嗟《とつさ》に伊東栄吉の事を思い浮かべて、蒼《あお》くなった。
「ま、まさか、栄吉さんの身に何か……」
「いいえ、伊東さんではないの……尾形さんのところでね大変な事が起きてしまったのよ……今朝早く知らせがあったのだけれど……」
「尾形さん……?」
「それがね……」
節子は声をひそめた。
「尾形さんのお嬢さんが自殺を計ったんだそうなの……さいわい発見したのが早かったんで、すぐ病院へ運び込んだから、たぶん助かるだろうという話だったけれど……」
「でもどうして、自殺なんて……」
はる子は息をつめた。
「なんでもね……あちらの奥さまのお決めになった縁談がどうしてもお嫌だったらしいのね……」
「まア……」
はる子の顔色が変ったのを見て、節子はいそいでつけ加えた。
「もっともね……これははる子さんとは別に何んの関係もないことだから、気にしないほうがいいわよ。ほんとうにそれが原因かどうかもはっきりしないのだし……」
しかし、敏感なはる子は、それだけですべてを察してしまった。
「あの……和子さんはどこの病院に入院なさったのでしょう……?」
「なんでも、お宅のすぐ近くの綜合病院だっていうことだけど……」
「それでは私、これで……駅長さんがお帰りになりましたら、どうぞよろしくお伝えください……」
はる子はそそくさと節子に挨拶《あいさつ》して出て行った。
はる子を見送った節子が、すぐはっとして、
「あ、はる子さん、待って……あなた、病院へ行っては駄目……」
あとを追ったときは、もうすでに、彼女の姿はどこにも見当らなかった。
川崎から東京へ……。
はる子は教えられた麻布の病院へ夢中で駆けつけた。
尾形和子が、何故、自殺までして縁談を拒否したのか、はる子には痛いほどわかっていた。
それほどまでに思いつめた和子の伊東栄吉への愛が、はる子には悲しかった。辛く、苦しかった。
はる子がようやく、麻布の綜合病院というのをたずねあてた頃、病院のベッドの上で、尾形和子はまだ昏睡《こんすい》からさめなかった。
はる子が看護婦の案内で病室のドアを開けたとき、昏睡状態のまま、苦しそうに呻《うめ》きつづける和子の枕許に、母親の尾形亮子がすっかり疲労しきった表情で坐っていた。
亮子ははる子を認めると、まるではじかれたように立ち上った。
「まあ、あなたは……」
「ごぶさたしております……」
はる子は伏目がちに言って、そっと和子の顔をのぞき込んだ。
鼻孔にさしこまれた酸素吸入のためのゴム管が痛々しい。
腕にはリンゲルの針が突き刺されたままであった。
すっかり血の気のうせた和子が、苦しそうに喘《あえ》いだ。
「和子、しっかりして……和子、和子……」
亮子がおろおろと娘の名を呼んだ。
しかしその時、
「伊東さん……伊東さん……」
和子が唇をかすかに動かし、伊東栄吉の名を切れ切れに呼ぶのをはる子は聞いた。
亮子がステーションに通ずるベルを押したらしく、看護婦が注射器を持ってやって来たので、はる子は廊下へ出た。
今、聞いたばかりの和子の譫言《うわごと》が耳について取れなかった。
はる子は急に、はげしい悲しみに襲われた。
自分がどうしたらいいのか、わからなかった。
(和子さんは死ぬほど栄吉さんを愛している……もし、私が栄吉さんと結婚するようなことになったら、和子さんは再び自殺を計るだろうか……)
いつか南部から聞いた話によると、尾形清隆の死後、尾形家では家屋敷はもちろん、高価な家財道具も手放して、現在では小さな貸家に住んでいるのだという。
尾形の盛んなときには、門前市を成すほど集った人々も、今では離れて見向きもしないし、親戚《しんせき》の者までが寄りつかないらしい。
はる子には尾形の遺族たちのやりきれない気持が判るような気がした。
今でも、尾形家に出入りし、未亡人を慰めたり、力になってやったりしているのは、南部斉五郎と伊東栄吉ぐらいのものだと聞いている。
はる子は、今の世の中の、まるで紙のように薄い人情を今更のように見せつけられた思いがした。
出発をあと数時間後にひかえ、はる子はいま自分のとるべき態度について考えた。
和子を救う一番良い方法は何だろう。
もちろん、恋を譲る気はない。しかし、情からいって、和子を見殺しにするわけには行かなかった。
「はる子さん……」
ふりかえると、尾形亮子が立っていた。
「私が……私が馬鹿でした……」
亮子は不意にハンカチで顔を押えた。
「あの子の気持も知らないで……でもあの子はその方が仕合せなのだと思ったものだから……あなたにこんなことを申し上げては大変に相済まないことと重々承知しているんですけれど、あの子には伊東さんがどうしても必要なのです……でも、それはあの子の我儘《わがまま》です、とうてい通用しない考えかたです……私はそれを思うと……いっそ私があの子にかわって死んでしまいたい……」
かつては鉄道次官夫人として、飛ぶ鳥さえも落とす勢いだった亮子が、昔の面影もないほど窶《やつ》れてしまい、今、はる子の前で生きる望みもないほどに歎き悲しんでいる。
はる子には、そんな亮子をそのまま見捨てて立ち去ることが出来なかった。
「奥さま……私、今夜ハワイへ発ちます……」
「えッ、ハワイ……?」
「ハワイに、今、私の働いております店の支店が出来るはずでございます……私、当分そこで働くことになると思います……」
「はる子さん……あなた、まさか……」
「ええ……もちろん栄吉さんに対する私の気持は変りません。でも……お嬢さまにとっては、私がしばらくなりと日本に居ないほうがいいのではないかと思うのです……お気持がもう少し静まってから、将来のことを決めてあげてくださいまし……そのあとで私は日本へ帰ってまいり、栄吉さんと式を挙げることにいたします……」
「はる子さん……」
「どうかお嬢さまをお大事に……ごめんくださいまし……」
はる子は足早に亮子の前から立ち去った。
東京から横浜へ帰ったはる子の足は、いつか夜の波止場へむいていた。
ついこのあいだ、神戸からヨーロッパへ発つ伊東栄吉の船を、見えるはずもないこの波止場から見送った朝のことが、はる子の胸に悲しく浮かんだ。
はる子は波止場にほど近い浜辺へ行った。
誰も居ない浜で、はる子は声をはなって泣いた。
海へ向けて泣いた。
浜辺に立つはる子の足許を波が洗っていた。
折角|掴《つか》みかけていた仕合せを、また先へのばさなければならぬ。
「気をつけなよ、はるちゃん……人間の縁なんてものは、一つ取り逃がすと、次から次と手の中からこぼれるものだ……」
南部斉五郎の言葉があらためて思い出された。
だからといって、あの状態のままの和子の前で、伊東栄吉と結婚するなどということが出来るだろうか。
一生に泣く涙のありったけを流しつくし、泣きつくした時、はる子の心に浮かんだのは、この海のはての異国で病床に呻吟《しんぎん》している伊吹きんのことであった。
赤の他人の自分を、娘のように慈しみ、信頼してくれた女主人が病床で自分の来るのを待ちかねているという事実であった。
行かなければならない、とはる子は思った。
私を待っていてくれる人がある。
私を信じて、頼りにしてくれている人がある……。
はる子の心の中に、勇気が湧《わ》いた。今までの青春の日々、どんな悲しみにも耐え抜いて来た根強い生活力が、はる子を絶望に似た気持から、しゃにむに引っ張り上げた。
(私は行かなければ……)
と、はる子は繰返した。
(私は生きなければ……)
と、はる子は思った。
もし、南部の言う時機を失し、万が一、恋を失ったとしても、私には愛がある……。そう思ったとき、はる子は冷めたい砂の中から懸命の力で起き上っていた。
水に濡《ぬ》れ、波にさらわれそうな足が、しっかりと砂を踏みしめて歩き出していた。