翌、昭和七年は、有里が漠然と予想したように、年があけると間もなく、今度は上海《シヤンハイ》で日本軍と中国軍の間に火蓋《ひぶた》がきられた。
当局の発表によると、一月十八日、日本人僧侶が中国人に襲撃されたのがきっかけだという、いわゆる上海事変であった。
つづいて二月、犬養内閣の手で総選挙が行なわれ、政友会が民政党にかわって多数をとった。その選挙の最中、浜口、若槻両内閣の大蔵大臣であった井上準之助が暗殺され、更に三月五日には、三井財閥の中核である団琢磨《だんたくま》が同じく暗殺された。
いわゆる井上|日召《につしよう》の率いる血盟団の、一人一殺主義の犠牲となったのである。
この年は、有里の周囲にも移動が多く、隣りの桜川家が倶知安《くつちあん》へ転勤し、運輸事務所で連日現場にハッパをかけ、この数年間無事故という輝しい記録を作った関根重彦が、再び東京へ帰って行った。
「東京へ行くんなら栄転じゃないですか、おめでとう……」
雄一郎が言うのへ、関根は、
「なアに、有難くもなんともないよ、北海道にはやりかけの仕事がまだ沢山残っている。君と計画したスピード・アップに関する試案も、まだ全然草稿の域を出ていないし……」
吐き出すように言った。
特に関根は、有里と別れるのが名残《なご》りおしそうだった。いつか、雄一郎の家に遊びに来ていて、酔ったついでにふと口をすべらせ、
「僕はむろん色恋などではなく、君の奥さんが好きなんだ、やさしくて、あったかで……そばに居るだけで、なんともいえずいい気分になる……これは男の僕だけじゃない、女房の奴もそう言うんだから間違いない、まったくお前がうらやましいよ」
と言って、雄一郎と有里を苦笑させたが、案外それが彼の本心だったかもしれなかった。
関根重彦、比沙の夫婦が去ると、なんだか急に釧路がさびしくなったような気がした。
夏になると、釧路には連日海霧がたちこめ、港から太い溜息《ためいき》に似た霧笛が聞えた。
そんな夜雄一郎と有里は遠いハワイに行ったまま帰らぬ、姉のはる子のことをよく話題にした。
「いったい姉さんはいつ帰ってくる気かなあ……」
「伊東さんはもう結婚なさったんですか?」
「さあ、どうかな、前に結婚するって話は聞いたが……どっちみち俺たちのところへは知らせて来んだろうな」
「そうでしょうね……でも……男の人ってそんなもんかしらね、あんなにお姉さんのこと好きだったのに……」
「仕方がないさ、姉さんがハワイへ行ったきり帰って来んのだから……」
「きっと何か理由があると思うわ、そうでなかったら、行ったきり帰ってこないなんて筈がないでしょ、お姉さんだって伊東さんが好きだったんですもの」
「向うで、他に好きな奴でも出来たのかなあ……」
「まさか……」
有里は雄一郎をにらみつけた。
「お姉さんにかぎってそんなことがあるはずないでしょう」
「わからんさ、男と女の仲なんてものは……」
「そんなこと絶対にないわ、私、お姉さんて方はもし伊東さんと結婚しないのなら、一生独身ですごすような気がするの」
「そりゃあ、お前の思いすごしさ、お前は姉さんて人をすこし美しく考えすぎているよ。姉さんだって人間だ」
「いいえ、女には女の気持がわかるのよ」
有里はムキになって主張した。
「お姉さんはそんな方じゃないわ」
「そうかなあ……」
雄一郎はそんな有里を見て笑った。
いつまでたっても、子供っぽいことを言う奴だといわんばかりの眼の色だった。
しかし、それは有里にもすぐにピンと来た。
「じゃ、あなたは本気でお姉さんが伊東さん以外の人と結婚すると思っているの」
「ふむ……」
雄一郎は曖昧《あいまい》に言った。
「別にそういうわけではないが……」
「じゃ、どういうわけなの、あなただって、お姉さんの気性はよく知っているじゃありませんか……嫌だわ、そんなの、お姉さんが他の男の人を好きになったかもしれないなんて、そんな考えかたは不潔よ」
珍しくはげしい有里の見幕に、雄一郎はちょっと驚いたようだった。が、すぐもとの落ついた表情に戻った。
「したがな、有里、俺は近頃つくづく考えるんだ……俺にしろお前にしろ、姉さんて人に或る清らかなイメージを持ちすぎているのじゃないかな……そして、そのことが無意識のうちに姉さんを縛りつけているんじゃないかと思うんだ。姉さんて人はこういう人だから、こうでなくてはならんみたいに考えすぎてやしないだろうか……もしそうだとしたら、それは結果的に姉さんを不幸にするおそれがあるんじゃないのかな……」
雄一郎は話しながら、ちらと有里を見た。有里は黙って彼の言葉に耳を傾けている。
「俺は、姉さんに、もっと気楽に生きてもらいたいと思ってるんだ、姉さんはすこし自分にきびしすぎる……立派でなくたっていい、もっと人生を楽しんでもらっていいと思うんだ」
それにたいする有里の返事は得られなかった。が、しばらくして、
「それも、そうね……」
ぽつりと言うのが聞えた。
その伊東栄吉は、やはりこの年、東京鉄道局千葉管理部総務課長を命ぜられていた。
伊東の胸の中には、むろん今でもはる子の面影が強く焼きついてはなれない。が、それを、伊東は無理にも消そうとしていた。
これ以上はる子のことを考えると気が狂いそうになったし、又、いくら考えてみても、どうにもなることではなかったからだ。
はる子がハワイで結婚し、向うに永住する覚悟をきめたらしいという噂《うわさ》は、風の便りに伊東の耳にも入っていた。
彼はそれを、そのままはる子の裏切りだとは受取らなかった。
はる子がハワイへ発ったのは、伊東がヨーロッパから帰国する少し前だったという。あんなに二人の結婚を喜び、固い約束をしていたものが、急にハワイへ行ったことの裏には、何か抜きさしならない理由がなければならないと考えた。
はる子の性格を子供のころから知っているだけに伊東は、彼女が自分の意志で日本へ帰って来ない限り、追っても無駄だとさとっていた。
伊東は、はる子の消息を時々|歿《な》くなった尾形未亡人から聞かされていた。
彼女がどうしてはる子の消息を知っているか不思議だったが、いずれにしても、はる子が白鳥舎の女主人伊吹きんの弟と次第に親しくなっていることは分った。
一度、伊東は尾形未亡人から、はる子が彼女宛に出した手紙を見せられたことがあった。それによって、はじめてはる子と尾形未亡人の間に連絡のあることが判ったのだが、手紙には、はっきりとはる子の手跡で、ハワイでの仕事が順調なこと、当分日本へは帰る気持のないことなどが記されていた。
そして、そのときはじめて、尾形未亡人から伊東は、はる子が伊東と和子の結婚を望んでいることを聞いたのだった。はる子がハワイへ行ったのも、実はそのためで、伊東が和子と式を挙げ次第、はる子も伊吹きんの弟と式を挙げる予定だと知らされた。尾形未亡人が倒れる十日ほど前のことである。
尾形未亡人が急死し、和子がまったくの天涯《てんがい》孤独の身となったとき、伊東は時期をみて南部斉五郎の家を訪ねた。
「親父さん、実は僕、結婚しようかと思っとるんです……」
いきなり切り出した。
「実は考えに考えた末の結論なんですが……」
「尾形の和子さんか?」
南部は別段驚いたふうもなかった。
「ハワイに居るはるちゃんはどうする」
「はるちゃんは僕がそうしたほうが仕合せなのです、そのことが僕にも最近ようやくわかってきたんです。あの人は僕が居なくても立派にやって行けると思います」
「しかし、和子さんと結婚したとして君は仕合せになれる自信があるのか」
「はア……」
伊東はちょっと眼を伏せたが、すぐに顔を上げた。
「少くとも、和子さんを不幸にはすまいと決心しています。いつか和子さんも言っていました、二人していたわり合って生きて行こうと……そういう気持で、結婚を考えるんです。親父さん、仲人をお願い出来ませんでしょうか、あなたの他に、僕らの気持をわかってもらえる人はないと思うんです」
南部はそんな伊東の顔をじっとみつめていた。
しばらくたって、仲人を引受けるか引受けないかの返事はせずに、
「伊東君、仕合せになれよ……」
とだけ深い感動のこもった声で言った。