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お互に、七、八年という長い歳月のへだたりは有っても、逢えばやっぱり昔の幼馴染《おさななじみ》であった。
「まったく、なにから話していいかわからん……あなたが南部の親父《おやじ》さんの家をとび出したと聞いて、ずいぶんあちこち探しまわったんだが……まさかこんな所で逢えるなんて……」
この前、三千代と別れたのも、此処《ここ》札幌の地だった。
「私だということ、すぐにお判りになった?」
三千代は努めて、心の中の動揺を外にあらわさないようにしているらしかった。
「そりゃ、わかりますよ」
雄一郎は再会の喜びをかくそうともしなかった。彼にとって、旭川やあの頃《ころ》の出来事はもう遠い過去のものであった。
「廊下で後姿を見ただけで、すぐ三千代さんだと判りましたよ」
「でも、変りましたでしょう……私……」
「変ったといえば変ったかもしれんが……やはり昔の儘《まま》ですよ、しかし……」
雄一郎が笑いだした。
「僕はあなたがきっと逃げ出すんではないかと思った」
「どうして……」
「いや、なんだかそんな気がしたんですよ……すみません」
「そういえば、凄《すご》いような目つきをなさったわ、逃げたらとびかかってくるみたいな……」
「そうですか……」
雄一郎は頭をかいた。
「自分ではおぼえていません」
「東京では逃げましたけど……もう逃げませんわ」
「東京で……?」
「上野駅で……たしか奈津子ちゃんを送っていらした時ですわ」
「じゃあ……」
雄一郎は息をつめた。
「あの時、やっぱり小料理屋のみゆきで働いていたというのは……」
「ええ……上野駅へお母さんのかわりに奈っちゃんを迎えに行って、あなたを見付けたんです。驚いたわ、まさか奈っちゃんと雄一郎さんが一緒に窓から首を出していたなんて……」
「しかし、みゆきで私が逢った人は三千代さんじゃなかった……」
「あれは、替え玉……あなたがみゆきへ来ることを奈っちゃんのお母さんが電話で知らせてくれたので、おかみさんに私の替りに出てもらったんです……」
「ひどいなあ……こっちはそうとは知らないから、がっかりしてしまった……」
「ごめんなさい、でも、あの時はまだどうしてもお逢《あ》いする勇気が無かったんです。それと……もう一回、一昨年《おととし》だったかしら、美留和《びるわ》という小さな駅で雄一郎さんの姿を見掛けましたわ。あの時は……本当はお目にかかりたかったんです……でもいよいよとなったら、やっぱりあなたが怖くなってしまって……」
「そうでしたか……ちっとも気がつきませんでした。あの時は、たまたま出張であの駅に行っとったんです」
「今日は札幌にご出張?」
「いや、昨年、倶知安に転勤になりました」
「そうでしたの……」
「三千代さん」
急に雄一郎が表情をあらためた。だが、それより先に、
「どうして家をとび出したか、どうして札幌に来ていたのかってお聴きになりたいんでしょう……?」
と三千代は言った。
「札幌へ来たのは、ただなんとなく北海道が懐しかっただけです……別に来るつもりはなかったんですけどね……」
「一昨年、美留和を通ったと言いましたが、それ以来ずっとこっちに?」
「いいえ、あの時は連れもあったし……ただなんとなく北海道を旅して、千葉へ帰ったんです」
「千葉へ……」
「関根さんの奥さんが歿《なくな》ったとき、私、すぐ近くの旅館に居ましたのよ」
「なんですって……関根さんはそのことを知っていましたか」
「いいえ、知ってたら、今夜こうして札幌で座敷女中なんかしていられなかったでしょう……あなたの奥さんもいらっしゃったそうね、初七日に……」
「いったい誰《だれ》から聞いたんです」
「連れから……私の連れが関根さんの奥さんが浜で倒れていたのを写生に行って見付けたんです。世の中って、広いようで狭いものね」
「すると……旅館に滞在していた絵描さんというのが……」
「私の連れでしたの。この前こちらへ来た時も一緒でした……」
「三千代さん……」
「軽蔑《けいべつ》なさった……?」
三千代は自嘲《じちよう》するように唇をゆがめた。以前の彼女には見られなかった表情である。
「いや……しかし、三千代さん、その人と今でも……」
「いいえ、千葉で別れました……」
「なぜ……」
「なぜって、それだけのお付合だったんですもの……」
「…………」
雄一郎は呆然《ぼうぜん》と三千代を眺めた。三千代が自分からずっと遠い所へ離れてしまっていたことに、ようやく気がついた。七、八年という歳月の流れは、人間の内容を一変させてしまうのに充分すぎる期間だったのだ。まして三千代はたった一人で世の波風と闘って来たのである。
「呆《あき》れていらっしゃるのね」
三千代が苦笑した。
「当然だわ……自分でさえ呆れているんですもの……」
「いや……それにしても、なぜ、三千代さんは……」
「家を出た理由ならお訊《き》きにならないで……申し上げておきますけど、私、ただ、自分が南部斉五郎の本当の孫ではなかったということだけで家を出たんではありませんのよ」
「したら……理由はなんです」
「今は申しませんわ、いつか、お話したくなったら申します」
「だったら、理由はどうでもいいです。あなたが家を出たあと、南部の親父さんや奥さんがどんなに心配し、どんなにあなたの行方を探したか……」
「わかっています、そのことは……」
三千代がようやくしんみりと肩を落した。
「いつも済まないと思っています……」
「すまないと思ったら、なぜ……」
「仕方がなかったんです」
再び眼をあげ、叩《たた》きつけるように言った。
「私、こうするより他に……生きられなかったんです」
「三千代さん、すると、あなたはずっと前からその絵描さんと……」
「違います、あの人とは、南部の家を出て、ずっとあとになって知り合ったんです、あの人の為に家出をしたんではありませんわ……男の人のために家出が出来るような女なら、私、十年前に家出しています……」
更に激しいものが三千代の表情をかすめた。
「僕には、どうしてもあなたの考えていることがわかりません……」
雄一郎は吐息をついた。
「私がどんな馬鹿《ばか》な女か……雄一郎さんは昔っからご存知だったじゃありませんか……」
「とにかく、南部の親父さんにあなたの居所だけでも知らせておきましょう」
「いいえ、それはいけませんわ、私が此処《ここ》に居るってことは川崎へは知らせないで……いつか知らせていい日が来たら、きっと自分でおじいちゃんに手紙を書きます」
「本当ですか」
「ええ……」
「じゃ、絶対に僕に無断で今の場所から移らないと約束してください」
「いいわ……」
ちょっと考えた後、三千代は頷《うなず》いた。
「そのかわり、条件があるの」
「条件……?」
「週に一度でいいから逢《あ》ってください。お休みの日か、お店が終ってからでも……私、やっぱり心細いんです……独りで居ると、自分をいつか滅茶滅茶にしたくなってしまうんです……お願い、私の話相手、相談相手になってください」
「いいですとも……」
雄一郎は躊躇《ためら》わずに言った。
「なんだったら、倶知安の家へも来て下さい、女房もあなたのことは随分心配していました」
「雄一郎さん……」
三千代が表情を固くした。
「なんですか」
「私と逢ったこと、奥さんには内緒にしておいてくださいません……」
「どうして……なんでそんな必要があるんです、女房は僕とあなたのことを少しも誤解なんかしていませんよ」
「嫌なんです、今の私がみじめだから……」
「そんなことはないですよ」
「おわかりにならないのよ、男の人には……女には女の気持があるんです……それとも、奥さんに内緒で逢うの、いけません?」
「困った人だな……」
「駄目なら駄目でいいんです、そのかわり、私もお約束しませんわ、明日にでもどこかへ行ってしまうかもしれませんわよ」
「そんな……」
雄一郎はうらめしそうに三千代を見た。自分を困らせて面白がっているのではないかとさえ思った。
「あんまり難題を吹っかけんで下さいよ」
すると、それまで多分に挑戦的だった三千代の眼がスッと和んだ。視線を暗い窓の外へ向けた。
「昔は、あなたに何んにも言えない女だったけど、今はなんでも言えそうよ……そういえば……」
三千代がクスッと笑った。
「昔もよく、あなたを困らせたわね、憶《おぼ》えていらっしゃる……一番最初にあなたと逢《あ》ったときのこと……あなたがおじいちゃんに私のお守りを頼まれて、浜辺へ連れて行ったでしょう……海のほうへ行ってはいけないってあなたが怒るのが面白くて、何度も波打ぎわへ行ったわ。わざと危い真似をしたり、水で着物の裾《すそ》をびしょびしょにしてしまったり……あなた、とても困った顔をしていたわ」
三千代は眼を雄一郎へ戻した。
「ねえ、雄一郎さん……女って、本当に好きな人には、どういうわけか無理難題を言ってみたくなるものなんですってね……」
真面目《まじめ》とも、冗談ともつかぬ表情だった。
雄一郎は視線をはずした。
「もう、お帰りにならないといけないわね、奥さんと、お子さんが待っているんでしょう……」
「三千代さん、とにかく約束してください、今の店から動かないと……」
「私のお願いもきいてくださるなら……」
「わかりました……」
止むなく頷《うなず》いた。
「あなたの言う通りにしましょう」
「じゃ、さようなら」
三千代は立ち上った。
「私から駅の方へ連絡しますわ」
「本当にどこへも行かんでくださいよ、あなたに逃げられたら、南部の親父《おやじ》さんに申し訳がたちませんからね」
三千代は雄一郎をじっと見詰めた。そして、
「あたし……逃げませんわ、今度は……」
低いけれど、しっかりとした声で言った。