8
はる子、伊東、南部斉五郎たちの一行が北海道へ向って出発する少し前、雄一郎がめずらしく風邪《かぜ》をひいた。
医者はたいしたことはないと言ったが、熱がかなり高く、全身が抜けるようにだるくてどうしても起き上ることが出来なかった。
欠勤届を出しに、有里が駅まで行った。
「実は、今、お宅へ伺おうと思ってたところなんですよ……」
雄一郎の塩谷駅時代の同僚で、ちょうど同じ頃倶知安駅の助役となった佐藤が笑いながら言った。
「ちょっとの差で損をしましたね」
「何か御用でしたの?」
「さっき札幌から室伏君に電話がありましてね、なんでも急な相談事があるので、なるべく近いうちに店へ訪ねて来てくれるよう伝えて欲しいとのことでした」
「店……ですか?」
「ええと、ここに電話番号がひかえてあります……」
佐藤はメモした紙を有里に渡した。
「たしか、瀬木さんとかいう人でした」
「瀬木さん……?」
有里が目をまるくした。
「女の人でしょう」
「い、いや……その……」
佐藤が口ごもった。
「いいんですよ、隠さなくたって、瀬木千代子さんでしょう」
「なんだ、知ってたんですか」
苦笑しながら、佐藤は顎《あご》をなでまわした。
家へ戻ると、有里は早速このことを雄一郎に報告した。
「男の人って変ねえ、どうしてあんなことを庇《かば》おうとしたり、隠そうとしたりするのかしら……」
「さあなあ……」
「誤魔化したって駄目よ、始終あんなことをお互同志やったりやられたりしているの?」
「まさか……」
雄一郎は寝がえりをうった。
「したけど、奈っちゃんのお母さんがなんで札幌へなんか出て来たのかしら……あなたに相談って、奈っちゃんのことかしらね」
「フム……」
「案外、再婚話でも持ちあがって、奈っちゃんを引取ってくれとでもいうんじゃないかしら……」
「そうさな……」
体がだるいのか、雄一郎はあまり話にのってこなかった。
「病気がなおったら行って来よう」
「あなた、私が行ってはいけません?」
「お前が……?」
雄一郎がふりむいた。
「どうして……」
「札幌に出たついでに、はる子お姉さんのお茶碗《ちやわん》やなにかも買いたいし……もし、奈っちゃんも来ているのなら、少しでも早くお顔が見たいんです」
「馬鹿だな、お前は……いい話かどうかわかりもしないのに……」
「そりゃ、そうですけど、でも……」
雄一郎は何故か有里の顔をじっと見上げていた。そして、低く、
「じゃ、行って来い……」
と言った。
出がけに、もう一度有里を呼びとめて、
「南部の親父さんが近く北海道へ来ることを伝えてやってくれ、是非|逢《あ》うように俺が言っていたとな……」
と、付け加えた。
「瀬木さんにですか?」
妙なことを言うと有里は思った。
「そうだ、忘れずにな」
「はい」
返事はしたものの、有里は雄一郎が熱のために何か錯覚を起しているのではないかと疑った。
雄一郎と秀夫のことを、近所に住む佐藤良一の妻に頼み、有里は札幌行の列車に乗った。
釧路《くしろ》で別れて、もう四年、どんなに大きくなっていることであろう。時々は北海道のことも思い出してくれていたであろうかなどと、次から次と、再会の場面を胸に思い描いた。
札幌のデパートで、奈津子のために、綺麗《きれい》な刺繍《ししゆう》のあるハンカチと手袋を買い、佐藤に教えられた電話番号を交換手に告げながら、受話器を握りしめる有里の手は期待で熱くなっていた。
電話に出たのは男の声だったので、有里は遠慮して、店への道順だけを聞いた。
だしぬけに訪ねて、奈津子をびっくりさせてやるのも悪くないと思った。
途中、道を尋ね、尋ねして、教えられた『花村』という料亭の裏口に有里はようやく辿《たど》りついた。
しかし、木戸は中から鍵《かぎ》がしまっていた。
有里が途方に暮れていると、しばらくして中で人の足音がして、戸が開いた。
二十七、八のアカ抜けした女が、体を曲げるようにして木戸から出て来たが、その顔を見たとたん、アッと、有里は息をのんだ。
女も有里を見て立ち竦《すく》んだ。しかしすぐ平静をよそおい、
「室伏さんが教えたんですのね……」
と微笑した。三千代だった。
「あなた、なにしに此処《ここ》へいらしったの」
隠そうとはしているが、明らかに敵意を抱いた言いかただった。
「私、あの……瀬木さんに……瀬木千代子さんにお目にかかりに参ったのですけれど……」
「瀬木千代子さん?」
「駅へお電話を戴いたと、主人の同僚の方が教えて下さったので、それで、あの……主人が病気中だったものですから……」
「室伏さん、ご病気……?」
三千代の表情がすっと和んだ。
「そう、それであなたが……」
「あの、瀬木さん、このお店に……」
「千代子さんなら居ませんわ」
「えッ?」
「瀬木千代子さんの名前を使って電話したのは私だったんです」
「なんですって……」
「ここではお話も出来ませんわね、参りましょう……」
三千代は先に歩きだした。
間もなく二人は近くの公園のベンチに坐っていた。
「では、主人が三千代さんと逢いだしたのは、去年の夏ごろだとおっしゃるんですか」
「ええ、偶然、あのお店の廊下でね……」
「それ以来ずっと……」
「そう頻繁でもないけれど、時々雄一郎さん、札幌へ行くなんておっしゃらなかった?」
「…………」
有里は眼を伏せた。
「ごめんなさい、私、雄一郎さんに難題を吹きかけたのよ、絶対に私のこと誰《だれ》にも話さないでって……もし誰かに言ったら、すぐ行方をくらましてしまうって申し上げたんです」
「でも、どうしてお帰りにならないんですか、川崎のお家へ……」
「そんなこと……あなたのような幸福な奥さんに、私みたいな女の気持がわかるわけがありませんわ」
三千代は不意に有里のほうへ向き直った。
「一度あなたに申し上げようと思ってたんです。私、子供のころから雄一郎さんが好きだったんです……あの人からも恋文をもらったこともあります……今でもあの人が好きです。どこに居ても、何をしていても、雄一郎さんのことが忘れられないんです……」
「三千代さん……」
「あなた、もし私が雄一郎さんを譲ってくれって頼んだらどうなさる?」
「本気で……本気でそんなことをおっしゃるんですか」
「いけませんこと……」
三千代の眼の中に、挑みかかるような強い光はすでに消えていた。
「お断りします」
有里はきっぱりと言った。
「私は室伏雄一郎の妻です。昔、あなたと主人のあいだに、どんなことがあったのかは存じません……ただ、本当にあなたが主人を愛していらっしゃったのなら、どうして主人と結婚なさらず他の人と結婚なさったんです。さっき、あなたは私のことを仕合せな妻だとおっしゃいましたわね、たしかに私、今は仕合せです、でも、最初からこうだったわけでもないのです、私は私なりに努力し、勇気を出して一生懸命幸福をかち取って来たんです、ですから、もし……あなたが私たちの家庭を壊そうとなさるのなら、私も必死になって自分の城を守ります」
「随分、自信たっぷりでいらっしゃるのね……」
三千代は揶揄《やゆ》するような表情で有里を眺めた。
「じゃ、私と内緒で札幌で逢《あ》っていたことをどうお思いになる?」
「それは……あなたとの約束を守ったからですわ、 そして、 私を信じてくれていたからです」
「あなたを信じる?」
「ええ、たとえどんなことがあっても、私が主人を誤解しないことを信じていたからです」
「まあ……あなたって、なんでも自分に都合のいいように解釈なさるのね」
呆《あき》れたように言った。
「そうかもしれません、でも‥…私、主人を信じています、今までずっと信じて来たんです。これからだって信じて行くつもりです」
「ほんとに珍しい方だわ」
三千代が笑いだした。
「今どき、そんな、あなたのような人が居るなんて……」
三千代に笑われても有里は平気だった。何んと言われようと、雄一郎を見る自分の眼の方が正しいと信じていた。
「だったら、もし、雄一郎さんがあなたのことを、もう、愛していないって言ったとしたらどうなさる……それでもあの人に獅噛《しが》みついているおつもり?」
有里は驚いて三千代を見た。今迄《いままで》にそんなことを想像もしたことがなかったからだ。
「その時は……」
有里は口ごもった。
「その時は、私……」
ふっと哀《かな》しくなって、俯向《うつむ》いた。
そんな有里の様子を、じっと三千代は見詰めていた。そして突然、低い声で笑いだした。
「ごめんなさい、冗談なのよ……ごめんなさいね、あなたも雄一郎さんもあんまり仕合せそうなんで、つい、そんな冗談が言ってみたくなったのよ……」
「三千代さん……」
「私ね、実は好きな人が出来たの、それで、雄一郎さんに相談したかったんですけれど……別に相談するまでもないことなのよ。私、その人と近く結婚するんです、お帰りになったら、雄一郎さんにそのことおっしゃって……ご病気がなおったら、一度、お邪魔してお話しますって……」
三千代は立ち上っていた。
「じゃ、さようなら」
「あ、三千代さん、本当に来てくださいますか……」
「ええ、伺います、たぶん来週にでも……」
「是非そうしてください、実は南部駅長さんがもうじきこちらへいらっしゃることになっているんです、お願いですから駅長さんの所へ戻ってあげてください」
「おじいちゃんが、北海道へ……」
背を向けたまま、三千代は呟《つぶや》いた。
「そう……そうだったの……」
「来てくださいますね」
「ええ」
三千代がふり向いた。
「行くわ、きっと、おじいちゃんによろしく言っておいてちょうだい……」
そのまま、札幌の町の夕闇《ゆうやみ》の中に消えて行った。