10
披露宴を終えると、栄吉とはる子は北海道を三泊四日の旅に出た。
秋十月、北海道はどこへ行っても美しい紅葉であった。
どこまでも澄みわたった大きな空、ひっそりと静まりかえった湖のたたずまい、そしてナナカマドの赤が、道産子《どさんこ》である栄吉、はる子の眼に染みた。
新婚と呼ぶには、あまりにも落着きすぎてしまったような二人ではあったが、栄吉にしてもはる子にしても、心は十五年の昔、小樽《おたる》の公園で待ち合せて、ひそかにお互の愛を探り合ったあの頃《ころ》と少しも変っていなかった。
湖を見ても、山を見ても、はる子はただ仕合せであった。
暮れなずむ洞爺《とうや》の水に舟を浮べ、
「俺、たぶん、一生、金持にはならんかも知れん……俺が死んでも、もしかしたら鉄道史の端っこにも名前がのらんかもしれん……それでも、辛抱してくれるかい……?」
急に改まった表情で、栄吉がはる子に言った。
「辛抱だなんて……」
はる子はちょっと恥じらいを浮べたが、
「今までのことを思ったら、これからの私に辛いとか、苦しいなどということは一つもありません」
しっかりした口調で答えた。
「ありがとう、はるちゃん……頼むよ……」
「私こそ……これからは栄吉さんに頼って生きて行くんですもの、こちらこそお願いします……」
ふと顔を見合せて、二人は楽しそうに笑いあった。
いつの間にか湖水の表に、夜霧が低くたれこめていた。
「帰ろう……」
栄吉がオールを水にひたした。
「寒くないかい?」
「ううん……」
はる子は子供のように首を振った。
「ちっとも……」
栄吉は安心したように頷き、舟を漕《こ》ぎだした。
「私、もう一人じゃないのね……」
はる子がうたうように呟《つぶや》いた。
「うん?」
「私たちもう一人じゃないんだわ……一人で生きて行くのって嫌ね、心細くて、寂しくて……もう、どんなことがあったって、栄吉さんとは離れたくないわ……」
「はるちゃん……」
栄吉は漕ぐ手を止めた。
(俺だってそうだよ、はるちゃんを離さんよ……)
そう言うかわりに手を伸ばし、はる子の手をとって引き寄せた。
「まるで夢みたいだよ……」
自分の気持を何と表現したらいいのかわからず、栄吉はただそれだけを繰返した。
その夢のような新婚旅行のあと、はる子は栄吉に伴われ、彼の任地である千葉へ向った。千葉には貸家ではあるが、庭つきの小ぢんまりした家が新しい主人の到来を待ちうけていた。
「これが私たちの家ね……」
愛児をいつくしむような眼で、はる子は家を眺めた。
玄関には、すでに『伊東栄吉』の真新しい表札がかかっている。北海道へ出発する前に、栄吉や彼の友人たちが準備しておいたものだった。中もすっかり掃除が済み、庭の草も綺麗《きれい》に摘まれていた。
栄吉はずっと下宿住まいだったし、はる子も白鳥舎の奥に寝起きしていたから、二人とも一戸建の家に住むのはこれが初めてだった。それだけに、感激も又ひとしおで、はる子は十七、八の娘のようにはしゃいでいた。
早速、夕食の仕度をするからと、近くの商店へ買物に行き、真新しい割烹着《かつぽうぎ》をつけて台所へはいっていった。
しばらくして栄吉は、はる子が台所で珍しく歌をうたっているのを聞いた。余り耳なれない曲だから、ハワイででも憶《おぼ》えて来たのだろう、なかなか音程も正確でいい声であった。
この年の七月七日、蘆溝橋《ろこうきよう》における日中両軍の衝突事件以来、中国大陸での戦火は拡がる一方だった。
戦争の場合、まず必要になってくるのが輸送力の増強である。
兵士を運び、弾薬・食糧を運び、さまざまな軍の物資を運ぶために、鉄道の役割はますます重要となった。従って、事変の勃発《ぼつぱつ》と同時に、内地の鉄道員が軍需物資輸送のため総動員されることになったのは、ごく自然の成行であった。
栄吉とはる子が結婚した頃《ころ》、日本の鉄道はあわただしい空気に包まれていた。
それは軍の要請により、大陸で、中国軍が敗走するとき破壊した線路を修復し、新たに招集された派遣鉄道職員たちの手によって、華中、華北の二大鉄道の設立が計画されていたからである。
二人が所帯を持って、まだようやく二か月たつかたたぬ頃の或《あ》る日、日曜だというのに、急用だという使いの者の口上で、栄吉は不審そうに首をかしげながら課長の自宅まで出向くことになった。
「このところすっかりご無沙汰《ぶさた》していたから、もしかすると将棋かもしれないな……独身のころは日曜ごとにうかがっていたんだよ」
いずれにしても、そう大した用事ではあるまいと言い、
「なるべく早く帰るから、一緒に活動写真でも観に行こう、食事は外でしようじゃないか……」
と言って出掛けて行った。
ところが、昼前に家を出た栄吉は夕方になっても帰って来なかった。柱時計が七時を打ち、やがて八時を告げるころ、やっと玄関の開く音がして、
「ただいま……」
あまり元気のよくない栄吉の声がした。
はる子がとび出して行ってみると、栄吉は何やら大きな包を小脇《こわき》にかかえこんでいる。
「何ですの、それ……」
はる子が聴くと、
「ラジオだ……」
ぽつんとそれだけ答えた。
「まあ、そんな高いもの……お買いになったんですか」
「ああ、このあいだ君が欲しいと言ってただろう」
「それはそうですけど……」
もちろん嬉《うれ》しかったが、はる子は何んだかすっきりしなかった。前からラジオを欲しいとは思っていたが、まだ買う気は毛頭なかった。そのくらいなら、栄吉の冬のオーバーや背広を作る必要があったし、モーニングもそろそろ用意をしておきたかった。
「すっかり遅くなってしまったが、食事はどうする?」
「こんなこともあろうかと思って、鍋物《なべもの》を用意しておきました……一本つけましょうか、寒いから……」
「そうだな……」
「じゃ、すぐお燗《かん》つきますから、何か召上っていてください」
「ああ……」
風邪《かぜ》気味なのか、栄吉は大儀そうにテーブルの前に坐《すわ》った。ふと目の前にある時刻表に気付き、手にとってパラパラとめくった。
「時刻表なんか出して、どうしたんだい」
「あのね、さっき、紀州へ行く汽車の時間を見ていたんです」
「紀州……?」
「来年のことを言うと鬼が笑うって言うけれど……でも、いいでしょう、見て、考えて、楽しんでるだけなら……」
そういえば今朝、栄吉ははる子に、来年の春にでもなったら紀州の須賀利《すがり》へ行ってみようと言ったのだった。
栄吉はいつまでも、先刻課長の所で聞かされた話を内緒にしておくわけにはいかなかった。
「はる子……」
遠慮がちに台所へ声をかけた。
「なんですか?」
はる子の笑顔がのぞいた。
「お酒だったら、もう少しよ」
「はる子……、来年、紀州へ行かれなくなってしまった……」
「え?」
「実は俺《おれ》、急に支那へ行くことになったんだ……」
「ええッ、支那へ……」
「この間、ちょっと話したことがあったろう、軍の鉄道隊に協力するため、仙鉄と東鉄からかなりの人間を軍属として支那へ派遣するということ……」
「え、ええ……でも、あなたがまさか……」
「俺にその任務についてくれないかという相談だったのだ……課長も気の毒がってくれた……しかし、先に上海《シヤンハイ》へ行かれた本省の加賀さんが、俺を特に望まれたらしいんだ、加賀さんはいつか俺が東海道線に特急を走らせる仕事をした時の上役で、ずいぶんお世話になった方だ……まあ、 これは命令ではないそうだが、 だからといって断れるという筋のもんでもない……」
「お国のためですものね」
「うむ……」
「いつ……出発はいつですの……」
感情を無理に押えてはる子は尋ねた。
「来月、早々だそうだ」
「来月、早々……」
はる子は残る日数を胸の中で数えてみて、愕然《がくぜん》としたらしかった。
「そんなに早いんですか」
「仕方がない、一刻を争う仕事なのだそうだから……」
栄吉は逃げるように、視線をラジオの箱の方へ向けた。
「せめて、留守中、君が淋《さび》しくないようにと思って……買って来たんだよ」
「あなた……」
はる子の声が途中でかすれた。
栄吉のやさしい心遣いに、涙が急にあふれ出してきた。
「お酒、持って来ます……」
はる子はあわてて台所へ駆け込んだ。