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旅路86

时间: 2019-12-30    进入日语论坛
核心提示:    11昭和十二年十二月十日、日本を出航した貨物船『梅丸』の甲板には二百五十名ばかりの鉄道員が乗っていた。腰に軍装した
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    11

昭和十二年十二月十日、日本を出航した貨物船『梅丸』の甲板には二百五十名ばかりの鉄道員が乗っていた。
腰に軍装した日本刀をつり、戦時用鉄道制服に身を固めた、いわゆる上海派遣の野戦鉄道隊で、後に井上部隊と呼ばれ、上海へ乗り込んだ鉄道員たちの第一陣であった。
翌年の一月、まだ正月気分の抜けきらぬ日本を後にして、伊東栄吉は一足遅れて中国へ向った。
十五年間待ちに待ち、ようやく掴《つか》んだ仕合せだったが、そうした個人的感情をさし挟む余地の無いほど国際状勢は緊迫していたのである。
しかし、栄吉にしろはる子にしろ、今度の別離には哀《かな》しさ、寂しさこそあったが、栄吉がヨーロッパへ発《た》ったり、はる子がハワイへ行ったりした時感じたような、あの深い地獄の底へでも引きずり込まれるような孤独感はなかった。
「お体に気をつけて、しっかり頑張って来てください」
「君も体によく注意して……後をよろしく頼む」
「大丈夫、家のことはまかせておいて……」
そんなやり取りの中にも、二人は互に、いつの間にか出来上った強い連帯感のあることに気がついていた。
今は、はる子は栄吉を待つことに生甲斐《いきがい》さえ感じられるような気がした。たとえどんなに辛くとも、待つことにより、家を守ることによって、第二の仕合せが必ず戻ってくることを確信していた。
やがて、大陸の栄吉から元気な便りが届いた。
『途中、心配した船酔いにもならず、〇〇日元気で呉淞《ウースン》に着きました。呉淞から展望する上海一帯はまだ茫々《ぼうぼう》の焼野原で、その野末に遠くブロードウエイ・マンションの二十五階の建物が無気味にそそり立っています。
黄浦江《こうほこう》の流れは河だか海だかわからないような大きさで、濁った黄色い水が波立ち、なんとはなしに戦場へ来たのだという緊張をおぼえました。
明日からいよいよ任務につきます。しかし、君が家でしっかり留守を守っていてくれると思うと、とても心強い。うまく言えないが、安定感があるとでもいうのだろうか。毎日、君の健康を神さまに祈っています。課長さんによろしく、南部の親父《おやじ》さんの家へは時々遊びにいくといい、御夫妻によろしくお伝えください』
戦争が次第に熾烈《しれつ》の度を加えるとともに、国内でもようやく物資の欠乏が目立って来た。
昭和十三年三月からは衣料切符制が始まり、五月には重要産業が統制となりガソリンも切符制となった。更に七月から九月にかけては、皮、ゴム、銅、新聞雑誌の用紙の使用制限がきびしくなり、いわゆる『欲しがりません勝つまでは』の生活を国民も戦地と同様耐え忍ばねばならなかった。
どの町角にも出征兵士を送る旗や幟《のぼり》が立ち並び、駅には勇しい軍歌や万歳の声が満ちあふれた。
そんな中で、北海道の岡本良平も伊東栄吉と同じように、軍属として応召することになった。千枝は去年の末、七番目の子供謙吉を産んだばかりで、今また、八番目の子を身籠《みごも》っていた。
良平の壮行会は、吉川機関庫長の家で行なわれた。
知らせを受けて駆けつけた雄一郎夫婦が接待役となり、良平は集った同僚や近所の人々に囲まれて酒を飲み、声をはり上げて軍歌をうたったが、どうしても酔えなかった。
ちょっと見には、勝気で女房天下のような顔をしている千枝が、実は大変な弱虫で、一人では何も出来ない女なのだということを誰《だれ》よりも良平は一番よく知っていた。おまけに、やがて生れてくる子を入れて八人の幼い子供たちを抱え、留守中どうやって暮して行くのだろう。そのことを思うと、良平は泣くにも泣けない気持だった。
しかし、今となっては最早《もはや》どうすることも出来ない。唯一の頼りは千枝の兄の雄一郎と有里の夫婦で、自分の出征後のことをくれぐれも頼んで出発して行った。
まさに、怒濤《どとう》のような戦争の渦であった。
良平が出発して間もなく、雄一郎は桜川駅長に呼ばれた。
(いよいよ、俺《おれ》のところへも来たか……)
半ば覚悟をきめて駅長の前へ出た雄一郎を待ち受けていたのは、意外にも小樽《おたる》転勤の内命だった。
この春、停年退職ときまっている桜川駅長は、鉄道を去る置《おき》土産《みやげ》のように、雄一郎の小樽転勤に骨を折ってくれた。そしてこれは、七人もの子を抱えて夫に応召された、千枝の立場をも考慮に入れての転勤だった。
春三月、ニセコの山の雪どけを待たずに、雄一郎夫婦は小樽へと三度目の引っ越しをした。
小樽の助役官舎は、千枝とその子供たちの住む家から歩いて十五分ほどの近さだった。良平が居なくなってから、まるで半病人のようだった千枝もこれにはおどり上って喜んだ。
引っ越しの終った翌日、雄一郎と有里は久しぶりに塩谷《しおや》にある両親の墓へ詣《もう》でた。
千枝が時々来るらしく、墓は掃除もよく行きとどいていた。
香華をたむけ、小樽転勤の報告をすませてから、
「再来年はお袋のたしか十七回忌だな……」
雄一郎がふと思いついたように言った。
「そういえばそうですね……」
有里も指を折って、頷《うなず》いた。
「十三回忌のときはちゃんとしたことが出来なかったから、今度は早くから準備をして、なるべく沢山の方に集って頂きましょうよ」
「そうだな……しかし、再来年までにこの戦争が終るかな……」
「でも、いずれにしても、良平さんも栄吉兄さんも戻っていらっしゃるでしょう……持久戦とはいっても、戦争は勝っているんですから……」
「それはそうだが……ひょっとすると、その間に俺も行くことになるかもしれんな」
「あなた、第二乙だったでしょう、それでも兵隊にとられるんですか」
「戦争次第だ、兵力が足りなくなれば第二乙だろうとなんだろうと出て行かなきゃならんさ、それに……軍属ということもある……」
「早く戦争が終って欲しいわ、あなたのところへも何時赤紙が来るか来るかと思いながら暮しているのって、ほんとうにやりきれないんですもん」
「その時はその時さ……なにしろ国が総力を結集しているんだ、俺たちだけ平和にという考えは許されないんだ」
「私、この頃《ごろ》、時々女学生時代読んだ詩のことを思い出すんです……お百度|詣《まい》りの詩なんですけれど……ひとあし踏みては夫《つま》思い、ふたあし国を思えども、三足ふたたび夫思う、女心に咎《とが》ありや、朝日に匂《にお》う日の本の、国は世界に只《ただ》一つ、妻と呼ばれて契《ちぎ》りてし、かくて御国と我が夫と、いずれ重しと問われれば、只答えずに泣かんのみ……」
有里はあたりを憚《はばか》るように、小声で詠《えい》じた。
昭和十四年四月三十日、上海、南京《ナンキン》間三百十|粁《キロ》を中心として数多くの支線と自動車事業を含む華中鉄道が創設された。
国鉄から派遣されたおびただしい数の鉄道員たちが、鉄道隊と共に戦争で破壊された中国の鉄道を復旧したのを、日華合弁で資本金五千万円をもって鉄道会社として発足したのであった。
上海上陸以来、悪戦苦闘した伊東栄吉らの努力がようやく実ったのである。
華中鉄道を運営する人々は、殆《ほとん》どが日本から送られた鉄道の幹部たちであった。
そして、その年の春、関根重彦が今度は華中鉄道へ赴任することになった。
出発前に、関根は恩人である南部斉五郎の許へ別れの挨拶《あいさつ》に出掛けて行った。
「そうか、やっぱり行くことになったか……」
斉五郎は髪こそめっきり白いものが目立ったが、血色も良く、まだ元気に帝国運輸川崎支店長として働いていた。
関根の言葉を聞き終ると、さすがに寂しそうな表情をした。
「何処《どこ》へ行こうと心掛は一つじゃ、しっかりやって来てくれよ、体をこわさんようにな」
「伊東君が行ったときと違って、もう戦争は一段落したようですし、華中鉄道には中国人も参加して、対日感情は悪くないそうですから心配はありません、まあ、内地で出来なかった分を向うへ行ってあばれて来ます」
「あんまり無茶なすっちゃいけませんよ、なんていっても日本とは気候風土の違う国へ行くんですからねえ」
節子はこのところ体をこわして、寝たり起きたりの生活をしていた。
「大丈夫ですよ、華中鉄道も今のところは上海・南京《ナンキン》間などもレールの重さも長さもまちまちで、枕木《まくらぎ》なんかもひどい物を使っているそうですが、来年中には日本の物と全部交換し面目を一新するよう計画していますから、やり甲斐《がい》がありますよ、なにしろ今は上海・南京間三百十粁をなんと二十時間もかかって運転してるそうですが、僕が行ったら……」
「そら又、関根さんのスピード狂がはじまった……」
節子がおかしそうに笑った。
「いいや奥さん、本当ですよ、僕が行ったら上海・南京間はたったの五時間にしてみせますよ、C51を使いましてね……なにしろ、あの千七百五十|粍《ミリ》の大動輪を持った機関車は狭軌軌道では世界に類がない強力なものですからね、向うの連中をびっくりさせてやりますよ」
「しかし、かなりの人手不足らしいよ、中国人は今まで外国人技師に技術的なことは何一つ教えられていないそうじゃないか、伊東君の手紙だと、缶《かま》たき一つ出来んそうだ……勿論、技術の方では車両の修理はおろか、製造などは思いもよらんことだそうだ、線路の保線の問題もあるしな……」
「そうなんです、それで頭がいたいんですがねえ……」
関根は苦笑した。
「要するに、ただ使われるだけだった民族の悲劇ですよ、日本はそんなケチな真似はしません、機関庫でも鉄道工場でも、皆、教習所を設けて、希望するものには日本の鉄道技術を惜しみなく教えてやることにするそうです、すでに常州の鉄道工場では、どしどし中国人の職工が技術をおぼえて働いているそうですよ」
「そうか、そりゃあいい、華中鉄道はもともと中国人のための鉄道であるべきなのだ、彼ら自身の手で自分たちの鉄道を運営できるように指導してやることが、日本人の使命なのだ、それでこそ、正しい意味での日本が戦に勝つということなんだ」
「僕もそう思っています、とにかく頑張ります……」
「そうそう……」
節子が思い出したように言った。
「むこうへ行ったら伊東さんには逢《あ》えるんでしょうね」
「はあ、逢えるでしょう、同じ鉄道の中ですからねえ」
「岡本の良平さんにはどうかしら……」
「さあ、彼は機関手の方でしたね……何か御言附でも?」
「ええ、それがね、伊東さんからはたびたび便りがあるらしいんだけど、良平さんから出征以来まだ一度も手紙が来ないらしいのよ、こちらから何度も手紙を出したんだけど、その返事も来ないらしいの」
「なんだ、一度も……葉書も来んのか」
斉五郎が眼を瞠《みは》った。
「ええ、はる子さんがこのあいだ来てくれた時、そう言っていました……うちでとても心配しているから、もし逢ったら手紙を書くように言ってください」
「わかりました……向うへ着いたらすぐ捜し出して、そう言いましょう」
関根も笑いながら、手帳を出してメモを取った。
「良平さん、手紙も出せないような危険な所へ回されているんでしょうかねえ」
節子が不安そうに眉をひそめた。
「なに、筆不精なんだよ、仲人の俺のところへだって、年賀状一つ寄越しよらん奴《やつ》だ」
斉五郎はわざと明るく笑いとばした。
しかし、斉五郎の思惑の方が当ったとみえ、それから一か月ほどたった或《あ》る日、小樽の千枝の許《もと》へ一通の葉書が届いた。下手くそな字で書かれた良平からの手紙だった。
そして、それには、ただ、
『支那はでっかいんでおったまげた、俺は毎日機関車に乗っている、えらく元気だから心配すんな、子供のことたのんだぞ、赤ん坊が生れたら、男なら北夫、女なら華子としろ、みなさんによろしく』
とだけあった。
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