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旅路88

时间: 2019-12-30    进入日语论坛
核心提示:    13この昭和十六年という年は、室伏家にとって、新春早々から、良いことが二つ重なった。一つは岡本良平の帰還であり、も
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    13

この昭和十六年という年は、室伏家にとって、新春早々から、良いことが二つ重なった。
一つは岡本良平の帰還であり、もう一つは、秀夫の庁立中学への合格である。
定員の三倍近い競争率で、しかも、付近の小学校の一、二番という優秀な子供たちばかり受験するというので、有里は夜も睡《ねむ》れないくらい心配したが、無事合格と知ったときにはまさに天にものぼる気持だった。
ところが、秀夫の卒業式も終り、あとは四月の入学式を待つばかりという日、突然、雄一郎の転勤の話が持ちあがった。
鉄道員に転勤は附物だから、雄一郎も有里もべつに驚かなかったが、ただ一つ困ったのは、秀夫の学校のことであった。
今度の転勤先は北海道のちょうど中央に位置を占める下富良野《しもふらの》駅で、さほど大きな駅ではないが、札幌《さつぽろ》から帯広《おびひろ》および旭川《あさひかわ》へ通じる根室《ねむろ》本線と富良野線の分岐点としてかなり重要な場所であった。
駅のある富良野町は周囲を十勝岳《とかちだけ》、富良野岳、芦別岳《あしべつだけ》などの山々に囲まれ、空知《そらち》川、富良野川の流れる静かな町である。
明治三十年に、はじめて内地人の手で開拓の鍬《くわ》が下ろされてから、広大な平野は稲作と玉ねぎやアスパラガスの好適地となった。
昭和十六年頃は戸数三千ほどの町だったが、学校などの設備はあまり充分とはいえず富良野の鉄道関係者に問い合わせると、ちょうどこの四月から富良野中学が新築落成するが、小樽中学のようなわけにはまだまだ到底行かないとのことだった。
秀夫の転校問題は、本人の希望や学校の先生などとも話し合ったあげく、とりあえず秀夫だけは岡本家に寄寓《きぐう》して小樽中学に通い、時期をみて富良野から通学出来る範囲の良い中学へ転校することになった。
春浅い日、雄一郎夫婦は初めて一人《ひとり》息子《むすこ》と別れて、下富良野駅へ転勤して行った。
今度の下富良野駅は、釧路時代の上役であった岡井亀吉がやはり助役として勤務していた。それもつい十日ほど前に、旭川から転勤して来たのだという。
この好人物の夫婦は、雄一郎夫婦との再会を心から喜び、迎えてくれた。
「まあ、まあ、お久しぶり……釧路以来だものねえ、何年になるかねえ……」
「本当に、あの頃はお世話になりっぱなしで……」
たとえ十日でも岡井夫婦が先に来ていてくれたことは、有里には何よりも心強かった。
「いつも主人とあなたがたのお噂《うわさ》をしてはなつかしがっていたんですのよ」
「うちだっておんなじだよ……さぶがよく秀ちゃんの話をしてねえ、あの子もよっぽどなつかしかったんだろうね……」
「三郎ちゃん、旭川中学に行ってるんですってね」
「ああ、今、中学の寄宿舎へはいってるのよ」
「寄宿舎……?」
「はア……あたしらが下富良野駅へ転勤になったでしょう、ここから通学出来んこともないんだけど、寄宿舎のほうがゆっくり勉強できるとかいってねえ」
「そうですか……三郎ちゃん、もう二年生でしたね」
「早いもんだねえ……秀ちゃん、小樽だって?」
「ええ、当分妹のところから通わせることにしたんです」
「したが、卒業するまで小樽へ置いとくわけでもないんだろう」
「それで困っているんです……岡本のところも子供が多いし、親子はなればなれに暮すのも心配だし、なんとかこっちのいい学校に転校させたいと思ってるんですけれど……」
「そうねえ、この辺ではやっぱり旭川中学だろうねえ、あそこは庁立だし、昔っから有名だでねえ……」
「そういえば、小樽の駅長さんもそんなことを言ってらっしゃいました」
小樽の駅長は、数年前桜川孝助が停年退職でやめ、かわりに佐田松太郎という室蘭《むろらん》出身のこれも温厚な人物になっていた。
「でも、試験ももうすんでしまったことだし……」
「うちの亭主が旭川中学の教頭先生と親しいで、いっぺん聴いてもらってあげようか、同じ庁立だで、なんとかなるんでないのかねえ」
「そうですか、もし、お願い出来ますんなら……」
有里はすがりつくような思いで言った。
「どうかよろしくお願いいたします」
「早速話してみるわね、さぶだって、秀ちゃんと一緒ならどんなに喜ぶかしれんし……」
結局、岡井よし子が持ち前の世話好きを発揮して熱心に奔走してくれたお蔭《かげ》で、秀夫の転校問題は、一応小樽中学を一学期だけ修了してくれば、旭川中学へ転校できるということになった。
転勤早々は、雄一郎は勿論、有里もなにかと雑用に追われた。
それでも有里はしばしば小樽へ出かけ、秀夫の面倒をみた。
秀夫は元気で中学校へ通っていたが、神経質な彼は、子沢山の岡本家では殆《ほとん》ど勉強する時間がなく、子供たちが寝しずまった深夜になって予習復習をはじめるので、しばしば夜明け近くまで机に向うことが多いということであった。
その秀夫が無事に一学期を修了し、小樽から富良野へ移って来るころ、岡井亀吉の三男の三郎も夏休みで旭川から家へ帰って来た。
どういうわけか、秀夫はこの岡井三郎とウマが合った。
華奢《きやしや》で神経質なところのある秀夫に対して、三郎は体格もよく、のんびりしたお人よしの所がある。まるで個性の違うことが、かえって二人の親近感をよんだものらしかった。
九月になると、秀夫はいよいよ旭川中学へ通いだした。
秀夫は三郎と一緒に寄宿舎へはいりたい様子だったが、雄一郎と有里はしばらく汽車通学させてみることにした。下富良野から旭川まで、約二時間余だった。
朝五時に家を出て、帰りはやはり夕方の五時すぎになる。
有里は秀夫の健康に注意しながら、朝は四時起きをして弁当を作り、あたたかい朝食を食べさせて送り出した。
そして、九月のなかば、あと一か月ほどで千枝の出産か、と話題にしている矢先、小樽からの電報で岡本良平の軍属出征を知らせて来た。
泣くひまも、ゆっくり話し合う暇もなかった。九月十六日、千葉の津田沼《つだぬま》に集合した良平は、鉄道九連隊に編入され、翌月早々、大阪港を出港した。
行先は厳重に秘密とされ、勿論、家族にも知らされなかったが、上陸したのは仏領印度支那のハイフォンであった。十月十九日の朝である。
この日、小樽の留守宅では、千枝が第九番目の子を無事に出産した。男の子であった。
名前は出征前夜、良平が考えて行ったとおり、邦夫と名付けられた。
そして遂に、昭和十六年十二月八日、日本はアメリカ、イギリスに対し宣戦を布告した。
『大本営発表……帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋に於《おい》て、米英軍と戦闘状態に入れり……』
ラジオのニュースは北海道の雄一郎たちを驚かせた。更に、
『……帝国海軍は本八日未明、ハワイ方面の米国艦隊並びに航空兵力に対し決死的大空襲を決行せり……』
『……帝国海軍は本八日未明、上海に於て英国砲艦ペテレルを撃沈せり、米国砲艦ウェークは同時刻、我に降伏せり……』
などのニュースが続々と伝えられた。
同十日にはマレー沖海戦、戦艦プリンス・オブ・ウェールス、レパルス撃沈、ルソン島上陸、次いで十二日にはグァム島占領、二十五日|香港《ホンコン》陥落と、日本は破竹の勢いで南下を続けた。
翌昭和十七年も、日本軍はマニラを占領、二月にはパレンバンに落下傘部隊が大挙して降下し、シンガポールの攻略が成り、ラングーン占領、マッカーサーの比島脱出など戦勝のニュースが続いた。
しかし、その四月十八日、米軍の爆撃機による東京、横浜、名古屋、四日市《よつかいち》、神戸《こうべ》などの初空襲があり、戦争の成行を楽観していた日本国中を仰天させた。
衣料品はすでに総合切符制が公布され、一人年間、都市百点、農村八十点に制限されていた。ちなみに、国民服三十二点、ワイシャツ十二点、敷き布団二十四点、下ばき四点という数字である。
この年、千葉のはる子の周囲では、にわかに人の動きがはげしくなった。
まず二月に、関根重彦が帰還してそのまま大阪の鉄道管理局へ勤務することになったという知らせに驚いていると、四月には南部斉五郎が同じ大阪の支店へ転勤することになった。
節子はちょうど第二の発作を起したばかりの時で、とても大阪まではついて行けないので、この際、はる子の勧めに従い千葉の伊東家に厄介になることになった。
「すみませんねえ、こんな病気の体で転がり込んだりして、あなたにはすっかりご迷惑をかけてしまって……」
最近、涙もろくなっている節子は、何か言っては、すぐハンカチで顔を押えた。
「いいえ、とんでもない、私たちきょうだいは駅長さんご夫妻を本当の両親のように思って今日まで生きてまいりましたのです、お世話をするのは当然です……」
その言葉通り、手足の不自由な節子に、実の子でもこうは行かないと思えるほど良く仕えた。
「私はなんにもあなたの為にしてあげられないけれど、せめて、伊東さんのご無事だけは毎日神さまにお祈りしていますよ……」
そんな節子の祈りが通じたものか、本当に伊東栄吉がその夏、うだるように暑い昼日中、出て行くときよりもずっと顔も引きしまり、一層男らしくたくましくなって帰って来た。
「お帰りなさい……」
「只今《ただいま》……」
はる子は、栄吉が長い出張旅行から帰って来たくらいの、ごくさりげない表情しかしなかった。
しかし、その眼の中に、栄吉は彼女が一生懸命こらえているものをちゃんと読みとっていた。もし、ちょっとでもその心のバランスが崩れだしたら、はる子の胸は激情のあまり張り裂けてしまったに違いなかった。
はる子も栄吉も、黙って相手の眼を見詰め合った。そして、相手の胸の中のすべてを理解し合った。それが二人の、愛情の表現法だった。
同じ年、はる子の許《もと》へ尾形和子から、今度広島の工場へ寮母として行くことになったので当分逢《あ》えないのが残念ですという手紙が来た。和子はいつの間にか、はる子とは姉妹のように往来していたのである。
そのことを節子に話すと、節子は、
「やっぱり伊東さんが帰ってくると、あの人も辛くなったんじゃないかしらね……」
ぽつりと言った。
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