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旅路91

时间: 2019-12-30    进入日语论坛
核心提示:    16みちは奇蹟《きせき》的に生命をとりとめた。一時は完全に医者も匙《さじ》を投げた恰好《かつこう》だったのだが、人
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    16

みちは奇蹟《きせき》的に生命をとりとめた。
一時は完全に医者も匙《さじ》を投げた恰好《かつこう》だったのだが、人一倍勝気だった彼女の精神力が必死で死の淵《ふち》より這《は》い上って来たのだった。
「よかったわ……正直な話、もう間に合わないかと思った……」
有里はほっと胸をなでおろした。
「昨夜が実は峠やったんや、大阪に頼んどいた特効薬がようよう間に合うてな……その薬を使うたら、ずっと楽になって来たのや」
勇介もさすがに嬉しそうだった。
「肺炎ですって?」
「風邪《かぜ》をこじらせたんや、最初に診せた医者が誤診しよってな……それにしてもよう来られたな、道中が大変やったやろう……」
「まるで地獄みたいだったわ……東京では空襲のすぐあとを通ったけど、これでは戦地も銃後もないとつくづく思ったわ」
「そうか、まあ、えらい時代になったなあ……ここらも海軍が警備に来とって、港には駆逐艦や掃海艇やらいうもんが這入《はい》っとるんや……それに近頃は交通難で大阪へもよう出られへん」
「そういえば、弘子姉さん、どうしてる?」
「何度もごちゃごちゃ言うて来て、やれ、出るの、のくのと大騒ぎやったけど、なんせこういう時代になってしもうたさかい、芦屋《あしや》のほうに引き籠《こも》って、どうやらおとなしゅうしとるようや」
「したら、お義兄《にい》さん、まだ女の人と手が切れてないのね」
「なにしろ、子供まであるのやさかいな……」
勇介はどうしようもないというふうに首をふった。
「弘子んとこにくらべたら、お前のとこは仕合せや……夫婦たらいうもんは、やっぱり愛情がいちばん大切やさかいな、愛情がのうなっては、何をしてもあかん……」
「でも大阪のお義兄さん、兵隊にとられないだけでも弘子姉さんは仕合せだわ、うちなんか、もしあの人に万一のことがあったら、それっきりですもん」
「いいや、そんなことはない……第一、雄一郎はんが敵の弾にあたって死んだりなんぞするもんかいな」
「どうして?」
「どうしてたって、そうやがな……」
「お兄さんは戦争に行かないから、そんな暢気《のんき》なことを言っているのよ、どこの村や町の駅へ行ったって、毎日毎日、白い函《はこ》に納められた英霊が降り立たない日がありますか……ほんとうはこうしているあいだにも、何十人、何百人の兵隊さんが死んでいるかもしれないのよ、その中にあの人がはいっているかもしれないじゃありませんか……」
いつもより激しい妹の語気に、勇介は口をつぐんでしまった。
(無理もない……)
と勇介は思う。
いくら落ちぶれたとはいえ、この尾鷲に居りさえしたら、もっと金持の家へ嫁ぐことも出来たろうし、なに不自由なく暮せたものを、自分から好んで北海道くんだりまで出掛けて行った妹なのである。もし、雄一郎に死なれたらと苛立《いらだ》つ気持もよくわかる。
そういえば、しばらく見ぬうちに、有里の眼尻《めじり》にもずいぶん小皺《こじわ》がふえていた。
「有里……それだけはお前がいくら心配してもどうしようもないこっちゃ……それよりも、もしそのことが原因でお前が体でも悪うなったら、それこそ雄一郎はんに申し訳が立たんぞ、ええな……」
勇介は、ただそれだけ言った。
みちの容態は、持ち直したといってもすぐに回復するというものではなかった。
幾日も高熱が続き、ブドー糖の注射だけで栄養を補給するといった最悪の状態だったので、体力の消耗がはげしかった。
みちは有里が来てくれたことを、涙を流さんばかりにして喜んだ。それどころか、大病のあと気が弱くなったらしく、心細がって、なかなか有里を帰したがらなかった。
北海道が気になりながら、やはり有里も、そんな母をおいて尾鷲を出発する気になれなかった。秀夫が家から通学しているのならともかく、寄宿舎生活をしているので、その点だけは安心だった。
みちはしきりに秀夫に逢《あ》いたがった。
「もう一度、危篤たらいう電報を打って呼び寄せたらどうかいの」
「したって、お母さん、秀夫はまだ学校があるんですよ」
「そうじゃった、そうじゃった……けれど、ずいぶん大きうなったろうのう」
このごろでは、みちは床の上に起き上って有里とそんな会話を交わすほどまでに回復していた。
その日は、勇介は疎開者が格安で手離すという土地を見に大阪へ出掛けて行って留守だった。
有里は勇介の妻の幸子や、長女の啓子らと母の病室へ集り、とりとめもない世間話に花をさかせた。ちょうど昼食時で、幸子がそろそろ仕度をと立ちかけたとたん、グラッと大地が傾くかと思われるほど揺れだし、幸子はそのまま畳に叩きつけられた。
「地震やッ、啓子ッ、みんなテーブルの下へかくれてッ……」
幸子が叫んだ。
「お母さん、布団を頭からかぶりなさい」
有里も夢中でみちのそばへ這い寄った。
「それより、火の始末、火の始末をしてや……」
みちも跡切《とぎ》れ跡切れに指示を与えた。
昭和十九年十二月七日の正午すぎのことである。
地震とほぼ前後して、津波が来た。
この時、浜に居た人々の中で助った者の話によると、堤防の内側の海面がぐっと低くなり、いまにも海底が見えるほどになったかと思うと、今度はその底から、まるで井戸が溢《あふ》れるように盛り上って来た海水が、あっという間に尾鷲の町を浸して行ったのだという。
津波というのは、上から大波のようにかぶって来るものではなく、あっという間に浸水し、その水がひくときに家も人も牛も馬も押し流してしまう。
中里家では、ちょうど居合せた庭男がみちを背負い、有里は折から妊娠中の幸子をかばいながら、重要書類や母や啓子などの身の回りのものなどを持って高台にある中里家の菩提寺《ぼだいじ》へ避難した。
寺へ着いてみると、本堂はすでに避難して来た人と荷物でいっぱいだった。
しばらくすると、庭の方で、
「津波がひいたぞ……家へ帰れるぞ……」
などと呼ぶ声がさかんにした。
どうなることかと不安の眉《まゆ》をよせていた人々の顔にもようやく生気が蘇《よみがえ》った。
「お姑《かあ》さん、水がひいたそうですよって、みんなが今のうちに大事なもんを家に取りに行く言うてます。うちもせめて子供のもんや食物などを運びに行きたいと思いますけど……」
外の様子を見に行った幸子が戻って来て言った。
「あかん、行ったらあかんえ……」
みちは強く幸子をとめた。
「津波いうもんはな、一度きりですむもんやない、一度ひいたら、すぐ寄り返してくるもんや、今、行ったら間違いなくあんたがやられる、行ったらあかん……」
「けど、みんな大丈夫や言うてはりますわ」
「やめなさい、命があったらそれでええのや、品物を惜しんでかけがえのない命を失うてどないするのや」
「はい……」
幸子は不承不承、みちの言葉に従った。
ところが、みちの言葉は本当になった。それから間もなく、津波の寄返しが来て、荷物を取りに家に戻った人々の大半が波にのまれたのである。しかも、人間の被害は第一回目のときより二回目の方が多かった。
これが世にいう、東海大地震と呼ばれる災害だった。
震源地は遠州灘《えんしゆうなだ》である。
この時、津波に襲われた地域は紀伊半島、伊豆西海岸、房総海岸にまで及び、全国の死者、行方不明約一千人、家屋の倒壊、流出、約二千六百戸と発表された。
しかし、この数字の中に、何故か尾鷲の被害件数は含まれなかった。
というのは、当時、尾鷲の港には極秘裏に海軍の駆逐艦、掃海艇などが居たため、尾鷲の被害状況発表の差し止めが軍部から命令された為だった。新聞でもラジオでも、尾鷲に関してだけは一行ものらず、一言も語られなかった。
一方、大阪でこの津波のニュースをきいた勇介は、その足ですぐ尾鷲へ馳戻《はせもど》ったが、紀勢《きせい》線はいたるところでずたずたに寸断され、忽《たちま》ち立往生してしまった。電信電話は勿論通じない。家族の安否が気になって、居ても立ってもいられない気持だったが、これではどうすることも出来なかった。
その夜、有里たちは、停電で真暗闇《まつくらやみ》の本堂の中で不安な一夜をすごした。
翌朝、家へ帰ってみると、嬉《うれ》しいことに家は無事だった。しかし、中里家と道一つへだてた海側は、ごっそりと家ぐるみ、抉《えぐ》られたように津波にさらわれていた。
残された中里家も、一階は鴨居《かもい》の近くまで浸水し、わずかに流出をまぬがれたのである。
朝の光の中で、有里は手伝いの人々といっしょに泥水の中で作業を続けた。
昨日の地震も津波も、まるで嘘《うそ》のように平和に晴れわたった尾鷲上空を、その時、飛行機が二機とんだ。それが、尾鷲上空にはじめてB29のとんだ朝であった。多分、東海大地震の被害状況を偵察に来たのだろう。
尾鷲が被害を受けたことが新聞に出たのは、結局、災害後三日もたってからであった。が、この時も、具体的な数字は何一つ発表されなかった。
しかし、その頃《ころ》には有里から、
『ミンナブジ アンシンセヨ ユリ』
の電報が富良野にも小樽にも届けられ、不安のあまり茫然《ぼうぜん》としていた千枝や、岡井亀吉夫婦、そして寄宿舎の秀夫をほっとさせた。
だが、この騒ぎで、尾鷲のみちの容態は再び悪化したため、その看病のために、有里は当分北海道へ帰れないことになった。
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