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昭和二十年、戦争はもはや末期的様相を呈していた。
連日連夜、主要都市に対するB29の攻撃が続けられた。
ところが、奇妙なことに、B29が阪神や名古屋を空襲する前に勢揃《せいぞろ》いするのがこの尾鷲上空だった。尾鷲上空を旋回しながら隊伍《たいご》をととのえ、悠々と目的地へ向けてとび立って行くのである。爆弾こそ落さなかったが、尾鷲の人々は生きた心地もなかった。
この頃、鉄道線路は、富士山と共にB29の進路のよい道しるべだった。
その空襲下の大阪に、関根重彦は大鉄の総務部長として天王寺《てんのうじ》管理部に居た。又、その同じ天王寺の帝国運送支店には、南部斉五郎が病妻を千葉のはる子の許《もと》に預け単身赴任して来ていたのである。
斉五郎は、もはや停年をすぎていたが、どこも人手不足で、悠々自適どころのさわぎではなかった。
尾鷲の津波から二か月ほどたった或《あ》る日、有里は弘子の嫁ぎ先である吉田屋から届けられた蜂蜜《はちみつ》とニンニクのエキスを受け取りに、鳥羽《とば》まで出掛けることになった。
これは、勇介が前から母のために吉田屋へ依頼してあったもので、番頭が鳥羽まで行くついでに持ってくるので、そこまで御足労願いたいとのことだった。指定して来た日が、ちょうど勇介は勤労奉仕の当番で、幸子は妊娠中だったため、有里が行くことになったのだった。
その前日、突然、大阪から関根重彦が有里をたずねてやって来た。もっとも関根が尾鷲を訪れるのはこれが初めてではなく、津波の直後、心配して来てくれて以来、部下に二度ほど見舞品を届けさせてくれていた。
今度も京都の御子柴家から言付かったといって、牛肉をわざわざ持って来たのだった。
「有難うございます……ほんとうに何とお礼を言ったらいいか……」
有里は月並なことしか言えなかったが、関根の親切にたいしては、まさに両手を合せて拝みたいような気持だった。
「この間の空襲は大変でしたわねえ、B29がこの上を通って大阪へ行ったんです……関根さんや南部さんがお怪我《けが》がなければいいがと、とても心配しましたわ……」
「そうそう、南部の親父《おやじ》さんといえば、今日、僕と一緒にここへ来るはずだったんですが、急に千葉へ帰らなければならないことになりましてね、昨夜のうちに出掛けられました……」
「千葉へ……?」
「ええ、昨夜千葉から電報が来て……奥さんの容態がよくないらしいんです……」
「まあ……そんなに……」
「とにかく、電報が来るくらいですからね」
節子の容態を案じながらも、有里は翌日、吉田屋の番頭に逢《あ》うため鳥羽へ発った。
番頭は約束の旅館で、といっても表向きは軍需工場の寮ということになっていたが、先に来て有里を待っていた。
そして品物と一緒に、弘子の夫である吉田屋の主人の伝言を持って来た。
「実は……若御寮はんのことでちっとお願いがおますのやけど……」
番頭は言いにくそうに話しはじめた。
前にも弘子には何度となく話してあるのだが、吉田屋の主人、つまり弘子の夫は、どうしても吉田屋の跡をとらせる子供が欲しい。それで、他の女に彼が産せた子供を養子として引き取りたいと、かねてより考えていた。もし子供さえ引き取ったら、その女とはきっぱり別れる決心もついている。ところが、肝腎《かんじん》の弘子がどうしても、うんと言わない。子供を引き取るのなら、私がこの家を出て行きますの一点張りなのでほとほと手を焼いている。なんとか、尾鷲の実家のほうからもこの事について、弘子に納得《なつとく》させてもらえまいかという、吉田屋の主人の伝言だった。
勿論、有里の一存で答えられることではないので、いずれ、母や兄とも相談してと返事をして、有里は早々にいとまを告げた。
吉田屋から貰《もら》った包をしっかりと抱えて、有里は相可口《おうかぐち》まで行き、そこから紀勢本線に乗り換えるつもりだった。ところが、乗り換え待ちに散々手間取ったあげく、やって来た最終列車は人が鈴なりでどうしても乗れなかった。
有里はやむなく駅で夜を明すことになり、待合室へ行った。待合室には有里と同じく、列車に乗りそびれた人々が、肩をすぼめるようにして夜明けの来るのを待っていた。床にじかに新聞紙を敷いて寝ている人もいる。
有里はベンチにうずくまるようにして、じっと眼を閉じていた。
ふと背後のほうで、女の途方にくれたような声がした。駅員に何かしきりと尋ねているらしい。
「あの、次の鳥羽行は何時に出ますか?」
「今夜はもう出ませんよ」
かなり突慳貪《つつけんどん》なもの言いで、女の駅員が答えていた。最近、男の手が足りないため、こうした職業にもかなり女性の進出が見られた。しかし、概して態度が悪く、あまり評判もよくないようだった。
「ええ、ですから明日の朝は……」
「時間表をみて下さい」
「時間どおり出るんでしょうか」
「そんなこと、わかりません」
ピシャッと窓口を閉める音がした。
女は仕方なく、時間表を見に有里の前を通って、反対側の壁の方へ歩いて行った。が、その顔を見たとたん、有里は思わず息をとめた。
「三千代さん……」
「まあ……」
三千代も茫然《ぼうぜん》と有里を見詰めた。だが、次の瞬間、三千代は顔をそむけて立ち去ろうとした。
「待ってください」
「あなたにお話しすることなんかありませんわ」
「あなたになくても、私のほうにあるんです……」
有里は三千代に近づいた。
「うかがいたくありませんわ」
三千代は再び顔をそらした。
「念のため申しますけど、私、いつぞや北海道であなたとお約束してから、一度だって雄一郎さんにはお目にかかって居りませんわ。それでも、なにか、私におっしゃりたいことがおありなんですの」
「主人のことではありません……主人は今、出征しております」
「……雄一郎さんが出征……」
三千代の眼がはじめて有里に向いた。
「もう一年以上になります」
「まあ……」
三千代は本当にその後の雄一郎のことは、まるで知識がないらしかった。
「それより三千代さん、どうか、すぐ千葉へいらっしゃって下さい」
「千葉……?」
「千葉の伊東栄吉の家へ行ってください」
「伊東栄吉さんの家……?」
「はい、そこに南部さんの奥さまがいらっしゃるのです……奥様、ご病気なんです……」
「えッ、祖母が……」
「もう今度がたしか三度目の発作で……脳溢血《のういつけつ》だそうです」
「まあ……それで、容態は……ひどく悪いんでしょうか……」
「私も昨日、関根さんからうかがったばかりなんですけど、千葉から大阪にいらっしゃる南部さんに電報が届いたそうです。南部さんはすぐ千葉へ駈《か》けつけました……」
有里の言葉が終るか終らぬうちに、三千代は出札の窓口へとんで行った。
「あの……東京へ行きたいんですけれど、急行券はないでしょうか」
「ありません」
先刻の女駅員だった。
「祖母が危篤なんです、私にとってはかけがえのない人なんです、どうしても行ってやりたいんです、なんとかお願い出来ませんか」
三千代は必死だった。窓口にすがりつくようにして、中の駅員にたのんだ。だが、それに対する答えはあくまでも冷めたかった。
「無いものは仕方ないでしょう」
「それでは、駅長さんにお目にかかれないでしょうか」
「もう帰りました」
とりつく島もなかった。
有里は三千代をうながして、駅前の旅館に行った。うす汚い木賃宿のような旅館だったが待合室で夜を明すよりはましだった。
「私、名古屋で焼けだされて、一緒のパラシュート工場で働いていた友だちに誘われて鳥羽へ来たんです……でも、いつまでもぶらぶらしているわけにもいかないし、今日、こっちの方にいい勤め口があるというので見に来たら、すっかり遅くなってしまって……」
三千代は今度は自分から、ぽつりぽつりと身上話をはじめた。
「だけど、これがきっと神様のおひき合せっていうんでしょうね、あなたにお目にかからなかったら、千葉のこと、まだ当分は知らなかったでしょう……」
「でも三千代さん、切符はどうなさいます?」
「夜が明けたら駅長さんにじかに頼んでみます……でも、駄目かもしれないわねえ……」
三千代の表情が哀《かな》しげにゆがんだ。
「こうやっているうちにも、おばあちゃんが……なんて私って恩知らずな女なんだろう……」
「三千代さん……」
「羽が欲しいわ……空をとんで……千葉へ行けたら……お願いよ、おばあちゃん、お願いだから死なないで……」
そばに有里の居ることを忘れたように、三千代は両手を胸の前に固くしっかりと握りしめた。