18
一週間ほどたって、千葉の消印のある手紙が、尾鷲《おわせ》の有里のもとに届けられた。
三千代からの手紙だった。
あの翌朝、駅長の計らいで、駅員の家族の切符をわけてもらい、どうやら急行で千葉へ駆けつけることが出来、節子の死目にも逢《あ》えた礼を述べたものだった。又、これからは祖父の南部斉五郎と一緒に住み、長い間の不孝の詫《わ》びをするつもりだと結んであった。
有里は早速このことを病床のみちに報告した。みちはあれからずっと三千代のことを心配して、
「どうしたかの、三千代さんたらいうお人、お祖母さんの死目にめぐり逢えたかいの……」
口癖のように繰返していた。
三千代が節子に逢えたと聞くと、
「そうかの、逢えたかのう……それは良かった、良かった……」
心から嬉《うれ》しそうに、何度も頷《うなず》いた。
「きっと神様が、私を三千代さんに逢わせてくださったのだと思うわ、でなければ、あんなにうまく行くはずがないもの……」
「いいや、それはなあ、南部駅長はんの奥さんの魂が三千代さんを呼んだんや、逢いたい逢いたいと思うとる時、人間の魂は、体をはなれてその逢いたい人の許へとんで行くのや……それが霊というものやさかいなあ……」
「そうかもしれないわねえ……」
有里もしみじみとした口調になった。
有里はふと雄一郎のことを想った。もし、みちの言うのが本当なら、自分が雄一郎に逢いたいと思う気持が彼に通じるだろうか。逢えないまでも、手紙ぐらいは来て欲しいと思う。
「有里さん、北海道から電報ですよ」
障子を開けて、幸子が言った。
「なんや、北海道からなんて……」
みちが表情を固くした。
「なにか又、起ったんと違うか?」
まさかとは思うが、このところ息をつくひまもないくらいの事件の連続なので、有里も少し不安になった。いそいで電文を読み下した。
「なあんだ……」
有里が笑いだした。
「秀夫からよ、秀夫がこっちへ来るんですって……」
「そりゃ、ほんまかいな」
「そういえば、学校そろそろ休みなんだわ」
「いつ、いつ来るんかいの」
「そうね、十五日にたつとあるから、もう三日もすると、こちらへ着くわ」
「ほう……」
みちは、秀夫の到着が待ち遠しそうに、一本一本指を折って到着の日を数えた。その横顔は子供が遠足の日を指折り数えて待つように楽しげだった。
もちろん有里も、秀夫の到着を首を長くして待った。
有里が母の危篤の電報によって北海道を発《た》ったのは、去年の十一月末のことだったから、かれこれ四か月近くも秀夫の顔を見なかったことになる。母と子がこれほど長く離れて暮したことは今迄《いままで》にもなかった。
予定通り、それから三日ほどたって秀夫が尾鷲へやって来た。
「ほんまにまあ、なんと大きうなったもんやなあ……」
秀夫の成長ぶりに、みちはすっかり驚いたようだった。身長といい、骨格といい、父親ゆずりで大きくたくましい。
「小さい時は、まるで女の子みたいに華奢《きやしや》やったのに、すっかり見違えてしまったわ……」
何度も溜息《ためいき》をつき、それでも嬉《うれ》しそうに眼を細めた。
「工場へ動員されたり、勤労奉仕などで体を使うから、いつの間にかいい体になったんですよ、病気もね、昔、釧路《くしろ》で母さんに病院へ連れて行ってもらった時の大病以来、風邪《かぜ》もめったにひかないくらい丈夫になったんですよ」
「そうそう、あの時はまだ小学校へ行く前やったなあ……今ではもうおぶいたくても、ようおぶえんわ」
「今度は俺《おれ》が婆ちゃんおぶってやるよ」
「ほんまになあ、おおきに……」
そこへ、啓子がやや恥かしそうにやって来た。
「いらっしゃい……」
行儀よく畳へ両手をついてから、
「あの……母が秀夫ちゃん、よかったらお風呂《ふろ》あびたらって言うてますけど……」
はきはきと要件を述べた。
「啓子、おぼえとるかい……ほれ、倶知安《くつちやん》へ婆ちゃんと行ったとき、秀夫ちゃんに毎日遊んでもろたやないか……あれは、いくつくらいの時やったかいな……」
「啓子ちゃんが小学校へはいったばかりではなかったかしら……」
「秀ちゃんおぼえとるかの?」
有里の言葉をみちが受けた。
「ああ、そりゃ、おぼえとる……」
秀夫はそう言いながら啓子を見たが、なんとなく照れくさそうに眼をそらした。秀夫にしても啓子にしても、この五、六年は育ちざかりで、お互に相手の変りようにかなり戸惑っているらしかった。
「二人とも大きうなったで、びっくりしたやろ……」
みちが楽しそうな表情で笑った。
しかし、そんな和気あいあいとした雰囲気の中でさえ、秀夫の態度に妙な固さが目立ったのを有里は不審に思った。最初はしばらく離れて暮していたせいかとも考えたが、それとは違う、なにか翳《かげ》りのようなものが眼の奥に沈んでいた。
(何か隠している……何だろう?)
いつもだったら何のためらいもなく問い糺《ただ》すのだが、この日に限って有里は躊躇《ためら》った。秀夫の表情には、有里の心を圧迫するような、何かひどく思いつめた色があった。
その晩、秀夫は母と二人っきりになると、やはり有里が予感したように、急に居ずまいをただして、
「母さん、俺、相談があるんだ……」
と、まず口をきった。
「相談……?」
有里は努めて不安を表へ出さないようにした。
「なあに、学校のこと、それとも……」
「母さん……俺、ほんとうはお別れに来たんだ……」
「お別れ……なんのことよ、秀夫……」
「俺、海兵団へはいったんだ」
「なんですって……」
それまで浮かべていた有里の微笑が、はっと頬《ほお》に凍りついた。
「母さんに相談しないで悪かったけど、相談しているひまがなかったんだ……ちょうど母さんが留守の二月にむこうで志願兵の募集があったんだ、それで俺、さぶちゃんと一緒に志願したんだよ」
「岡井さんとこのさぶちゃんと……?」
「二人とも合格したんだ」
「秀夫……」
「今月の五日に通知が来たんだ、本当は第一志望は飛行兵だったんだが、第二志望の機関兵に指定されたんだよ、さぶちゃんも同じだった……」
「いけないわ、秀夫、あんた母さんに約束したじゃないの、海軍兵学校に落ちたからには学業を続けるって……」
「今はね母さん、のんびりと授業を受けている時代じゃないんだよ……遅かれ早かれ兵隊にならなきゃならないんだったら、むしろ、一日も早く志願してでも戦場に駈《か》けつけるべきなんだ、今の日本は、俺たち若い力を必要としてるんだ……日本のためなら、俺たち喜んで醜《しこ》の御楯《みたて》となる……ね、そうだろう、母さん……」
「したって、秀夫……」
思わず声が高くなった。
当時、海軍兵学校や予科練の生徒たちは世の花形的存在だった。少年たちにとって憧《あこが》れの短剣であり、夢の七ツボタンだったのだ。
しかしそれに引替、海兵団は戦争中の犠牲が最も多かったにもかかわらず、その存在は地味であった。世間が特に喝采《かつさい》を送ったわけでもない。海兵団は徴兵によって集められた水兵の兵営であり、志願兵として入団しても、階位は水兵として最下位の二等水兵である。いわゆる、労多くして、報われることのすくないものだった。
だが、有里はそんなことで、秀夫の海兵団入りを悲しんだのではなかった。
「どうして、そんな大事なことを母さんにひと言の相談もしてくれなかったの……海兵団へはいりたいんだったら、なぜ、はいりたいってひとこと言ってくれなかったの……」
「じゃ、母さん、もし母さんに俺が海兵団に志願したいっていったら、すぐ賛成してくれたかい……去年、海兵を受けたときだって、母さんは最後まで反対だったじゃないか……試験の最中だって、母さんは俺が試験に落ちることを祈ってたんだろう」
「そんな……違いますよ……」
「違うもんか、俺が不合格だった時、母さんは黙ってたけど、俺にはわかったんだ、母さんがよかったと思ってるのが……喜んでるのが、よくわかった……隠したって駄目だ、俺は母さんの気持は隅から隅までわかってるんだ、わかってるから、黙って志願したんだよ……」
「それじゃ、秀夫、あんたは母さんが、あんたを戦争にやりたくないっていうことを知ってて、海兵団に志願したの?」
「母さん、よく、そんなことが言えるね……」
冷めたい眼で、秀夫は母を一瞥《いちべつ》した。
「この日本が興るか亡びるかという大事に、自分の息子《むすこ》を戦争にやりたくないなんて、よく、そんな恥しいことが口に出せるね」
「だって、秀夫……」
「母さんッ、俺、母さんのそういうところが嫌なんだ、そりゃ、俺は母さんにとって、かけがえのないたった一人の息子だろう……だからって、日本が勝つか負けるかという瀬戸際に、自分の息子だけは無事で安全な所に置いておきたいなんて、そんな自分勝手なことが許されると思ってるのかい……」
秀夫は頬《ほお》を紅潮させて喋《しやべ》り続けた。
「母さん、俺だって日本人だ……みんなでいつも話しているんだ、お国のために死ぬべき時が来たら、立派に死のうって……今の俺たちが命を惜しんだら、いったい日本はどうなるんだ、俺たちが死ぬことこそ、日本を救うたった一つの道なんだ」
「待ってちょうだい……」
有里はようやく声を出した。
「あんたがそこまで考えているのなら母さんも言います、母さん、あんたに死んでもらいたくないのよ」
「母さん……」
秀夫が眉《まゆ》をしかめたが、有里は続けた。
「たとえ非国民といわれても、銃後の母にあるまじき言葉だとののしられても、母さん、あんたを殺したくない……あなたがどうしても死ななきゃならないのなら、母さんがかわりに死にます、母さんの命ですむことだったら、いつだって喜んでお国に差し上げます、だからあんただけは……」
「はんかくさいことを言うんじゃないよ、母さんなんかに何が出来るんだ、母さんが飛行機に乗れるか、軍艦動かせるか、鉄砲うって敵を倒せるか……」
「あんたがやることだったらなんだってやるわ……鉄砲かつげというなら担ぎます、飛行機に乗って敵の軍艦へ突っ込めというのなら、母さん、きっとやってみせる……」
「母さん、未練じゃないか、どこの母親だって、みんな辛くとも、苦しくとも子供を戦場へ送り出しているんだ、母さんは利己主義者だよ、非国民だよ」
「秀夫、あんたは母さんだけの子じゃないのよ、父さんと母さんの二人の子なのよ」
「父さんは許してくれるよ、父さんにはきっと俺の気持がわかってくれる……ね、母さんわかってくれよ、母さん……」
その時、廊下の障子が突然ガタガタと鳴って開いた。みちが崩れるように部屋へ入って来た。
「秀夫……」
「あ、お母さん……」
「婆ちゃん……」
二人とも、みちのそばへ駆け寄った。
「お願いだよ、後生一生のお願いだよ、行かないでおくれ……秀夫、せめて、婆ちゃんの息のあるうちだけは……どうか、どうか、海兵団たらいうところへはいらないでおくれ……」
みちは、有里と秀夫のやりとりを隣室で聞いて、たまらなくなって蒲団から這い出して来たものらしかった。
「秀夫、お願いだからね、秀夫や……」
「秀夫……」
しかし、秀夫は黙って立ち上ると、みちと有里を残して部屋を出て行った。
翌朝、秀夫は早く床をはなれ、裏庭へ出てぼんやりと海を眺めていた。昨夜の母とのやりとりが、まだ重く心の上に凝《しこ》っている。母との諍《いさかい》を、秀夫は哀《かな》しい気持で思いかえしていた。
秀夫にとって、母は何物にも替え難い存在である。幼いころから、母は秀夫の誇りであり、精神的よりどころでもあった。その母が、どうしてあんな訳のわからぬ事を言い、とり乱すのか。秀夫は母にあの場合、もっと毅然《きぜん》とした態度を見せて貰《もら》いたかった。母の気持はわかるけれど、そんな女々しい、情ない母であって貰いたくなかったのだ。
秀夫は最近旭川の町で、三郎と一緒に海軍の軍人を主人公にした映画を観た。その主人公が立派な戦死をとげたとき、その母親の態度は、哀しみのうちにもなんと雄々しく、健気だったことか。そんな姿を、秀夫も三郎も、この世の中でもっとも気高く、美しいものと思ったのである。
秀夫は母に失望した。
背後に、軽い足音が近づいた。
「なにしてるの、こんなところで……?」
「なにもしていないさ……」
声で啓子とわかったが、秀夫はふりかえらなかった。
「秀夫ちゃん、海兵団へはいったんやって……?」
「誰《だれ》にきいた……」
「みんな泣いてはるわ、おばあちゃんもおばさんも……」
「女になんかわからないんだ、俺の気持が……」
秀夫ははき出すように言った。
「海兵団へはいって何するの」
「訓練を受けるのさ、いろんな……軍艦の動かしかたとか、大砲の撃ちかたとか……」
「それが終ると、戦争に行くのね」
「そうさ、きまってるじゃないか」
秀夫は啓子の子供っぽい質問に苦笑した。
「男の人、みんな戦争に行ってしまうわね……」
ふっと、大きな瞳《ひとみ》を海に向けて、啓子が呟《つぶや》いた。
「この美しい日本の国を守るためだ、仕方がないよ……もう、他人にはまかせておけないんだ、男という男は一人残らず剣をとって戦わなければいけないんだ……」
「そうね……」
啓子はコクリと頷《うなず》いた。
それから、しばらくじっと秀夫を見上げていたが、やがて、首から綺麗《きれい》な花模様の小さな袋をはずして、
「これ、秀夫ちゃんにあげる……」
と差し出した。
「いつか、むこうの海で拾った桜貝よ、きれいだから大事にしていたの、貝がらはきっと海のお守りよ、秀夫ちゃん海軍へ行くんだから、これあげる……」
秀夫が受けとると、啓子はバタバタと逃げるように駆けて行ってしまった。
母のそばにたった一晩寝ただけで、秀夫は尾鷲を発って行った。
泣いても、すがっても、秀夫をとめる方法はなにもなかった。
国を愛するということは、青春の命を戦に殉ずることと思いつめている青年には、母の愛も祖母の悲しみも踏みにじって、顧みなかった。
有里はせめて横須賀まで、秀夫について行きたいと思った。しかし、その母の願いさえ、秀夫は許さなかった。
それほど激しく母を拒絶しておきながら、その母の姿が車窓から消えたとき、秀夫の頬《ほお》を涙が流れた。少年の心には、たとえ自分が飛行機に乗って敵艦に体当りしても、我が子だけは戦場へやりたくないと叫んだ、切ない母の願いが悲しく胸に疼《うず》いていたのである。