22
有里は終戦の玉音放送を、千葉のはる子の家で聞いた。
放送が終っても、有里はその意味がよくのみこめなかった。まさか日本が戦いに敗れるなどとは夢にも思っていなかったからである。
しかし、次第に事情がはっきりしてくるにつれ、日本が連合国側に無条件降服したことが最早疑いのない事実であることをさとらざるを得なかった。
いろいろな臆測《おくそく》が乱れとび、不安と混乱とが日本中を覆っていた。
そんな中で、有里はまず、戦地に居る夫と海兵団の息子《むすこ》のことを考えた。二人とも無事に戻って来てくれるだろうか……。
戦いには敗れたが、夫も息子も自分もどうやら無事に生き長らえることが出来た。それだけでも仕合せなことに違いなかった。
有里は北海道へ帰る仕度をはじめた。秀夫が戻って来るのを待って、夫が出征して行った富良野《ふらの》で再び夫を迎えたいと思ったのだ。
それは、九月になって間もなくのことだった。
勤務先から栄吉が蒼《あお》ざめた顔つきで帰って来た。着換えもせず、そのまま有里の前に坐った。
「有里さん……」
その、ただならぬ表情から、有里は栄吉が何か重大な知らせを持って来たことをさとった。
「あの……尾鷲《おわせ》の母になにか……」
咄嗟《とつさ》に有里はそう言った。みちは先年の大病以来、どうも体の調子が思わしくなかった。今でも寝たり起きたりの生活をしている。悪い知らせとすれば、尾鷲の母と有里が判断したのも無理ではなかった。
「いや、そうではない……」
栄吉は口ごもった。
「有里さん、あとのことは心配しなくていいから……及ばずながら、力になるからね……」
「義兄《にい》さん……」
有里の顔色が変った。
「まさか……」
「そうなんだ、有里さん……言いにくいことだが、今日、公報がはいった……」
「公報……?」
「戦死の公報だ、雄一郎君の……」
栄吉は鞄《かばん》から公報を出して有里の前に置いた。
「最初北海道の富良野へ届いたらしいんだが、あっちこっちを回りまわって、結局、札鉄から東鉄を経て僕のところへ送られて来たんだ」
有里は公報を手に取って見た。
軍属 室伏雄一郎はビルマ、インド国境インパールに於《おい》て、昭和二十年五月十日、戦死す、とある。栄吉の言葉に間違いはなかった。
突然、有里の体がふるえだした。涙も出ないのに、最初、胸の辺が小刻みにふるえだしたかと思うと、たちまちそれは全身におよんで行き、いくら停《と》めようとしてもどうしても停らなかった。
「有里さん、しっかりするのよ」
はる子がうしろからしっかりと有里の肩を押えたが、それでも猶《なお》ふるえは停らなかった。
「そんな……嘘《うそ》です……あの人が、あの人が死ぬなんて……なにかの間違いです」
「僕もそう思った……しかし、間違いではなさそうだ……雄一郎君の部隊は全滅したんだ」
「いったい誰《だれ》が見たんです……誰がうちの人の戦死するところを見たんです、誰かしっかりと戦死を確認した人があるんですか」
「有里さん、落着くんだ、部隊が全滅したんだ、目撃者は全員戦死したんだそうだよ」
「いえ、たとえ全滅しても、あの人だけは生きています……あの人は死ぬはずがありません……きっと、きっと……どこかに生きてます」
「有里さん……」
はる子がたまらなくなって両手で顔を覆った。栄吉の眼にも涙が光った。
「有里さん……君のその気持はよくわかる……だから、僕も何度もいろいろな方面に確かめてみたんだ……しかし、誰に聞いても、あの隊は全員残らず戦死したことに間違いないと言っていた……」
「私には信じられません、そんなこと……」
有里は聞きたくないといったふうに首を振った。それから、いきなり部屋をとび出して行った。
家をとび出すと、有里はふらふらと裏手の道を、線路の踏切の方へ歩いて行った。
日本の敗戦といい、雄一郎の戦死といい、このところ有里の心を根底から揺り動かすような出来事が次々と起った。有里はどうしたらいいのか、何を考えたらいいのか、まるでわからなかった。ただぼんやりと線路の前に立ちつくしていた。
「あなた……死んでやしませんよね……嘘ですよね……今にきっと帰って来てくれますよね……」
有里は、雄一郎が出征して行った日の光景を瞼《まぶた》に思い浮べた。眼の奥に深い愛情をこめて、じっと有里を見詰めた雄一郎のなつかしい顔が、はっきりと見えた。
「あなた……」
不意に涙がこみあげて来た。と同時に全身の力が抜け、立っているのさえつらくなった。有里は崩れるように線路の上にかがみ込んだ。
あの時も、こうして線路の所で、秀夫と一緒に雄一郎の乗った列車を見送ったものだった。いつまでも、線路に伝わる列車の音に耳をすましていたのだった。
有里はそっと線路に耳をつけてみた。
(もし、列車の音が聞えたら、夫は生きている……)
そんな、神に祈るような気持からだった。
あの日のように、有里は冷めたい線路に頬を近づけた。しかし、次の瞬間、有里は強い力で体をうしろへ引っぱられ、線路から引き離された。
「危いッ!」
鋭い叫び声を耳許《みみもと》で聞いた。と思ったとたん、有里の眼の前を、風を切って、黒い巨大な物体が横切って行った。
栄吉が有里のあとを追って来なかったら、おそらく彼女の体は機関車の車輪の下で、こなごなに砕け散っていたことであろう。
有里も栄吉も、遠ざかる貨物列車をただ茫然《ぼうぜん》と眺めていた。
とにかく、戦いは終ったのだ。
これ以上の破壊は起らないにしても、それまでに生じた犠牲の大きさに、みんな、ただぼんやりと、なすこともなく立ちつくすばかりだった。
人間も哀れだったが、鉄道も哀れだった。
機関車も客車も貨車も老朽化《ろうきゆうか》し、線路はすりへり、枕木《まくらぎ》もぼろぼろだったが、昨日の日本軍にかわって、今日は進駐軍のための輸送に走り続けた。
日本が百八十度の大転換をしている最中、有里は夫の戦死の公報をどう受けとめていいかわからなかった。遠い外地で、愛する夫が死んだと聞かされても、それは信じろというほうが無理かもしれない。
多くの遺族がそうであったように、有里も又、夫の戦死を誤報であって欲しいと願った。
終戦によって、むろん、横須賀の海兵団も解体した。
勝つと信じて、青春を賭《か》けた戦に敗れ、茫然自失した秀夫もようやく母の許へ帰って来た。
秀夫はまるで人が変ったようだった。もともと無口なほうだったが、それがいっそうひどくなり、家へばかり閉じこもっているようになった。時々、天井を見上げて涙を流しているかと思うと、ちょっとしたことで腹を立て、有里にさえ喰《く》ってかかることがある。
やがて有里は、秀夫のその原因が死んだ岡井三郎にあるらしいことに気がついた。
夜、夢にうなされて、
「さぶちゃん、危いッ……」
とか、
「さぶちゃん、しっかりしろ……さぶちゃん……」
などと口走るのを耳にしたからである。
翌日、問いただしてみると、秀夫は三郎が死んだのは、自分が壕《ごう》にはいるのが遅れたためで、責任のすべては自分にあると思い込んでいるらしかった。
もう少し気持が落着くまで、有里は秀夫を北海道の富良野《ふらの》へは連れ帰らないほうがいいのではないかと思った。富良野には三郎の家族が居るし、彼の思い出があまりにも多すぎる。
有里は予定を変更し、ひとまず尾鷲《おわせ》へ秀夫を連れて帰ることにした。
秀夫も有里のこの考えに黙って頷《うなず》いた。
傷ついた母と子は、栄吉とはる子に別れを告げ、ようやく秋風の吹きはじめた東京の焼野原をあとにして、尾鷲へ向ってひっそりと旅立って行った。