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列車はひどく混んでいた。
そうした混雑の中で、秀夫がいつも母をかばうような位置に身を置いているのを発見して、有里は吃驚《びつくり》した。
今までは、有里が秀夫をかばう立場であり、有里も秀夫もそれを不思議とも思わなかったのだが、いつの間にか、形が逆になっていたのである。
有里はそれを、秀夫がたぶん海兵団で苦労して来たせいだろうと判断した。戦争は悪いものばかり持って来たのでもない、と有里は思った。
客車内にも、ホームにも、ちらほら復員兵らしい者の姿が見えた。多分、内地勤務だった人々なのだろうが、そのたびに、有里は夫のことを思い出し、胸が痛んだ。
乗っている列車もボロボロだが、心身ともに疲れはてた有里も秀夫も、やはりボロボロになって尾鷲に到着した。
尾鷲には、大阪から姉の弘子も戻って来ていた。
今度の空襲で、大阪の店も神戸の別宅も、きれいさっぱり灰になってしまったのだという。
「なにもかも灰や、倉までが直撃弾で吹っとんでしまったんや……命が助かったんが不思議みたいなもんやったわ」
弘子はかえってサバサバしたといわんばかりの顔つきだった。
「お義兄《にい》さんも、神戸にいらっしゃったんですか?」
「うちの人が神戸になんぞ居るものかいな、有馬の家へ行っとったんや」
「有馬……」
「女を疎開させたんや……神戸が大空襲と聞いて、さぞかし、うちも焼け死んだやろうと喜んでいたんや……残念ながら生きのびたと知って、女と二人、がっかりしたにきまっとる……」
「弘子、なにをいうのや……」
有里に足を揉《も》んでもらっていたみちが、たまりかねて口を挟んだ。
「かりそめにも、そないなこと言うたらあかんと、あんなに言うといたやないか」
「かめしまへん……吉田屋の家の者は、みんな内心そう思ってるのや、子供の出来ん本妻より、三人も子供を産んだ二号のほうが人気があるのや」
「そないに言うけど、有馬のお人は、戦争中からそれはよう吉田屋はんの為尽したそうやないか。毎日、女の身で、米だの野菜だの背負って大阪のご本宅へお届けしたり……」
「そういう女や、どうしたら自分がええ女に見えるか、ちゃんと計算してやっているんや。うちには、そないな見えすいたことよう出来んわ……」
戦後の尾鷲は、田舎でありながらずっと食糧不足が続いていた。
昭和十九年十二月の津波による被害から、まだ完全に立ち直れないでいるのだった。
中里家でも、すでに勇介が農地をあらかた処分して、今では一町歩くらいの土地を家人だけで耕やしていた。
もっとも勇介のこの英断が幸いして、その後の農地改革などでも、ほとんど土地を取られずに済んだのである。
有里は毎日、勇介夫婦と一緒に畑仕事に出た。せめて、自分と秀夫の食べる分くらいは兄夫婦に迷惑をかけたくなかった。
勇介は畑仕事の合間をみて、しばしば大阪へ出掛けていた。
戦時中から、大阪の疎開した家の土地、焼けた土地などを少しずつ買っておいたのを整理したり、戦前に取引のあった材木問屋を小まめに廻《まわ》っているらしかった。
一度はほとんど手放したのを、終戦の直前までかかって少しずつ買い戻した山は、戦後の復興景気で、みるみる何十倍何百倍もの値打ちになってしまった。
しかし、それを勇介はけっして売りいそがず、又、他の業者のような阿漕《あこぎ》な商売もしなかった。
若い時からの苦労が、勇介にじっくりと腰をすえた商売を身につけさせていたのである。
「あわてることはない、日本中の家が焼けたんや、木材の需要はいくらでもある……終戦のどさくさにまぎれて、ぼろいもうけをしようなどとは思わんさ……」
などと、のんびりしたことを有里にもらすかと思うと、
「まあ、見とれ、昔の中里家とまでは行かんかもしらんが、これからは、かたく儲《もう》けて、きっと財産ふやしてみせるで……お前にはろくな嫁入り仕度もしてやれなんだかわりに、今になんとかまとまったものを分けてやれるようにするからな……」
随分たのもしいことを言う。それもまったく口から出まかせではなさそうだった。
秀夫は毎日啓子の勉強の相手をしたり、畑仕事をしたり、勇介に従って山の木を調べる手伝いなどをしていた。
そんな健康な生活が、彼の傷ついた心にも良い影響を与えたらしく、此処《ここ》へ到着した頃《ころ》にくらべると、まるで見違えるように明るさを取り戻していた。
啓子はちょうど四歳年上のこの従兄《いとこ》が大層な気に入りようで、家に居る時はほとんど彼女が独占した形だった。
二人はよく海の見える突堤に腰をおろし、肩を並べて話し合った。
「秀兄ちゃん、舟|漕《こ》げる?」
「漕げるさ」
「嘘《うそ》……」
「嘘なもんか、海兵団じゃ、さんざん練習させられたんだぞ」
「どんな舟……」
「カッターさ、十二人で漕ぐんだ、丸太のようなオールでな」
「腕、痛いでしょう」
「腕よりも尻《しり》さ、尻の皮がすり切れてまっ赤になる……風呂《ふろ》へはいるとピリピリして痛いんだ」
啓子は体を折り曲げるようにして笑う。それを見ているうちに、秀夫も愉快になって笑いだした。
「風呂っていえば、海兵団の風呂を啓ちゃん知らんだろう……」
「知らん……」
「とにかく、何十人もの人間がいっぺんに裸になって、まず手拭《てぬぐい》を頭の上にのせるんだ」
「あら、どうして頭の上にのせるの」
「手拭を風呂に入れるとお湯が汚れるからさ……でっかい、まるでプールみたいな風呂へぞろぞろはいると、首までつかって、ゆっくり端から端まで歩くんだ……」
「お風呂の中を歩くの?」
啓子は眼をまるくする。
「そうさ、止ったり、ぐずぐずしていると、両脇《りようわき》からバス当番が竹竿《たけざお》でぶんなぐるんだ」
「まあ……」
啓子は一瞬息をつめる。それから眉《まゆ》をひそめ、
「ひどい……野蛮ねえ……」
と溜息《ためいき》をついた。
「ゆっくりゆっくり、すみからすみまで歩いて、あがって、それでおしまいさ」
「洗わないの、体……」
「そんなひまはないよ」
「まるで羊の群ね、竿でぶたれて歩くなんて……可哀《かわい》そうに……辛かったでしょう」
「そりゃ辛かったさ、睡《ねむ》い、食べたい、やすみたい……その連続さ……しかし、やっぱりなつかしいな……」
秀夫はふと三郎のことを思い出し、表情を曇らせた。
「どうしたの、秀兄ちゃん……」
「いや、なんでもない」
「思い出したんやね、歿《なくな》ったお友達のこと……かんにんね、海兵団のことなんか話させて……ねえ、かんにんね……」
「いいんだよ……」
秀夫は啓子にだけは、三郎のことを話してもいいような気がした。啓子と話しているぶんには、いつも心が慰められた。
或《あ》る日のこと、いつものように秀夫は啓子と肩を並べ、突堤の上で話をしていた。
そのうち、啓子がちょっと妙な顔つきをして、口をつぐんだことに秀夫は気がついた。
いつもなら、当然笑い出すところで笑わない。
「どうした、啓ちゃん……」
秀夫が聴くと、はっとしたように顔を上げ、急に身をひるがえすように立ち上ると、逃げるように駆けて行ってしまった。
「啓ちゃん……」
呼んだが、ふり向こうともしなかった。
秀夫はしばらく啓子が戻って来るのを待ったが、やがて、のそのそと家の方へ歩きだした。彼には啓子の奇妙な行動の意味がどうしてものみこめなかった。別に気に障《さわ》るような事を言ったおぼえもないし、病気らしい様子もなかった。すぐその前までは、いつものように笑ったり、喋《しやべ》ったりしていたのである。
「母さん、啓ちゃん帰って来なかった?」
庭で大豆を干している有里に聴いてみた。
「帰って来たわよ……」
「ふうん……」
秀夫が啓子の部屋の方へ行きかかるのを、有里がとめた。
「ああ、今、行ったら駄目よ」
「なんで……」
「何故《なぜ》でも……」
有里がどうしたわけか、眩《まぶ》しいような眼つきをして横を向いた。
「なんだよ、母さん、どうしたんだよ……啓ちゃん、病気かい……」
「ううん、病気じゃないわ、むしろ、お目出たいことよ」
「お目出たいって……?」
「啓子ちゃんも一人前になったのよ」
「一人前……」
秀夫には母の言葉の意味がさっぱり解らなかった。
「これからは、あんたも前のように、啓子ちゃんと取っ組みあいなんかしたらいけんのよ」
「なぜ……」
「秀夫には、わからんこと……」
「わからんこと……?」
そんな押問答をしているところへ、啓子がひょっこり廊下を通りかかった。
「あ、啓ちゃん……」
秀夫が呼ぶと、どうしたわけか、啓子はくるりと背を向けて行ってしまった。こんなことは、今迄《いままで》に一度もなかったことである。
秀夫は、まったく途方に暮れて、立ちつくした。