26
小樽《おたる》へ落ちついて、秀夫はやがて港の荷揚作業を手伝うようになった。
荒っぽい男たちに混って立ち働く秀夫を見て、有里はそんなことまでしなくてもと言ったが、秀夫はきかなかった。
朝早くから夜おそくまで、激しい労働で体をくたくたに使って、我が家へ帰ると、泥のように睡《ねむ》る。
そうした肉体の酷使によって、秀夫はすべてを忘れようとしているらしかった。
秀夫はよく、岸壁にぼんやり腰をおろし、海を眺めていた。その時の秀夫は、まるで魂を海に吸い取られてしまったかのような、うつろな表情をしていた。
冬がすぎて、やがて春になると、有里も千枝も鰊《にしん》さきの作業に出た。二人は、雄一郎と良平の話題につとめて触れないようにしていた。雄一郎はすでに戦死の公報がはいり、良平にしても泰緬《たいめん》鉄道で働いていたという以外、それからどこへ進撃したのか、生きているのか死んだのか、まるで消息不明のままであった。
有里が北海道を留守にしているあいだに、富良野《ふらの》が空襲を受け、岡井家に預けてあった荷物の一切合財が焼けてしまった。むろん、雄一郎の身の廻《まわ》りのものも焼けた。有里は、これでかえってさっぱりしたと思った。なまじっか、昔の楽しい想い出につながる物が無いほうが、悲しみもすくなくてすむわけである。
秀夫もしばらくすると、かなり落着きを取り戻したようだった。船員の資格を取る学校へ行くのだと言って、仕事から帰ってくると、また机に向って受験勉強の本をひらくようになった。
有里はほっと胸をなでおろした。彼女の希望としては、秀夫に高校から大学を出てもらいたかったが、母の細腕にたよって学業を続けることは彼の気持が許さぬらしかった。それと、海で働くということに若干の危惧《きぐ》を感じぬでもなかったが、そうなにから何まで反対では、折角新しい希望を見出した秀夫の出鼻をくじくことになると思い、有里は息子の計画に賛成した。
ところが、その秀夫から、突然、尾鷲の啓子との結婚の相談を持ちかけられた時、有里はまったく狼狽《ろうばい》した。
「もしもの話だよ……」
と、一応は断って、
「もし、俺《おれ》と啓ちゃんが結婚したいと言ったら母さんはどうする……?」
秀夫は喰《く》い入るように母を見詰めた。
「もしもにしたって、そんなこと……答えられませんよ……第一、あなたがたはまだ……」
有里は、秀夫と啓子があれ以来秘かに文通しているらしいことは知っていた。だが、まさか、二人の間がそこまで発展していようとは思わなかった。彼女は自分たちも結婚前、その愛情を育てたのが、北海道と尾鷲の間を頻繁に行き交った手紙だったことを迂闊《うかつ》にも忘れていた。
「とにかく、結婚は早すぎるわ……」
有里はかろうじてそれだけ言った。
「うん、たしかにまだ若いよ……それに、従兄妹《いとこ》同志だってこともある……しかしね、母さん、正直言って俺は啓ちゃんが好きだ、啓ちゃんも俺のことを好きなんだ……」
秀夫はちょっと言葉を切り、有里の顔色を見たが、すぐに続けた。
「母さん、俺たち今、苦しんでるんだ……自分たちの正直な気持と、年齢のこととか、従兄妹同志のこととか、母さんの立場とかいうことを……壁にぶつかって、あがいているところなんだ……母さん、俺はこの前、啓ちゃんにこういう返事を書いた、とにかく、俺たちは若すぎる、今は何も考えずに勉強しよう……二人が一人前の人間になって、そこであらためて二人の未来を考えようって……」
「そうよ、秀夫、母さんもそう思うわ、そうして欲しいと思っているわ、……秀夫にしても啓子ちゃんにしても。今は結婚ということを考える時期ではない筈《はず》よ、あなたが言うように、二人がそういう年齢になって、それでもお互の心が変らなかったら、そのときはじめて結婚という問題を考えたらいいんだわ」
「そう……だけど、気持は変らないよ……」
秀夫が笑った。
「みんな、啓ちゃんと俺との結婚には反対だと思うんだ……その時、母さんにだけは味方になってもらいたいと思ってね……」
「私はいつでもあんたの味方よ……ただね……」
有里はちょっと複雑な色をその表情に浮べた。
「私が心配なのは、あなたがた二人が従兄妹同志だってことよ、従兄妹同志の結婚は良くないって昔から言われているでしょう……そのことも二人でよく考えてみたほうがいいわね」
「でも、世間には従兄妹同志で結婚して、けっこううまく行っている人もたくさんいるし、もし心配なら子供をつくらなければいいんだ」
「そうは行かないわ……そんな簡単な問題じゃないわよ」
「どうして?」
「どうしてでも……」
「母さん」
秀夫が不満そうな表情になった。
「やっぱり、なんだかんだ言っても、母さんは俺たちの結婚には反対なんだね」
「反対じゃないわ……ただ、いろいろ考えてみることが多いっていうことよ」
「やっぱり反対じゃないか」
「そうじゃないのよ……」
有里は結婚という微妙な問題に関して、秀夫になんと説明したらいいかわからなかった。結婚そのものにはけっして反対するものではなかったが、子供の問題にしても、秀夫の言うように、そう簡単に割り切れるものではない。自分はそれでいいとして、啓子の親たちがそれで満足するかどうかはわからない。それやこれやを考え合せると、有里は、秀夫に性急な答えを与える気持にはなれなかったのである。つまり、まだ積極的に賛成とも反対とも言える段階ではないと考えていた。
しかし、そうした有里のためらいが、秀夫の気持を満足させないことは明らかだった。
秀夫は有里の逡巡《しゆんじゆん》を、二人の結婚に対する反対と受取ったらしかった。秀夫は有里の答えも待たず、部屋を出て行った。
それ以来、母と子の間に、小さな心の溝が生れた。有里はすぐそれに気づいたが、いずれは時が解決し、秀夫にも自分の本当の気持が理解できるようになると、あえて、話し合いを求めなかった。
ある日、有里は旭川《あさひかわ》へ出掛けていた。
旭川に、インパール作戦に参加した者が居るというので、夫の消息を聴きに行ったのである。結果は今迄《いままで》に得られた情報と大差ないものだった。重い足どりで小樽駅に降りたが、改札のところまで来ると、千枝がただならぬ表情で走り寄って来た。
「有里姉さん、えらいことになったよ……」
「どうしたの……秀夫になにか……」
秀夫は昨夜から風邪《かぜ》をひいて床についていた。
「それがねえ……ちょっとこれ見てごらん。尾鷲からなんだけど……」
千枝が差し出したのは一通の電報だった。
「ケイコ シス……啓子ちゃんが死んだ……」
有里にとっては、まったく思いもよらないことだった。生れたときから、ほとんど病気らしい病気もしたことがないのが、親たちも当人も自慢だったのだ。
と同時に、有里は嫌な予感がした。
「千枝さん、この電報、秀夫は見たの……」
「それなんだよ……」
千枝は待っていたと言わんばかりに顔をゆがめた。
「その電報が来た時、私も家を留守にしていたんだけど、雪子の話では、秀夫ちゃんは電報を見るなり洋服に着換えて家をとび出して行ったんだと……まだ帰って来ないところを見ると、尾鷲へ行ったんでないだろうか……」
「尾鷲へ……」
「雪子には正午頃の青森行に間に合うとか言ってたそうだから……」
有里は茫然《ぼうぜん》とした。が、すぐ気をとり直すと、家へ戻り旅行の仕度をした。秀夫のあとを追うように、彼女も夕方の青森行の急行に乗った。
北海道から尾鷲へ、たった六か月前、秀夫と二人で通った鉄路を逆行して、有里はほとんど立ちっぱなしの旅をした。道中、ほとんどろくな食事もしなかった。
(啓子ちゃんが死んだ……そんな馬鹿《ばか》なことが……)
有里は先日の啓子についての秀夫との会話を思い出していた。秀夫の誤解をそのままにしておいたことが、しきりに悔まれた。
尾鷲では、みちをはじめ勇介夫婦が有里の来るのを首を長くして待ちうけていた。
啓子の死因は急性肺炎だったという。
須賀利の海を見に行くのだと、たった一人で出掛けて行き、雨にあたって風邪をひいたのが原因だった。啓子はそれまでも、須賀利の海は美しいと言って、よく一人で出掛けて行っていたのだそうだ。
「あの子はやはり秀夫が好きやったんやなあ……」
みちが涙ながらに、そう呟《つぶや》いた。
「死ぬまで、秀夫ちゃんの名前をうわごとのようにくりかえしておりました……」
幸子も言った。
「別に結婚に反対していたわけでもないのに、本人はひどく秀夫ちゃんとのことを人に知られるのを恐れていたようや……」
勇介がしみじみと述懐した。
「あんまり周囲がやいのやいの言うたんもいけなかったのやなあ……」
有里も、その勇介の言葉に思い当るものがあった。
秀夫の姿が見えないので尋ねると、彼は昨夜尾鷲に着き、今いったような話を聞くと、今朝早く須賀利に行くと言って家を出て行ったという。帰りがおそいので、須賀利へ連絡をとってみようかと話し合っていたところだったとのことだった。
「お願いします、すぐ連絡してみてください」
有里はせき立てるように言った。
「よっしゃ……」
勇介が電話をかけに立った。
しばらくすると戻って来て、首をかしげながら、
「おかしいなあ……須賀利は昼頃はもう立ち去ったそうや……とっくに戻って来なあかんはずやが……」
と有里に言った。
そして、須賀利を立ち去った秀夫は、それきり遂に中里家へは姿をあらわさなかった。