27
秀夫は尾鷲へも、北海道へも帰らなかった。
四、五日して尾鷲へ秀夫からの葉書が届いた。
『ごしんぱいかけてすみません。今の僕は自分で自分をどうしたらいいかさっぱり分りません。誰《だれ》の顔を見るのも嫌です。当分、僕を勝手にさせておいて下さい、いつか、その日が来たら、北海道へ帰ります……』
住所はなかったが、消印は大阪だった。
有里はすぐ、大阪へ出た。
秀夫に逢《あ》って、有里の本当の気持を伝えなければならない。啓子の死によってもつれた感情の糸は、そうたやすくはほぐれぬだろうが、秀夫の為にも、説得しなければならなかった。
大阪はまだ見渡すかぎり焼野原で、ところどころ、バラックが建ちはじめていた。しかし、ヤミ市だけは結構活気を見せていた。
梅田に降り立ち、有里は途方にくれた。もとより、なんの当てがあるわけではなかった。
この荒涼とした大阪で、まだ世なれない秀夫がどうやって生きているのだろうと思うと、それだけで絶望的な気持になった。
有里は大阪に居る知人を三人思い浮べた。
一軒は姉の弘子の嫁ぎ先の吉田屋である。だが、ここへは頼って行く気持はなかった。店は焼けたと聞いていたし、夫婦仲もあまり良くなさそうだ。弘子は芦屋《あしや》に居るし、夫のほうは有馬《ありま》へ別居しているといった状態だった。
二人目は南部斉五郎の家である。ここも、有里には訪ねにくかった。斉五郎は仲人だし、再三遊びに来るようにとの手紙をもらっているのだが、問題は三千代である。現在のようなみじめな姿を三千代の前にさらしたくなかった。それは、妙な女の意地のようなものだった。
そして三人目に浮んだ顔が関根重彦であった。彼とは、尾鷲の津波以来特に親しく手紙を往復していた。どうしても海で働きたいという秀夫のために、国鉄の函館《はこだて》船員養成所をすすめてくれたのも関根だった。
有里は重い足を、天王寺《てんのうじ》の管理局へ運んだ。戦後、逢うのは初めてだったが、関根は元気だった。以前よりも張り切っていた。戦争も敗戦も、この男は跳返して生きているようだった。
関根は有里の来訪を心から喜んで迎えてくれた。事情を聞くと、
「僕の部下で大阪にくわしい男がいます。明日からその男に案内させて、これと思うところを訪ねてごらんなさい……そいつは不思議な男で、新聞記者にも警官にも友人が多いので、きっとあなたのお役に立つと思いますよ」
早速、智慧《ちえ》を授けてくれた。
それから、関根は今、戦災で天王寺の官舎が焼けたため、死んだ妻の実家、つまり嵯峨《さが》にある御子柴の別宅のほうに居候しているのだと言い、有里にもそこへ一時落着くようすすめた。
「でも、それではあんまり……」
と遠慮すると、
「御子柴の母は、今でもあなたのことを本当の娘のように思っています。今でもよく、あなたが雄一郎君と結婚した頃《ころ》のことを懐しそうに話していますよ……」
かえって遠慮すると、あとで恨むだろうと言った。
有里は関根のすすめに従う決心をつけた。関根はすぐその場で御子柴の家に電話をかけ、有里を連れて行く了解を得た。
「義母《はは》がひどく喜んでますよ、なんならすぐ迎えに来ると言ってますがどうします」
「いえ、とんでもない、場所さえ教えていただけば一人でまいります……」
有里はあわてて答えた。
翌日から、有里は関根の部下の岡田という男の案内で、大阪の巷《ちまた》をそこ此処《ここ》と歩き回った。
むろん、京都の嵯峨の家でも、御子柴セイが温く有里を迎えてくれ、彼女の部屋には、昔、比沙が使っていた場所があてられた。御子柴家では、主人が先年|歿《なくな》り、比沙の兄の京助が跡をとっていた。京助は女房子と共に南禅寺《なんぜんじ》の本宅の方に居り、嵯峨の方にはセイと比沙の妹の阿矢子、それに関根と使用人の四人で、広い屋敷にひっそりと暮していた。
有里が嵯峨の家で暮す日が重なるにつれて、セイの眼には、まるで比沙が有里の姿を借りて甦《よみがえ》って来たような錯覚を起すらしかった。阿矢子も有里を、まるで本当の姉のようにあつかった。
夏になった。
南方からの復員船が続々と帰国していた。
マレーやビルマで働いていた鉄道隊の人々も続々と帰還していた。その人たちの報告を聴くと、いよいよ室伏雄一郎が生存している望みは薄くなるばかりであった。彼の所属していた部隊は殆《ほとん》ど全滅したというのが、帰国した人々の異口同音の結論であり、あの部隊は密林の中をわけての行軍の途中、何度も敵襲を受け、全員戦死するか餓死したのだという点で一致していた。
関根はつとめて、そうした話を有里の耳には入れないようにしていた。
北海道の旭川鉄道管理局から連絡してきた雄一郎の退職金受取の件も、有里の希望を尊重して、手続を延期してもらうよう工作してやった。戦死の公報のあった者はすべて、その遺族は退職金を受取り、鉄道との縁を切るきまりになっていたのである。
しかし、関根はかくしても、有里は、秀夫を探すため世話になった新聞記者や、管理部の者などの口から、少しずつ絶望的な報告を聞いていた。
有里の顔色が日一日と悪くなり、痩《や》せが目立つようになった。食事もあまりすすまず、時々うつろな眼をしてぼんやりしていることが多い。それでも、昼間は大阪の町を歩くことだけは続けていた。
炎天の町を、秀夫の姿を求めてさまよい歩きながら、有里は自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなった。
大阪のどこを歩いている時だったか、有里はふと鼓の音を聞いた。それは、焼野原の中に残った能楽堂だった。
窓から小鼓の音がして、朗々たる謡《うたい》の声であった。
※[#歌記号]げにや人の心は闇《やみ》にあらねども
子を思う闇にまようとは……
窓辺に足をとめ、有里はそれが謡曲、隅田川であることを知った。
我が子を人買いにさらわれて、物狂いとなった母親が京からはるばる東路《あずまじ》へたずね、たずね、遂に隅田川のほとりで、すでに亡き人となっていた我が子の塚に対面するという曲である。
窓辺にすがりついて、有里は見詰めていた。隅田川を舞うシテの心は、有里の心であった。
有里はふっと或《あ》ることに思い至って、戦慄《せんりつ》した。それは、秀夫もこの隅田川の母の尋ねる子のように、すでに何処《どこ》かで死んでいるのではないだろうかという疑念だった。
秀夫が啓子のあとを追って自殺するかもしれないということを、何故《なぜ》いままで思いつかなかったのだろう。これだけ探して、全然手がかりがないというのは、秀夫が死んでいるか、この土地には居ないということ以外考えられないではないか。聞くところによると、この大阪のヤミ市などは目下無警察状態にも等しく、闇から闇に葬り去られる殺人事件は数知れずとある。そう思っただけで、有里は眼の前が真暗になった。
その夜、有里は不安な気持を関根に打ち明けた。こうしていつまでも世話になっているのも心苦しかった。
すると関根は、いつになく厳しい口調で有里を叱った。
「有里さん、君はいつの間にそんな意気地のない女になってしまったんだ……大阪へ来て、まだ、たった三か月じゃないか、どうしてそんな弱気になるんです。昔の君はそうじゃなかった、どんな苦しいことがあっても苦しい顔をしない人だった……辛いとか、悲しいとかいう心を奥深く包み込んで……いつだって健気に生きていた……その、あんたが……」
「関根さん……私、今まで、主人と子供という二本の柱に支えられて生きて来たんです……」
有里の噛《か》みしめた唇が微かにふるえていた。
「ですから、夫の為、子供の為と思ったら、どんなことだって平気で乗り越えて来たんです……でも、今の私は、一人なんです、誰《だれ》の為に生きたらいいのか……何の為に生きているのか……」
「有里さん……それじゃ聴こう……」
関根は太い息をはいた。
「君は今まで、雄一郎君と秀夫君の為にだけ生きて来たんですか……それだけしか君の生きるあてはなかったんですか……それじゃ、君は夫と子供の影にすぎんじゃないですか、人間は自分の為にも生きるんだ、自分で自分を生かすことこそ、結局は愛する人を永遠に生かすことにもなるんだ……君ほどの人が、何故、そこの道理がわからないんだ……大阪中を探して見付からなかったら、京都を探すんだ、神戸を探してみるがいい、日本国中探しまわってそれでも見付からなかったら、海を越えて世界中を探したらいいじゃないか……君にはそれだけのことの出来る勇気と力があるはずなんだ……」
関根のはげましにも、有里はさしたる反応を示さなかった。
有里の気力も体力も限界へ来ているらしかった。関根や御子柴セイの眼から見ると、有里には、いまにも崩折れそうな危さがあった。なんとかして有里を元気づけようとしたが、どれもさしたる効果はなかった。
関根は思いあぐねて、このことを南部斉五郎に相談した。
「そりゃ、あの人にとっては辛かろう……」
斉五郎は眉《まゆ》をひそめた。
「あの人は亭主と子供のために夢中になって生きて来たんだ。昔の日本の女はみんなそうだった、自分のことなんか考えてるひまもなにもない……そのことの良否は別として、毎日毎日、亭主と子供の生活をどうやって充実させようかと、必死になっていたもんだ……亭主の満足することが、女房の満足だし、それを女の仕合せと思って大事に生きてきたんだ……それが日本の女だったんだ……」
「しかし、それじゃ、あまりにも自分が無さすぎるじゃありませんか、自主性に欠けています」
「自主性……」
斉五郎は関根を眼のすみで睨《にら》んだ。
「そんな気取った台詞《せりふ》は、クルクルまるめて掃溜《はきだめ》へ突っ込んじまってるさ……女の生活は理屈じゃない、情感だ……そりゃあ、世間には男に負けん立派な仕事をする女もいるだろう。そりゃそれで結構だよ。しかし、平凡な家庭の中で、夫と子供を満足させるだけの生活であっても、その夫や子供から、我が家の女房は見事な女房だ、我が母は立派な母だと愛情こめて呟《つぶや》かせることの出来る女も、それ以上に立派なもんだ……世の中にうるおいを与え、活気を与えるのは、そういう女の力なんじゃないのかな……」
「そりゃア分ってます、そういう意味では、あんな女らしい人はいないですよ……それだけに僕としては、あの人をなんとか立ち直らせたいんです、あの人に生甲斐《いきがい》を持たせたいんです」
「生甲斐ってのは、人に見付けてもらって、仲々身につくもんじゃない……自分で見付けるのが一番いい、しかし、それとなくヒントを与えることは出来るかもしれん……」
「なにか、ないでしょうか……」
「そうだな……」
しばらく考えていたが、ふと思いついたように顔を上げた。
「君たちは、今まで有里さんをあまりいたわりすぎて、大事にしすぎてやせんか……たとえば、お客さまあつかいして、家の事は何もさせんとか……」
「はア、それは……けれど、あんなに心の傷ついた人を……」
「それがいかんのだよ、かえってそれがいかんのだ……もっとなんでもやらせてごらん、仕事をするということは、生きてることの証明みたいなもんだ……夫も居ない子も居ない仕事も無いじゃ、あの人をむざむざ殺すようなもんじゃないか、そうだろう、違うかね……」
斉五郎の眼が、穏やかに関根を見ながら笑っていた。
この日から、有里は御子柴家で自由に仕事をしてもよいことになった。斉五郎が見通した通り、今迄《いままで》は有里がいくら頼んでも許されなかったのである。
有里にいくらか生気が蘇《よみがえ》ったようだった。そうなると不思議なもので、セイや阿矢子と有里の間の心の垣根が、又ひとつ取れた。
有里はそれまで遠慮して言い出さなかった友禅《ゆうぜん》の下絵描きを、阿矢子に頼んで教えてもらった。
阿矢子はそれを、戦時中、下絵の職人が出征して友禅の下絵を描く者が少くなったので始めたという。
「京友禅がほろびてしもうたら、たいへんや思いまして……」
と阿矢子は説明した。
「きれいな色……」
有里の眼は、美しい友禅の下絵に吸い寄せられた。それは又、久しぶりに見せた有里の微笑でもあった。