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尾鷲の海は寒かった。
甲板《かんぱん》の乗客は、みな戦争の名残りの古い防空|頭巾《ずきん》で顔をすっぽり包んでいた。有里も、出がけに母が渡してくれた防空頭巾を眼深《まぶか》にかぶった。
海の上は、やがて夕暮で、冷え冷えとした風が吹きつけていた。だが、有里の胸の中には、まるで火のように燃えているものがあった。
雄一郎が生きているかもしれない……暗くなりかかった海を見ながら、有里は、今|漸《ようや》く掴《つか》んだものがたとえ一本の藁《わら》しべにすぎないにしても、それに必死でしがみついていようと思った。
その知らせをもたらした古田時三という男は、須賀利の伯父《おじ》の久夫もよく知っている網元の息子《むすこ》だったが、大阪の学校を出て鉄道にはいったのだという。雄一郎のことは久夫から聞いて知っていたらしい。
古田は復員後もマラリヤが再発したとかで、まだ青白い顔色だった。
「シッタンで逢った時は退却の最中で、わたしら、それまでラングーンに居たんですよ。それが、もういかんということになって、バー・モー政府もラングーンを逃げだすことになって、自分ら鉄道の仕事をしとった者もみんな、ついて逃げたんです」
「古田さんは兵隊さんでいらっしゃったんですか」
「いや、わたしも鉄道から土木技師として軍属で行かされたんです……なにしろビルマには苦しみに行ったようなもので、ラングーンからの退却も、首までつかって川を渡る始末でした。昼間はかくれて寝て、夜になると八里くらいも歩くんです、苦労してシッタンに着いて、シッタンからは果しのない原野でした……」
「室伏にお逢《あ》いになったのは、その退却の途中ですか」
「はあ、名前もわからない部落で、退却中の日本軍の部隊と出逢ったんです。こっちも小人数で心細かったんで、一緒に逃げることにしたんですが、その中に室伏君がいたんです……モールメンで別れましたが、室伏君の居た隊は全滅に近い状態だったとかで、彼はジャングルで気を失っているところをビルマ人に助けられたのだとか言っておりました……」
「サイゴンの病院で室伏の消息をお聞きになったそうですが……」
「自分は終戦後、マラリヤにかかってサイゴンの病院に入れられたんです。自分らはモールメンから汽車でバンコックへ出て、それから飛行機で仏印のサイゴンへ行き、そこで終戦になったんです……サイゴンの病院へ収容されたのが十一月頃だったでしょうか……病気がやや回復してサンジャックに移される時、同室の患者から、つい十日前まで別の病棟に室伏という鉄道員がいたという話を聞いたんです。それで、彼もサイゴンへ送られて来ていたのかと思いました」
「やはりサイゴンではお逢いになっていらっしゃらないんですのね」
「はア……しかし、室伏という名前はそう多くはないですし……」
「古田さんは、いつ日本へお帰りになったんですか」
「昨年の六月に病院船で帰国しましたが、パラチフスにかかっていて、そのまま立川の病院に担ぎ込まれ、退院して大阪へ帰って来たのが暮れでした。それから又、マラリヤにかかって、散々ですよ……」
「復員される途中で、室伏の噂《うわさ》をお聞きになりませんでしたでしょうか?」
「いや……それは……」
時間もかなりおそくなったので、有里はそのくらいで古田への質問を切り上げた。篤《あつ》く礼を述べて辞去した。
須賀利から見渡す港の景色は、すべて昔のままだった。昔のままであることが有里には切なかった。
古田の話では、雄一郎の戦死はどうやら誤りらしいという望みはあったが、サイゴンの病院で古田が消息を聞いたというのが果して雄一郎であるかどうかは、甚だ心もとなかった。又、サイゴンの病院に居たというだけで、その後、どこへ送られたのか、病気が治ったのかどうかもわかっていない。
ともすれば消えそうになる希望の灯をかきたてるようにして、有里は明日にでも北海道へ発《た》とうと思った。この雄一郎の消息を唯一のよりどころにして、生きて行かねばならぬと思った。
「それやったら、あんた、これから先、ずっと北海道で暮す気かいな」
有里の決心を聞いて、みちは不安そうな表情をした。勇介も、
「そないなことせんでもええ……そりゃ、一度はむこうへ行って、きちんと整理をして来んならんやろうが、それがすんだら尾鷲へ戻って来て、住んだらええんや……」
と極力すすめた。
「そうや、そうおし……この家もなあ、ほんまなら、やれ農地改革や財産税やと、田畑、家屋敷すっかり取られてしまうところやったのを、勇介があんじょううまくやったそうで、なんも心配することはないのや……もし、この家に居るんが気づまりやったら、他に小さな家を建ててやってもよろしいと勇介も言ってくれているしの……第一、北海道へ行ったかて、雄一郎はんも秀夫も居るわけやなし……」
「でもね、お母さん、あの人が居ないからこそ、北海道へ帰ろうと思ったんです。この前、北海道へ行ったとき、とても辛かったんです。どこへ行っても、うちの人の思い出がついてまわって……辛くて、苦しくて……私、逃げるようにして帰って来てしまいました……」
「そやさかい、此処《ここ》に居ったらええんや」
「もう逃げてはいけないんですよ。お母さん……戦争が終って、もう二年目の夏なんです、眼をそらさないで、しっかりと現実を見詰めなければいけないんです……そりゃア、私はまだ諦《あきら》め切れやしません。諦め切れないからといって、眼をつぶっていたら、うちの人の供養も出来ず、あたしの生活も宙に浮いてしまいます、室伏家の嫁として、これではご先祖さまにも相済まないことだと思っています……」
「それにしても、なにも無理に北海道に住むことはないやろ、尾鷲におって、これからのことを考えたらええのや……第一、室伏はんとこのご先祖のお墓も須賀利のお寺にあるし、ご両親のお墓も分骨してあるのやないか」
「あたし……やっぱり、うちの人の思い出のある土地に住みたいんです、つらくても、苦しくても、思い出の中で生きて行きたい……」
有里はもう迷わなかった。それ以外に生きる道のないことを、ようやく結論として胸に抱きしめていた。
「むこうへ行って、なにをして生活するつもりや?」
勇介が訊《き》いた。
「それは向うへ行って考えます。小樽《おたる》には千枝さんも居ることだし、あの人もひとりぼっちですものね、二人で助け合ってなんとかやって行きます……秀夫の為にも、それが一番いいことなんです……」
「あんたって、まあ、強情な子やなあ……」
みちがあきれたように溜息《ためいき》をついた。
「ごめんなさい……でも、お母さんに似たのよ、きっと……」
「なにいうてるねん……」
みちは勇介をふりかえった。
「どないする……?」
「ほんまにお母はんに似て、言いだしたらきかん奴《やつ》や……けど、そんならよろしゅうおま……むこうへ有里が落着いたら、わしが出掛けて行って、あんじょうしてやりまほ」
「兄さん……」
「お前の嫁入ん時には、とうとう最後までついて行けなんだかわりに、今度はちゃんと締めくくりをさしてもらいまっせ……ええな……」
勇介は駄目を押すように、終りのところは特に力をこめて言った。