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雄一郎夫婦は途中東京へ立寄り、伊東栄吉の家をたずねた。
伊東は先年、両国駅長から東鉄の総務部指導課長に転任し、家も千葉から東京へ移っていた。二人ともまだ子供に恵れなかったが、はる子は前より若がえったくらいで、夫婦仲は円満だった。
どこへ行っても、雄一郎は浦島太郎のように迎えられた。みんなは何度も同じことを訊《き》いた。雄一郎も、何度も同じことを答えた。
彼の属する隊がほとんど全滅し、彼は奇蹟《きせき》的に生残って、仏印までどうやらこうやら辿《たど》りつき、サイゴンで栄養失調とマラリヤの再発でほぼ二か月入院したが、とにかく無事に復員することが出来たという話である。
何度きいても、何度こたえても、その度に新しい感動があった。あれだけの戦火の中を生き抜いてきたということの実感を、その度に、誰《だれ》もが一層深く噛《か》みしめるのだった。それは、戦地にあって直接敵の砲火にさらされた者も、内地にあって、食べる物も着る物もなく、連日連夜の空襲に逃げまどった者たちも、思いは同じだった。
東京に一泊して、雄一郎と有里は北海道の富良野へ行った。ともあれ、復員者はそれぞれ、出征前の配置へ戻るのが原則となっていた。
戦死の公報は取消され、雄一郎は鉄道へ復職した。が、官舎はすでに、現職の助役が入居している。
富良野の焼けなかった家を一軒借りて、新世帯のような生活が始った。
復職はしたものの、雄一郎に仕事はなかった。なにしろ終戦直後に復員して来た者が多く、助役だけでも、四人も定員よりオーバーしていたのだ。駅長も、すでになじみの岡井亀吉ではなくなっていた。
雄一郎はすっかり取り残されたような気がした。やれ、進駐軍輸送の、RTOのといわれても、なにがなんだかさっぱりわからなかった。日本は終戦によって、なにもかもすっかり変ってしまっていたのである。彼にとって、復員が遅れたことによる、この二、三年の空白は特に大きかった。
昭和二十三年の春になっても、雄一郎の職場状況はあまり変らなかった。
彼より年の若い者が、どんどん駅長になっていた。戦争のブランクが、ともすれば彼を押し潰《つぶ》しそうであった。
その上、南方で罹《かか》ったマラリヤが再発して、この一年間に、彼は何度も床についた。病気は彼の気持を一層重苦しいものにしたのだった。生活はもちろん苦しかった。
この年の五月、いわゆる夏時刻法による列車運転の切換が行なわれ、続いて七月に戦後はじめての全国的な時刻改正が行なわれた。
これまでのダイヤの骨組は、昭和十七年に戦時ダイヤとして構成されたものを、つぎはぎして行なっていたもので、根本的に改正する必要にせまられていたのである。
駅へ出ても、ろくな仕事も与えられず、雄一郎はもっぱら有里と共に畑仕事をする他はなかった。
物価は値上りする一方であったし、どこの家でも、大なり小なりヤミの物を買わなければ生きて行けない御時世であった。ヤミをいさぎよしとせず、悪法も法は法なり、としてヤミ物資を一切買わず、結局栄養失調で死んだ判事さんが出た時代なのである。
ヤミ物資を買うことによって、一般の家計はますます逼迫して行った。
その春、雄一郎は幾春別《いくしゆんべつ》の助役を命ぜられた。
幾春別は三笠《みかさ》・幌内《ほろない》などと共に、炭鉱をひかえた駅であった。北海道の全出炭量の大部分を産出する石狩《いしかり》炭田の一つである。
当時、石炭は急速な生産回復によって、景気は上々、鉱山《やま》は活気に満ちていた。
幾春別に着任して間もなく、雄一郎はマラリヤを再発した。今度のはかなり重症で、入院二か月、どうやら退院して自宅療養にこぎつけたものの、室伏家の家計はすでに底をついていた。
有里は遂に夫に内緒で、炭鉱の坑木の積みおろし作業に出た。力仕事ではあったが、女に出来ぬ仕事でもなく、賃金は男並みだったので、町の女たちはすすんでこの仕事に出る者が多かった。
毎日家を留守にする理由として、有里は近所の百姓の家へ畑仕事の手伝いに行っているのだと、雄一郎には言っていた。
「お前、尾鷲の方へ金の無心したんでないだろうな……」
療養中の雄一郎も家の経済に不審を抱いたらしく、ある日、有里をつかまえて訊《き》いた。
「いいえ、そんなことしてませんよ」
有里ははっきりと答えることが出来た。
「でも、なんでそんなこときくんです?」
「いや、それならいいんだ……俺《おれ》はお前の実家に金の迷惑をかけたくないんだよ、分ってるだろう……」
「ええ、分ってます、私だって、嫁に来た時の意地がありますからね、ちっとやそっとのことで実家に泣きつくなんて、意気地のない真似はしませんよ、嫁に来て以来、一度だって実家にお金の迷惑だけはかけてないってこと、あなただってご存知じゃありませんか」
「ああ……すまんな、お前にばかり苦労させて……」
「なに言うんですよ、あなたのお蔭《かげ》で、今日こうして飢えもせず、夜露にも当らずに暮して行けるんじゃありませんか」
或《あ》る時は又、ひどくうなされていて、ふと眼を覚まし、
「今、ちょっとうとうとしたら秀夫の夢を見たよ」
隣りに枕《まくら》を並べて寝ていた有里に言った。ちょうど有里も秀夫のことを考えていた時だったので、はっとした。
「秀夫の夢を見たんですか?」
「まだ小学生のままだったよ、長い鉄橋の上をずんずん歩いて行くので、いかん、危いッと怒鳴ったら目が覚めた……」
「あなた、その鉄橋、北海道の鉄橋ですか」
「なしてだ?」
「夢は正夢っていうから、その鉄橋の近くを探したら秀夫がいるんでないかと思って……」
「どこの鉄橋かわからん、ただ、長い鉄橋だった……」
「ねえ、あなた、もう一遍おやすみになったら、その夢の続き見れんもんでしょうか」
「馬鹿《ばか》、駄目にきまってる……」
出来るだけ触れないようにしていたが、二人の念頭からたとえ一日たりと秀夫のことが消えることはなかった。
甘いかおりを漂わす、白いアカシヤの花の咲くころ、雄一郎はようやく駅へ出た。
体はまだ本調子ではなかったが、のんびりと必要以上に休んでいられる気性ではなかった。
前にもちょっとのべたが、戦後の鉄道員がそろって苦労したのは進駐軍輸送と進駐軍との折衝であった。
どこの国でもそうだろうが、ものわかりのよい人間と、そうでない人間とがある。思いやりのある将校もあったが、乱暴でめちゃくちゃの者も居た。
なにしろ、戦時中、すべての力を出しきって倒れる寸前にまでなっていた鉄道が、そのおんぼろ貨車とおんぼろ機関車をもって、進駐軍輸送、復員輸送、疎開先から帰ってくる人たちの輸送に一刻の休みなく働かねばならなかったのである。定時輸送どころのさわぎではなかったのが、働いている人たちの本心だった。
とにかく列車が動き、走ってくれることが夢のような気持だった。
しかし、日本へ進駐して来た人々は、何事もビジネスライクであった。情状酌量などということは通用しない。たとえ五分、十分の遅延もきびしく責任を追求された。
北海道は殊にそうだった。
列車を定時に発車させなかったといって、ピストルを突きつけられた駅長も居たし、あぶなく馘首《かくしゆ》されかけた駅長もあった。
だが、それらの原因はいずれも、お互に言葉の通じないもどかしさ、誤解などから生じていたようだった。
例えば、向うの高級将校が倶知安駅の名をきくので、クッチャン駅と答えたがどうしても通じない、そのうちだんだん不機嫌にさえなって来たので、駅員の一人がクッチャンをもじってグッドチャンス駅だと言ったら、すぐ通じて急に上機嫌になったなど、たわいない事のようだが、終戦直後のまだかなり緊張状態が続いていた時代には、始終あったことなのである。
そうした事実を見聞しているうち、雄一郎にも進駐車の扱い方を多少なりとのみ込むことが出来た。
ただし、若い者や、上級学校を出た者たちのように英語が皆目わからないので、手も足も出ないのは前と同様だった。
それは、ちょうど雄一郎の宿直の晩のことだった。
夜十時頃、雄一郎が事務所の机で日誌をつけていると、窓口が急に騒がしくなった。見ると、二人の背の高い進駐軍の兵士が、山口という若い駅員に声高に何か言っている。
「どうした?」
雄一郎が訊くと、
「どうも英語でよく判らんのですが、さっきの炭鉱視察団の仲間らしいんですよ」
山口が説明した。
「視察団の列車なら、もう一時間も前に出たでないか」
「乗り遅れたらしいんですよ、発車時刻を間違えたと言っています」
「いったい、今までどこに居たんだ……」
「どっちみち、あんまり公表できる場所に居たんではないでしょう……ほら、蒼《あお》くなってますよ、自業自得ですね」
山口はニヤリとした。
「しかし、乗り遅れがはっきりすると大変だろう」
「そりゃあ、いくら自由なむこうさんだって軍隊は軍隊ですからね」
「ふん……」
雄一郎は兵隊を見た。
まだ幼な幼なしたところのある若い兵隊たちである。最初は駅員をおどかせばなんとかなると計算したのがはずれ、今では顔色もすっかり蒼ざめていた。
雄一郎はふと自分の軍隊時代のことを思い出した。よく帰営時間に遅れて営倉へ入れられたり、要領のいい者は高い塀を乗り越えて、素知らぬ顔で点呼の列にもぐり込んだりする者がいた。どこの国でも、兵隊たちの生活は似たようなものである。
「どうしますか?」
山口が雄一郎を見上げた。
「そうだな……」
雄一郎は頭の中に、複雑なダイヤ表を思い浮べた。
「今度出る貨物列車は青森直通だな……」
「そうです」
「さっき出た視察団の専用列車は千歳《ちとせ》でしばらく停車するんでなかったか?」
「ええ……なんだか、えらい連中だけ夕食会に出席するそうで、そのぶんだけ約一時間半待つことになっとるそうです」
「したら……今度の貨車に乗せれば、千歳で追いつくんでないのかな」
「そうですね……でも、石炭積む貨車に乗せて怒らんでしょうか」
「とにかくこっちへ入れろ、話してみよう……」
「はい……」
山口が窓口で合図をすると、二人はおどり上るようにして事務室へ駆け込んで来た。その二人を前にして、雄一郎は手真似を混えながら覚束《おぼつか》ない英語で説明をした。かなり時間を要したが、それでもどうやら意味が通じたらしく、兵隊たちは大喜びで、しきりにサンキューを連発し、雄一郎の手を握った。
「したら、列車が出るまで、こちらで休んでいて下さい……シッ・ダウン……シッ・ダウン・プリーズ……」
すると、兵隊たちは何かごそごそ相談していたが、そのうちの一人が雄一郎に、
「ハウマッチ、ハウマッチ……」
と言う。山口がすぐ気がついて、
「お礼はいくらかときいているんですよ、助役さん」
と袖《そで》を引いて注意した。
「あ、そうか……」
雄一郎は椅子《いす》から立ち上ると、胸を張って答えた。
「ノウ、ノウ……マネー、ノウ……日本の鉄道はそういうことはないですよ、我々はあなたがたが気の毒だと思ったから貨車に乗せて、千歳まで送ることを考えたんです……ただ、それだけです、さあ、行きましょう……」
茫然《ぼうぜん》としている兵隊たちをうながすと、雄一郎はタブレットを肩にしてホームへあがって行った。