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昼間はどこにいるかわからないという秀夫は、そのころ、神戸の港の埠頭《ふとう》に立って、海を見詰めていた。
行く船、来る船、港は今日も活気に満ちている。だが、それを見詰める秀夫の眼には、たしかに、或《あ》る生活の荒みといったようなものが沈んでいた。
豪華な船も、ロマンチックな港の風景も、彼の眼にはただ腹立たしい存在としか映らないようだった。
「畜生……馬鹿野郎ッ……」
突然、彼は海へ向って叫んだ。
「馬鹿野郎ッ……」
眼には涙さえ浮べていた。
何故《なぜ》そうするのか、理由は秀夫にもわからない。ただ、海を見ていると急に腹が立ってきたり、哀《かな》しくなったりするのである。それをまぎらすために、彼はしばしば人の居ない岸壁から海へ向って声を叩きつけた。
しかし、誰《だれ》も居ないと思った岸壁には、もう一人、中年の船員が居た。ガダルカナルの生残りとかで、普段はおとなしいが、一旦怒りだすと手のつけられないほどの狂暴性を発揮するとかで、港に出入りする者たちの間でも一目おかれていた。ドラム缶《かん》の蔭から身を起すと、
「おい……」
秀夫のそばへゆっくりと近づいて来た。
「お前、今日は船へ来なかったな、どうしたんだ、まともな仕事が嫌になったのか」
「あ、ボースン……」
秀夫はさりげなく背を向けて、涙をふいた。
この男は貨物船瀬戸丸の一等航海士で、船が港に居る時は、よく、秀夫に雑用などの仕事をくれた。ボースンというのは彼の渾名《あだな》である。
「お前、横須賀《よこすか》の海兵団に居たんだって……」
秀夫の横に肩を並べて立った。眼は港へ向けたままだった。
「よっぽど嫌な目に逢《あ》ってきやがったな……」
「あの頃《ころ》の俺《おれ》たちは真面目《まじめ》だった、日本は必ず勝つと信じていた、身分のことなんか、なんにも考えなかった……海兵団へはいる時も、お袋は泣いてとめた、一人っきりの息子《むすこ》をなぜ死なせなきゃいけないのかって、泣いてすがるのを、俺は非国民だとはねつけたんだ……」
「ほう、お前、一人息子か……」
パイプの煙を自分の鼻の頭の方へ吐き出した。
「お袋にそむいてとび込んだ海兵団で、俺は親友をなくした……空襲だったんだ、逃げおくれた俺を迎えに来ようとして……機銃掃射にやられた……」
「ふむ、それで……」
「海を見ていると辛いんだ、あいつも海が好きだった、戦争が終ったら、外国航路の船に乗り組みたいといつも言っていた……だから、平和になった日本の海を見ていると、俺はやりきれなくなるんだ、俺たちの青春は無駄だったのか、死んだ奴《やつ》は貧乏くじだったのか……うまく逃げまわっていた奴が利口で、俺たちは馬鹿だったっていうのか……」
「待てよ……おい……」
ボースンの眼が光った。
「お前だけが友だちをなくしたんじゃねえぞ……甘ったれるなよ、小僧……」
長いあいだ、荒波とたたかって来た野太い声であった。
秀夫は一瞬はっとした。なにか、虚を突かれた気持だった。
「いいか、人間の過去なんてもんは、歩いて来てしまってから、とやかく言ってもはじまらねえのさ……そりゃ、こうした世の中になってみりゃ、お前は自分を貧乏くじだと思うかもしれねえ、しかし、人間の一生は長えんだ、今、貧乏くじと思ったことが、先へ行ってどう引っくりけえるかわかりゃしねえ、はっきりしてることは、お前が今生きてるってことさ……」
「そうさ、俺は生きてる……だけど、三郎は死んだ……」
「そんなら、死んだ奴の分まで生きたらいいじゃねえか……もし、お前がその三郎って男が好きだったのなら、そいつの魂を一生背負って生きてやるのさ」
「三郎の魂を背負って、生きる……?」
「頭で考えてわかることじゃねえさ、お前は一人の友だちをなくしただけだが、俺はもっとなくしたんだ……たった今まで口きいてた仲間が、ふり返ったらもう死んでる、右も左も前も後も、ばたばた死んで行きやがった……毎日だぜ……毎日死んで行きやがった……生きていたら、みんないい海の男だった……女房も子供も残して、みんな逝《い》っちまいやがった……一番死んでも構わねえ奴が生き残っちまいやがって……」
不意に、ボースンが笑いだした。が、その笑い声には、意外にも哀《かな》しみの色が濃くにじんでいた。痛々しいまでの、やり切れなさがあった。
「お前が、もしも海で生きる気になったら、いつでも俺を頼って来い、お前の辛抱が続く限り相手になってやるぜ」
「ボースン……」
「折角生きてるんだ……無駄に生きちゃあ、生きられなかった連中にすまねえだろ……そういうもんじゃねえのか、人間ってもんは……」
ボースンが愛用しているパイプの肌のように、底光りする艶《つや》のようなものが彼の言葉の端々にうかがえた。
そして、どういうわけか、秀夫はそのボースンの言葉に感動した。年齢も、経歴もまるで違うボースンが、なんだかひどく身近に感じられた。
(いつまでも甘ったれてるんじゃねえ……お前は死んだ奴の分まで生きてやりゃあいいじゃねえか、三郎の魂を背負って生きるんだ……)
そんな言葉がまるで乾き切った砂漠に降った雨のように、秀夫の心の隅々にしみ通った。
「明日は船へ来いよ、仕事をやるからな……悪い奴らとつき合うなよ……」
ボースンは上着を肩へ引っかけ直すと、潮風の方へちょっと体を曲げるようにして立ち去った。
ボースンの後姿を見送っているうちに、秀夫はふと父や母の顔を思い出した。父のことはともかくとして、母のことを考えると、彼はいつも胸が痛くなった。一人ぼっちの母を捨てて家をとび出した罪は大きい。帰ろうと思ったことは何度もあったが、そのたびに、母と自分との間に横たわる精神的断層のことを考えると、つい躊躇《ためら》ってしまうのだ。今のまま母と生活した場合、あらゆる場面で母との衝突はさけられないであろう。そうなれば、母も自分も心の傷をいっそう深くするばかりである。
秀夫はもちろん母を憎んではいない。それどころか、誰《だれ》よりも強く母を愛している。母もまた彼のことを、この世の中のどんな母にも増して愛しているのだということも、秀夫は知っているのだ。母の愛が強ければ強いほど、秀夫はやり切れない気持に襲われる。海兵団へ志願する時もそうだったし、啓子との時もそうだった。秀夫が自分の足で歩き出そうとするとき、その前へ大きく立ちふさがるのが母の愛であった。
あれから二年、秀夫は各地を放浪した。
最初、大阪へ出て、それからすぐに横浜へ行った。横浜では港湾労働者の群に混って生活した。いろいろな誘惑もあったが、彼はけっしてそれに負けなかった。強い意志でそれにうちかったというより、生理的に、彼の体質がそれを受けつけなかったのである。女に関しても、彼はかたくななまでの潔癖さで押し通した。
横浜で知り合った千葉悦子という十六歳の少女がそうだった。戦災孤児で、胸を患っていたのを秀夫が助けた。秀夫の下宿先へ連れて来て、しばらく一緒に生活したが、彼は悦子の体に指一本触れようとはしなかった。彼としては死んだ啓子の思い出のためにも、そんなことは出来なかったのである。しかし、彼のことが好きだった悦子は、自分が嫌われていると思い込んで、自分からどこかへ姿を消してしまった。あとで聞いた話だが、彼女はアメリカの水兵の子をその時すでに身ごもっていたのだという。
秀夫はそれからすぐに神戸へやって来た。秀夫は悦子が嫌いではなかったのだ。ただ、啓子の思い出があるために、悦子を妹の立場に置いておきたいと思っただけなのである。それだけに、我と我が身を傷つけるような悦子の行為は、彼にとってやり切れなかった。
神戸では、相変らず港の荷役を手伝ったり、横浜でおぼえた英会話を種に、パンフレットを作って売ったりして生活した。
弘子が雄一郎や有里に話していたのは全部弘子の出鱈目《でたらめ》である。というよりは、弘子も糸川という大学生にだまされていたのだ。
糸川は、軍需成金で戦後すばやく平和産業にくらがえした男の息子だった。小遣いに不自由しないのをいいことに、バーやキャバレーの女を引っかけたり、有閑マダムをだましたり、悪いことばかりしている軟派だった。
ちょうど、港を根城にする与太者の女に手を出したため、その与太者の仲間から脅迫されていた。弘子は折悪しく、その中に巻きこまれたというわけだった。
秀夫はその時、同じバーの別の席に坐《すわ》っていた。あたりが騒がしくなったので、見ると、弘子が秀夫の顔見知りの連中に脅かされている様子なので、口をきいてやろうと仲へはいったというのが真相だった。
彼は糸川の悪い噂《うわさ》を聞いていたので、伯母《おば》にそれとなく注意したのが弘子の疳《かん》にさわり、また、糸川のうらみをかったらしい。
その糸川から、今日の夕方港の第一|埠頭《ふとう》のそばの空地で待っているようにとの連絡が、行きつけのバーのバーテンを通じてあった。