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雄一郎夫婦は北海道へ帰った。
秀夫からは何の便りもなかった。
夫婦の心に、あらためて、我が子を失ったという孤独感が襲って来た。
孤独をまぎらすように雄一郎は駅務にはげんだ。戦争で遅れた分を取りかえすには、人の三倍も四倍も勉強しなければならないと口癖のように言っていたが、今度はそれを自分自身で実行しはじめたのだ。黙々と……それは努力と忍耐の日々であった。
他人はそんな雄一郎の姿にただ感心するだけだったが、有里は夫の胸のうちを知っているだけに悲しかった。
そして、秋十一月、岡本の家の長女雪子の結婚の日が来た。
雄一郎夫婦は、前から頼んでおいた休暇をとって、前日から塩谷《しおや》へ出かけていた。又、式場には、ちょうど吉川と昵懇《じつこん》の者が経営する旅館があったので、そこの広間を使うことになった。
娘をはじめて嫁にやる日の朝、千枝はまったくあがってしまった。千枝が役に立たないので、有里や正作が子供の着換えの世話や荷物を運ぶ段取りをつけた。
しかし、そのうち千枝の姿が見えなくなってしまったので、東京から着いたばかりのはる子が心配して家の内外を探しまわると、千枝は裏の井戸端で暢気《のんき》そうに洗濯をしていた。これには、さすがのはる子もあいた口がふさがらず、
「千枝……千枝……まあ、あんたなにしてるの、洗濯なんか今日でなくてもいいじゃないの……早く着がえないと……あんたは一番のろまなんだから……さあ、早く……」
叱《しか》ったが、返事がない。
気がつくと、千枝の頬《ほお》が涙で濡《ぬ》れていた。
「千枝……」
「姉さん……別に悲しいわけでないけどね……」
千枝は笑おうとしたのに、顔はその逆にひきつれたようにゆがんでしまった。
「嬉《うれ》しいんだか……悲しいんだか……娘を嫁に出すのって……変なもんだね……」
両手で顔を覆うと、オイオイ声を放って泣きだした。
やっとのことで千枝の仕度が出来たところへ、花嫁姿の雪子が美容師に手をひかれてやって来た。
「きれいだ……姉ちゃん……」
月子、謙吉、邦夫、清三ら、子供たちが眼を瞠《みは》った。
「お嫁さんみたいだ……」
「馬鹿《ばか》、本物の嫁さんだぞ」
千枝の眼には、その雪子の花嫁姿の美しさが、なんだかひどく自分と遠いところの存在のように思えて寂しかった。
雪子が前に来て、ていねいに両手をついた。
「お母さん……ながながお世話になりました……ありがとう……ございました……」
「いいえ、どういたしまして……こちらこそ……長いこと……あんたに厄介かけて……」
良平が居なくなってからというもの、随分と苦労の連続だったが、この雪子のお蔭《かげ》で千枝はどのくらい救われたかしれなかった。
貧乏で、何一つ満足な物も買ってやれなかったのに、この雪子という娘は、名前の通り素直なやさしい子だった。不平ひとつ言わず、ただひたすら家のために働いてくれた。
「ずいぶん苦労をかけたけど、これからは仕合せになってや……」
その一言の中に、千枝のすべての思いがこめられていた。
「はい……」
見事に結いあげられた高島田がかすかに動いた。
「さあて、ぼつぼつ出かけるかね、お嫁さんは歩くのが遅いでね……」
千枝と雪子の眼に涙がふくらんで来たのを見て、正作がすかさず言った。
「すみません。ちょっと、お父さんにおまいりして……」
「そうだそうだ、お父さんを忘れちゃいけねえや」
正作が良平の兵隊姿で笑っている写真を見上げた。岡本家では、良平が応召して以来、この写真を飾って、朝晩その無事を祈って来た。良平の帰還をあきらめた今では、毎朝、千枝をはじめ子供たちが揃《そろ》って手を合せ、夫の、父の、冥福《めいふく》を祈っているのだ。
「あんた、見ておくれよ……雪子、きれいだろう……あんたに見せてやりたかったけどねえ……幽霊でもいいから、見に出てくるといいんだのに……」
千枝が蝋燭《ろうそく》に火をつけ、雪子は線香をたいて合掌した。
「さあて、そろそろ行こうかね……いつまで別れをおしんでいても仕方ないで……」
千枝は先に玄関へ出て、花嫁の草履や子供たちの履物を揃えはじめた。と、その時である。表戸がそろそろと遠慮勝ちに開き、千枝の眼の前に、古ぼけた兵隊靴にカーキ色のズボンをはいた足が二本無雑作に立った。
最初、千枝はそれを、近頃《ちかごろ》このあたりにちょくちょく姿を見せるたちの良くない復員軍人の押し売りだと判断した。折角の吉日に、縁起でもないと険しい眼を上げたとたん、千枝の表情はまるで氷りついたように動かなくなった。
「あ、あんた……ま、まさか幽霊じゃないだろうねえ……」
千枝の声は咽喉《のど》にからんで、半分も言葉にならなかった。
「どうしたんだい、ねえさん……」
正作が、千枝の異様な叫びを聞きつけて出て来た。しかし、これも玄関に立っている男を見た瞬間眼をむいた。
まったく信じられないことであるが、男は岡本良平に間違いなかった。
「良平あんちゃん……」
もう三十を越え、一人前の機関手になっている正作が我を忘れて良平の首ったまにしがみついた。
「正作……」
すっかり痩《や》せて、眼玉ばかりギョロギョロしていた良平だが、ようやく彼らしい人なつっこい笑顔を見せた。
突然の良平の復員の知らせに、誰《だれ》も彼も仰天した。
だが、その驚きは、やがて大きな喜びへと変って行った。
娘の婚礼の日に、何年間も行方不明を伝えられていた父親がひょっこり戻ってくるなどということは、古今東西、そうめったやたらにあることではない。その日、披露宴に招かれた人々は、共に岡本家の二重の喜びを分ち合って、大いに飲み、且つ歌った。
しかし、なんといっても、この喜びを一番深く噛《か》みしめていたのは千枝だったに違いない。彼女には今日の出来事が、どうしても現実と結びつかないらしかった。披露宴の間にも、時々不安になるのかはっとしたように隣りの良平を確め、それが本物の良平であることを納得して、ほっと安心の溜息《ためいき》をついていた。
良平は、雄一郎と同じように直ちに帰還の手続をとり、元の職場に復帰した。
昭和二十四年、鉄道省は公共企業体日本国有鉄道として発足、組織も名称も人事も大きく変った。
同時に定員法による第一次整理通告が発表され、一次、二次と二回にわけて約十万人の人員整理が問題になった。
そうした戦後の職場で、良平は亦《また》、雄一郎とは別な意味で時代の流れを思い知らされたはずだったが、良平はそうしたことには眼もくれず、ただ黙々と機関車に乗っていた。
中国へ行っても、ビルマで戦っても、ただひたすら機関車に獅噛《しが》みついて生きて来た彼の人生が、若き日、千枝と駆落ちする際でさえ、機関車の汽笛の音の聞えない所では眠れないといった彼の機関車への愛情が、この大きな時代の激流を乗り切る唯一の支えになっていた。
機関車に乗っている限り、良平には戦前も戦後もなかった。組合の問題も、家族のことも、いつの間にか四十を越えた自分の年齢のことも、良平の念頭にはなかった。