38
そのころ、秀夫は東京に居た。
朝早く上野駅に到着するかつぎ屋たちから米を受け取り、それを新橋、赤坂などの料亭へ運搬するのが彼の日課だった。
警察の取締りは仲間たちの通報で事前にわかったが、時には不意をつかれて米を没収されることもあった。
いずれにしても、まともな商売でないことはたしかだった。
北海道の両親のことは、自分から逃げだしたくせに、思い出さない日は一日もなかった。
夢の中で、自分が幼い子供になっていて母の膝《ひざ》に抱かれていたり、父母と楽しそうに談笑したりしていることがよくあった。
(やっぱり、俺は本当は北海道に帰りたいんだな……)
そんな時、秀夫は自分で自分が哀れになった。
なんとかして、一日も早く正業につき両親を安心させてやりたいと思いながら、ずるずると怠惰《たいだ》な生活を続けていることがやりきれなかった。
秀夫はなんとかして立ち直りたいとあせっている最中、ふと、神戸で知り合った瀬戸丸のボースンのことを思い出した。
「いつでもその気になったらたずねて来いよ……力になってやるぜ……」
と言った言葉のことである。
彼は横浜へ出掛けて行った。
瀬戸丸の航路の中に横浜がはいっているのを、秀夫は知っていた。
貨物船なので、いつ横浜へ入港するかわからなかったが、秀夫は根気よく待った。
今度こそボースンのもとで、海の男として出直しをしたかった。
横浜へ行くたびに、秀夫は山下公園の前の悦子のおでん屋へ寄った。
彼が最初に港へ瀬戸丸を探しにやって来た時、やはりこの付近を縄張りにして商売をしている昔馴染《むかしなじみ》のりんたく屋の親父に偶然|出逢《であ》い、悦子が今ではおでん屋の店を出して、子供と二人で立派に生きているという消息を聞いたのだった。
悦子は秀夫との再会を心から喜んだし、秀夫も悦子がそうした生きかたをしているのが嬉《うれ》しかった。しかし、二度三度と通ううち、秀夫の興味は、悦子というよりも、悦子と一緒に働いている若い女に移っていった。
女が、やや面長な美人だったこともあるが、秀夫は最初に彼女を見た瞬間から、なにか、遠い記憶のようなものが、うす暗い屋台の中で働いているその女の顔にあるような気がしてならなかった。
名前は千代といい、北海道の塩谷《しおや》と釧路《くしろ》にしばらく住んだことがあるという。
だが、秀夫の記憶の糸はもつれたまま、鮮明な映像にはならなかった。
二度目に行ったとき今度は女の方から話しかけて来た。
「お客さんも北海道の方なんですってね、どの辺に居たんですか?」
同じアパートに住んでいるというから、悦子からでも聞いたのだろう。この前よりも彼女の態度は落着かなかった。
「富良野《ふらの》というところだよ」
「富良野……?」
ちょっと首をかしげたが、又、すぐにたずねた。
「あなた……室伏秀夫さん……ですか……」
「どうして……なんでそんなこと聴くんだい」
「い、いえ……別に……悦ちゃんがそう言っていたから……」
秀夫はこの女が、もしかしたら、自分の過去になにかのつながりを持っているのではないだろうかと疑った。
「君、ほんとうに千代っていうのかい……?」
「ええ……そうですよ……」
じっと見上げる秀夫の眼を、女の方からはずした。
千代という名前に、彼はまるでおぼえがなかった。
時々、秀夫は激しい自己嫌悪に陥った。
いつ行ってみても、港に瀬戸丸のはいった様子はなかった。
(こんなことをしていて、いったいどうなるんだ……)
という思いが彼を捉《とら》えていた。
このままでは、自分が駄目になってしまうのではないかという焦燥感が秀夫を苦しめた。
年々、老いて行くだろう父と母の顔が浮び、やり切れない思いが胸にあふれた。そんな時、秀夫は飲めもしない酒を無理に飲んだ。酔いでもしない限り、気が狂いそうであった。
その日の秀夫がそうであった。
ほとんど泥酔といった状態で悦子のおでん屋に現われた。
「あら、いらっしゃい……」
悦子はちょっと用足しに出掛けたといって、店には千代が一人だけだった。
「どうしたんですか……なにかあったんですか……」
千代が心配そうに顔を近づけた。
「世の中が嫌になるのさ……俺《おれ》って人間に愛想がつきるのさ……」
「待ってる船が来ないんで、それで自棄《やけ》おこしたんでしょう……短気は損気よ、お願いだから、あんまりやけを起さないで……そのうち、きっといい日があるわ……」
その言葉の中に、他人にはない親身さがあった。秀夫は前からそれに気付いていた。
「どうも、あんたに……どこかで逢《あ》ったような気がするんだ……」
「あたしに……いいえ……」
問いつめられると、千代はいつもむきになって否定する。その動揺が秀夫にはますます不審だった。
「北海道の塩谷に居たことがあったって言ったね?」
「塩谷って言っても、ずっと小樽《おたる》の近くなんですよ、親が漁師だったから……あっちこっち出稼ぎに歩いてて……」
「塩谷に居たの、いつ頃《ごろ》だい」
「あの……戦争中ですよ」
「戦争中か……あんた、両親は……」
「とっくに、二人とも……」
「兄弟は……」
「ありません……」
「あらいらっしゃい、いつ来たの……」
悦子が戻って来たので、二人の会話はそこで跡切《とぎ》れた。
しかし、それから間もなく、ちょっとした事件によって、秀夫はその若い女が誰《だれ》だったかを思い出した。
その事件というのは、秀夫の隣りで飲んでいた二、三人の若い男たちが、悦子や千代が秀夫にばかり愛想をふりまくのが気に入らないといって、難くせをつけ、結局、秀夫と男たちの喧嘩《けんか》になった。
すぐ前の公園で、秀夫は三人の男を相手に闘ったが、やはり多勢に無勢、転んだところを足で蹴《け》られ、棒で小突かれた。
ところが、その様子を傍で心配そうに見詰めていた千代が、なにを思ったのか、いきなり秀夫の上に覆いかぶさった。
「おい、どけ……」
「どかねえか……」
男たちは苛立《いらだ》って、千代を小突き、酔にまかせて蹴とばしたりしたが、千代は懸命に秀夫に獅噛《しが》みついて離れなかった。
秀夫は、おや、と思った。いつかずっと昔、これとまったく同じ経験をしたことがあるのを思い出したのだ。自分がまだ子供の時分、近所のいじめっ子に袋叩《ふくろだた》きにされた時、やはりこうして、身をもって自分をかばってくれた少女があった。秀夫は跳ね起きることも忘れて、女の顔を見詰めた。
「おまわりだッ……おまわりが来たぞ……」
誰かが叫ぶ声がした。その声で男たちは逃げ去った。
「おい、どうだ、怪我《けが》はないか……」
りんたく屋の親父《おやじ》が女の体を秀夫の上から抱き起した。
「秀夫、しっかりしろ、大丈夫か……」
だが、秀夫はりんたく屋の親父の言葉も耳にはいらぬように、じっと女の顔を見詰めていた。
「君……奈っちゃんじゃないのか……?」
秀夫の言葉に、女ははっきりと動揺の色を示した。
「そうだ……やっぱりそうだ……」
「いいえ……あの……」
「今、思い出したんだ……釧路だった……俺が六つの時だった……近所の男の子たちと喧嘩して、ぶちのめされて……その時、君が今とおんなじ恰好《かつこう》で俺の上におおいかぶさった……俺をかばって撲《なぐ》られたり、蹴られたりして……それでも俺の体に獅噛みついて撲られていた……奈っちゃんだろう」
「秀夫ちゃん……」
はじめて女の方から手を差しのべた。
「奈っちゃん……」
しっかりと、その手を秀夫は握りしめた。
瀬木奈津子、かつて塩谷の室伏の家の前に捨てられていたのを、有里に拾われ育てられ、一旦生みの母親の許に帰ったのに、その後再び雄一郎と有里を懐しがって家出して来た女の子が、いまでは立派に成人し、実に十五、六年ぶりに秀夫とめぐり逢《あ》ったのだった。奈津子は秀夫より三つ上の二十五歳になっていた。