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横浜でめぐりあってから、秀夫と奈津子は三日にあげず逢った。
話しても話しても、話し足りないものを、二人は僅《わず》かな時間を惜しむように語り合った。
不思議に秀夫は父にも母にも話せなかった心の苦しみを、奈津子にならなんでも話せた。
秀夫の悩みを奈津子は吸い取るように聞いた。秀夫の孤独な魂をすっぽり包みこむように、奈津子の心は秀夫によりそっていた。
そして亦《また》、奈津子も秀夫に今までのすべてを語った。傷ついた部分をなめ合うように、二人はおたがいの過去を夢中になって喋り合った。
或《あ》る時は港で、或る時は外人墓地で……。
「母は軍需工場へ働きに行っていて……直撃弾だったんですって……あたしも同じ工場で働いていたんだけど、建物が別だったので助かったんですよ、釧路から連れ戻されてからずっと母ひとり子ひとりだったでしょう……みんなはあたしが天涯孤独になったというので、とても同情してくれたけど、どういうものか、あたし独りぼっちになったって気がしなかったの……北海道へ行けば、室伏のお父さんとお母さんが居る……心のどこかでそう考えていたんです……」
そう言いながら、奈津子はハンドバッグから古ぼけた一枚の葉書を取り出した。
「ほら、いいもの見せてあげるわ……」
秀夫が手に取って見ると、表に綺麗《きれい》な女文字で、北海道釧路市北大通り、室伏雄一郎様とあった。
「なんだ、これ……釧路にいた頃の俺の家の住所でないか」
「これ、秀夫ちゃんのお母さんの字なのよ……あたしが家出して、北海道の秀夫ちゃんの家へ行ったことがあったわね、結局、東京へ連れ戻されることになり、釧路の駅で別れるとき、秀夫ちゃんのお母さんがこの葉書を渡してくれたの、なにかあったらこの葉書をポストに入れなさいって……この葉書が届いたら、なにをおいても、すぐ奈っちゃんの所へかけつけてあげるからって、何度も何度もくり返して泣いてたの……東京へ帰ってから、あたしこの葉書大事にしまっておいたわ、産みの母にも隠して、いつも体につけて持って歩いてたの……それを、いつだったか、母にみつかってしまってね、母は怒らなかったわ、そんなに北海道の室伏さんが恋しいのって泣いたけど……いつでもその葉書、ポストに入れたい日が来たら入れなさいって、あたしに返してくれたわ、そう言われると、母が可哀《かわい》そうで、葉書をポストに入れる気にはならなくなったの……いっそ、破いてしまおうかと思ったけれど、あたしにとって、たった一つの北海道のお母さんの形見ですもの……お守りのつもりでずっと持っていたわ……戦争で母が死んで、ひとりぼっちになった時、この葉書を何度もポストへ入れようと思ったわ、もう、歿《なくな》った母も許してくれるだろうと思ったの」
「なぜ入れなかったんだ?」
「怖かったのよ」
「怖い?」
「もし、北海道のお母さんが来てくれなかったら……それが怖かったの……」
奈津子は沖の白い雲を見詰めていた。
「北海道のお母さんは、あたしにとって観音様みたいなものなのよ、どんなつらいことがあっても、うろおぼえの北海道のお母さんの顔を思い出すと、辛抱が出来たわ……ひょっと悪いことを考えそうになったとき、北海道のお母さんがそれを知ったら、どんなに歎くだろうと思うと間違ったことは出来なかったわ……この葉書はあたしと北海道のお母さんをつないでいるたった一本の糸なのよ、もし、これをポストに入れてしまって……そして、お母さんが来てくれなかったら……あたしを支えている糸は、ぷつんと切れてしまう……それが怖しかったの……わかってくれる……」
「ああ、わかる……しかし、苦しかったろうなあ、女独りで……男の俺だってまともに生きて行くのはむずかしい時代なんだ……」
「だって、あたしの方が年上だもの」
「たった三つでないか」
「三つだって年上よ」
「ちぇっ、いばってやがら……」
軽い口喧嘩《くちげんか》をまじえながら、二人は幼い頃を想い出していた。
秀夫は明るい横浜の港に、白乳色をした霧を思い浮べてみる。
釧路の港はいつも濃い霧にとざされ、終日霧笛が鳴っていた。
「ねえ、あたし、秀夫ちゃんにお願いがあるのよ……」
奈津子がふと思いついたように秀夫を見た。
「なんだい」
「きいてくれる……?」
「たいていのことならな……」
「怒らないって約束してよ」
「怒るようなことなのか」
奈津子は自信なさそうに眼を伏せた。
「いいよ、奈っちゃんのことなら、なに言ったって怒りゃしないよ」
「ほんとうに……?」
「ああ……なんだよ、いったい」
思い切って奈津子は口を開いた。
「秀夫ちゃん……いつ、北海道のお父さんとお母さんのところへ帰るつもり……?」
「なんだ、そんなことか……」
秀夫は顔をしかめた。
「ほら、怒った顔をする……」
「いつかは帰るさ……一人前の船員になって……まともに働いて食って行けるようになったら……」
「だったら、お願いよ、もう、かつぎ屋なんか止めて……あんたは、かつぎ屋なんかしてる人じゃないわ」
「いつまでもしている気はないさ……いつかも話したろう、瀬戸丸のボースンに逢《あ》えさえしたら……」
「逢えるまで、かつぎ屋しているの……もしも、待っても待っても来なかったら……一生、かつぎ屋をしているつもり……?」
「なぜ……」
さすがに秀夫はムッとした。
「怒らないで……ね、これを見てよ……」
奈津子は小さく畳んだ紙片を見せた。
「これ、船員学校の入学申込み金の領収書なのよ……あたし、今日これを申し込んで来てしまったの……」
「奈っちゃん……」
秀夫はあわてた。
「試験は再来週の月曜よ、お願い、がんばって……」
「しかし、学校へ入るったって……学費もかかるし、生活費だって……」
「お金はあたしが働きます……お願いだから、あたしの言う通りにして……」
「冗談いうな、君に働かせて、のうのうと学校へなんか行けるもんか」
横を向いてしまった秀夫に、奈津子は懸命にくいさがった。
「秀夫ちゃん、あんた男でしょう、男だったら目先のことなんかにとらわれず、もっと、未来を見詰めてよ、立派な船員になるためには、ちゃんと学校を出ておくことが一番よ、たとえ回り道だって、ただ、同じ所に突っ立っているよりはずっと早くに目的地へ着けるわ、そうじゃないの、秀夫ちゃん……」
「嫌だよ」
秀夫は首をふった。
「俺は誰にも頼りたくないんだ、まして女にみつがせて学校へ行くなんてまっぴらだ……」
奈津子は秀夫をじっと見詰めた。
「それじゃ、なぜ瀬戸丸のボースンを待っているの……瀬戸丸のボースンを頼って船員になろうとしているの……瀬戸丸のボースンは頼れるけれど、あたしには頼りたくないっていうの……」
「待てよ、奈っちゃん」
「秀夫ちゃん、あたしはあなたが……あたしの大事な北海道のお母さんの子だから……なんとしてもお母さんのそばへ帰って欲しいのよ、立派になって……胸を張って……あなたの気のすむようなあなたになって、北海道のお母さんのところへ帰って欲しいのよ……そのためなら、あたし、なんだってするわ、お母さんが喜んでくれるなら……お母さんが、奈津子、よくやってくれたって言ってくれるなら……あたし……死んだっていいの……」
「奈っちゃん……」
秀夫は奈津子を眺めた。奈津子がそれほどまでに母のことを慕っていたのかと驚いた。
「お願い……秀夫ちゃん……」
奈津子の全身からほとばしる、その一途な気持に打たれて、秀夫はいつまでも奈津子を見詰めていた。