41
瀬戸丸が横浜に入港したのは、雄一郎が塩谷駅長に就任したのと同じ頃、昭和二十六年春だった。
奈津子がおでんを食べにやって来た船員の口から、偶然そのことを聞いたのだった。
翌朝、秀夫は瀬戸丸を訪ねた。
ボースンは居なかったが、顔見知りの坂崎という船員が居て、ボースンの消息を教えてくれた。
通称ボースンこと、溝上敬吉は二年前に瀬戸丸を去り、今では青森と函館を結ぶ青函連絡船で働いているとのことだった。
「そうそう、そういえば、もしお前が訪ねて来たら、いつでも青函へくるように伝えてくれって言っていたっけ……」
坂崎が思い出したように言った。
ボースンの消息を得たことは、今の秀夫にとって、溺《おぼ》れかかったところへ投げられた浮輪のようなものだった。
秀夫と奈津子はすべての持物を整理した。家財と名のつくほどのものはなかったが、それでもいくらかにはなった。
まだ正月気分がすっかり抜け切らない新春を、秀夫と奈津子は傷ついた二羽の鳥のように肩を寄せ合い、混雑する東北本線青森行列車の片隅に乗り込んだ。
青森へ着いたのは早朝だった。
連絡船の事務所でたずねると、溝上敬吉は間違いなく函館船員区に属していることがわかった。
どんよりした空の下に、海峡は黒いうねりをみせていた。
秀夫にも奈津子にも、感無量の海峡であった。
この海を越えれば、父と母と同じ大地を踏むことになる。その思いが、二人の胸を熱くしていた。
かつて、雄一郎夫婦を実の両親と思い込んで、はるばる一人でこの海峡を越えて行った奈津子の幼い日——そして亦《また》、海兵団へとび込む決心をして、海峡を渡った秀夫の青春の日——海峡は昔のままであった。
冬の海の黒いうねりも、白い飛沫《しぶき》も、前とちっとも変らぬ顔で秀夫と奈津子を包んでいた。
函館へ着くと、秀夫は奈津子を待合室へ残して、一人でボースンを訪ねた。
溝上敬吉は船員控所に居た。訪ねて来たのが秀夫だと知ると、
「なんだ、お前か……随分遅かったな……」
ごく自然に言った。まるで、二、三日前に別れた者を迎えるような感じだった。
「いったい今まで、どこをうろついていやがったんだ?」
「それが……東京や横浜を……」
「まあいい、話はいずれゆっくり聞こう、とにかく俺を頼って来たんだろう」
「ええ」
「よおしッ」
溝上は満足そうに頷《うなず》いた。
「いま、家の地図を書いてやるからな、先へ行って待っててくれ……」
「ボースン……実はその……」
秀夫は奈津子のことを溝上にどう説明しようかと迷った。しかし、溝上はそんなことには一向|頓着《とんちやく》なく、
「これから乗務なんだ、明日の午後には帰る、勝手に鍵《かぎ》をあけてはいれ、食いものは台所だ、押入れの布団を引っ張り出して、食うなり寝るなり好きなようにしろ、どうせ独り者のすみかだ、汚ねえが文句を言う奴《やつ》ア居ねえさ……」
地図と鍵を机に置くと、帽子をかぶり直して出て行った。
秀夫はとうとう奈津子のことを言いだしそびれた。自分一人世話になるのも大変なことなのに、この上、奈津子のことまで持ちだすのは気がひけた。それを聞くと奈津子は、
「いいのよ、かえって話さなくて良かったのよ、女を連れて来たなどと言ったら、きっと叱《しか》られたわ、一徹な人らしいもの……あなたはこのままボースンの家へいらっしゃい、私は他に働く場所を探すわ」
と平然としていた。
「さっき、待っている間にそばの人に色々聴いておいたのよ、こんなこともあるかと思って……この先に湯《ゆ》ノ川《かわ》って温泉場があるそうだから、そこで働きながら秀夫ちゃんが一人前の船員になる日を待っているわ」
「奈っちゃん……」
秀夫には奈津子が心配をかけまいとして、懸命に内心の心細さを隠しているのが良くわかった。
「すまない……」
「いいのよ、大丈夫よ、これでも年のわりには苦労の水をくぐって来てるんですもの、たいがいのことには負けないわ」
奈津子は笑っていた。
その日から、秀夫は溝上の家に、奈津子は湯ノ川温泉のはなぶさという旅館に住み込むことになった。
秀夫は、昼間は溝上の世話で、港の荷揚を手伝い、夜は机に向って、船員として必要な勉強をした。運の悪いことに、青函ではこのところずっと新規採用が無かった。ここでも、復員者による定員オーバーがたたっていた。
一緒に暮すようになっても、溝上は相変らず秀夫の過去も親のことも自分の方から穿鑿《せんさく》することはなかった。そのため、秀夫の方も奈津子のことを言い出す機会がなかった。
二か月程たった或る日、溝上が帰ってくるなり秀夫を呼んだ。
「おい、喜べ、うまくすると来月に機関部員の採用がありそうだぞ……」
「ほんとですか、ボースン」
「うん、早速お前のことを頼んできた、試験さえ合格すれば、一年間養成所でみっちり訓練を受けて正式の雇員になれるんだ、がんばれよ」
「はい……」
やっと俺にも運が向いて来た、と秀夫は思った。すべてはこれから受ける試験にかかっているのだ。奈津子のことも、両親とのことも。秀夫は必死で勉強した。チャンスは一回きりだと自分に言いきかせた。
競争率がかなり高かったにも関らず、秀夫は七重浜《ななえはま》の職員養成所機関科の試験に見事合格した。
この新規採用は昭和二十四年の七月以来、ずっと停止されていたもので、実に三年ぶりの再開であった。
養成所の寮へ引っ越すことになった秀夫に、溝上は、
「お前にゃまずその心配はなかろうが、女にだけは目をくれるなよ、もう少しの辛抱だから、とにかくこの一年、石にかじりついても立派な成績で卒業してくるんだぞ」
先輩としての注意を与えた。更に、
「それからな、もし、お前に親が居るんなら、合格したことくらいは知らせてやんなよ、安心するからな……」
秀夫がここへ来てからはじめて、自分の方から秀夫の肉親のことを口にした。
そのことは、もちろん、秀夫も考えぬわけではなかった。しかし、今更急に知らせるのも面映かった。正規採用になった時、奈津子を連れて結婚の許しを乞いに両親の許へ行こうと思った。
翌昭和二十八年の春。
室伏雄一郎は塩谷《しおや》駅長から、札幌《さつぽろ》鉄道局業務部貨物課へ転勤した。
彼は初めて現場をはなれて、いわゆる、朝出勤して夕方帰宅するというサラリーマン生活を経験することになった。官舎を出た二人は、ちょうど塩谷に手頃な家があいていたので、当分はそこに落着いて札幌へ出勤した。
雄一郎夫婦の孤独は年が重なるにつれて、次第に底の深いものになって行った。
どこの家でも、子供のにぎやかな声がする。やれ進学だ、就職だ、結婚だと、同じ年頃の夫婦が我が子のことをなにかにつけて話題にするのが二人には辛かった。
まして、すぐ近くに子沢山の岡本家のにぎやかな団欒《だんらん》があるだけに、時々、雄一郎夫婦には救いようのない絶望感を味わうことになった。
「あの子、なんで私たちから逃げたんでしょうね……せめて、居所くらい知らせてくれたらよさそうなものなのに……」
有里の言葉もつい愚痴になった。
「いっそ無かったものなら諦《あきら》めもつく……俺たちのはまるで底なし沼だ……いつまでたってもこの哀《かな》しみから這《は》い上ることは出来ん……」
雄一郎は前よりも怒りっぽくなった。つまらぬことで、すぐイライラする。原因がはっきりしているだけに、有里は哀しかった。
「あたしが悪いんです……あなたの留守中に、あの子の心をしっかり掴《つか》んでいなかったから……だから、こんなことに……」
「やめろ、くだらない……」
そんな会話がしばしばくりかえされた。
雄一郎は秀夫の居ない空白感を仕事によって満たそうとするらしく、朝は誰れよりも早く事務所に出勤し、夜は一番最後まで残って働いた。そのため、上司にたいするうけはかなり良いようだった。塩谷駅長時代にも無事故記録やら、親切な駅、清潔な駅などで何度も表彰状を貰《もら》った。
もちろん、それらの事は有里にとっても誇らしく嬉《うれ》しいことに違いなかったが、やがて七、八年後にやってくる停年退職後のことを思うと不安でたまらなかった。
彼から、或《あ》る日、突然仕事を奪った時、彼はいったいどうなるだろう。仕事は彼を支えているたった一本の柱なのだ。その柱の無くなった時が有里には恐しかった。
室伏雄一郎は塩谷《しおや》駅長から、札幌《さつぽろ》鉄道局業務部貨物課へ転勤した。
彼は初めて現場をはなれて、いわゆる、朝出勤して夕方帰宅するというサラリーマン生活を経験することになった。官舎を出た二人は、ちょうど塩谷に手頃な家があいていたので、当分はそこに落着いて札幌へ出勤した。
雄一郎夫婦の孤独は年が重なるにつれて、次第に底の深いものになって行った。
どこの家でも、子供のにぎやかな声がする。やれ進学だ、就職だ、結婚だと、同じ年頃の夫婦が我が子のことをなにかにつけて話題にするのが二人には辛かった。
まして、すぐ近くに子沢山の岡本家のにぎやかな団欒《だんらん》があるだけに、時々、雄一郎夫婦には救いようのない絶望感を味わうことになった。
「あの子、なんで私たちから逃げたんでしょうね……せめて、居所くらい知らせてくれたらよさそうなものなのに……」
有里の言葉もつい愚痴になった。
「いっそ無かったものなら諦《あきら》めもつく……俺たちのはまるで底なし沼だ……いつまでたってもこの哀《かな》しみから這《は》い上ることは出来ん……」
雄一郎は前よりも怒りっぽくなった。つまらぬことで、すぐイライラする。原因がはっきりしているだけに、有里は哀しかった。
「あたしが悪いんです……あなたの留守中に、あの子の心をしっかり掴《つか》んでいなかったから……だから、こんなことに……」
「やめろ、くだらない……」
そんな会話がしばしばくりかえされた。
雄一郎は秀夫の居ない空白感を仕事によって満たそうとするらしく、朝は誰れよりも早く事務所に出勤し、夜は一番最後まで残って働いた。そのため、上司にたいするうけはかなり良いようだった。塩谷駅長時代にも無事故記録やら、親切な駅、清潔な駅などで何度も表彰状を貰《もら》った。
もちろん、それらの事は有里にとっても誇らしく嬉《うれ》しいことに違いなかったが、やがて七、八年後にやってくる停年退職後のことを思うと不安でたまらなかった。
彼から、或《あ》る日、突然仕事を奪った時、彼はいったいどうなるだろう。仕事は彼を支えているたった一本の柱なのだ。その柱の無くなった時が有里には恐しかった。