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一年間の養成期間をおえ、秀夫はいよいよ青函連絡船の機関部員として正式に採用された。
その喜びの中で、秀夫と奈津子は結婚した。
別に結納金を取り交わすでも、披露宴を盛大にやるでもなく、ボースンこと溝上敬吉の家で彼と三人とっておきのスコッチウイスキーで乾盃《かんぱい》して、晴れの門出を祝った。
長いこと苦労して来た二人にとっては、こんな貧しい結婚式でも、他のどんな贅《ぜい》を尽した結婚式、披露宴より嬉《うれ》しく、晴れがましかった。
「結婚届だけはちゃんとしろよ、二人とも手紙でいいから戸籍謄本を本籍地から取り寄せるんだ、子供が出来てからあわててなんていうのは感心しねえからな……保証人には俺がなってやる、いい夫婦になるんだぜ……」
「ありがとうございます。ボースン……」
秀夫は思わず声をつまらせた。奈津子もハンカチでしきりに涙をふいていた。
「ご恩は一生忘れません……二人で一生懸命働いて、今にきっとお返しいたします」
「馬鹿野郎、恩なんてものはきるもんではあっても返すもんじゃねえよ。恩をきたと思ったら、こんどは他の困ってる奴《やつ》に親切にしてやんな、それが本当の恩返しってもんだぜ……」
溝上は磊落《らいらく》に笑った。
秀夫と奈津子の新世帯は、溝上の家のすぐ近くにアパートを借りた。
二人にとって、溝上は仲人であり、親でもあった。溝上の帰宅する夜は、必ず奈津子が夕食を作り、別々に帰ってくる秀夫と溝上を待った。
溝上の食事の世話から掃除、洗濯まで、奈津子は小まめにやって来て、さっさと片づけて行く。長い間、孤独な生活に馴《な》れた溝上にとって、息子と嫁が一遍に出来たような明け暮れであった。
だが、その溝上にも、心配事が一つあった。それは、何度すすめても、秀夫が両親と連絡をとろうとしないことだった。彼にとっては、久しぶりに味わう家庭の幸福である。いつまでもこのままの生活が続いて欲しかった。逆に、本来なら秀夫の両親がこの仕合せを得るはずのものではなかろうかという、いささかうしろめたい気持もした。
一見、豪放で物事にこだわらなさそうに見える溝上も、こと人情となると、実は人一倍繊細な神経の持主だったのだ。
秀夫と奈津子の間で、室伏の両親に逢《あ》いに行こうという話が無かったわけではない。特に奈津子はかなり頻繁にそのことを話題にした。
両親が塩谷に住んでいるらしいことも、謄本を取ったとき判明した。ただ、秀夫がいざとなると、上野で両親を捨てたことにひどくこだわった。
逢いたいくせに、約十年間離れて暮していた結果生じた溝を、思い切ってとび越えかねていた。
機関部員一年生の秀夫の毎日は極めて多忙だったし、新所帯を作るために、奈津子も又、内職のミシンを踏みつづける日が続いたせいもあって、二人の消息は塩谷の両親のもとへはいつまでたっても届かなかった。
翌年の秋、塩谷の室伏家では、両親の法事を営んだ。
東京からは、この春東京駅長を勇退した伊東栄吉、はる子夫婦もはやばやとやって来たし、尾鷲《おわせ》からは勇介が訪ねて来た。
みちはその後健康を回復したが、何分老齢のことなので、勇介をかわりに寄越したのだという。
法事には、南部斉五郎も三千代も関根重彦もまいってくれた。岡本夫婦のところは、三年前に遂に第十一番目の子、末吉が生れ、長女の雪子のところに生れた孫と同じ年という奇妙なことになっていた。
読経が終り、参列者の焼香がはじまったころ、有里はうしろの方に見馴《みな》れない男が坐《すわ》っているのに気付いた。
体格は見るからに頑丈そうで、顔もまっ黒に陽焼けした四十|恰好《かつこう》の男だった。
最初、雄一郎の知り合いだと思っていたが、夫から、
「おい、あのかたはどなただ?」
と逆に訊《き》かれて、有里はおやと思ったのである。
法要がすむと、男は向うから雄一郎の前にやって来て名刺を出した。
「初めてお目にかかります……実はあなたの息子《むすこ》さんのことで、折入ってお話し申したいことがありましたもので……」
男は溝上敬吉だった。
「えッ、秀夫のことを御存知なんですか」
雄一郎が思わず大きな声を出した。
「御法事があるとは知らなかったもので、こんな恰好で来てしまいましたが……」
そのときは、みんなの視線が一斉に溝上の上に集っていた。
「秀夫は、秀夫はいまどこに居るんです……元気ですか、ちゃんとやっているんでしょうね……」
有里は夢中でそれだけ訊いた。
「息子さんは元気です。いま青函連絡船で機関部員として立派に働いています、是非|逢《あ》いに行ってやってください」
溝上は家の地図を書いて雄一郎にわたした。
法要のあと、小樽の料亭で精進おとしの宴会になった。
雄一郎は帰ると言う溝上を無理に頼んで宴席へ招待した。秀夫のことの詳しい話を聞くためである。斉五郎も伊東も関根も話を聞きたがった。
溝上を囲んで、宴会は夜のふけるまで陽気に続けられた。なんといっても、秀夫が立派に立ち直っていたのが、みんなの顔を明るくしていた。とりわけ有里は嬉《うれ》しそうだった。
溝上から何度でも同じことを聞き、そっと涙を拭《ふ》いていた。
秀夫がすでに結婚していると知って、多少複雑な表情を見せたが、良い娘だと聞かされ、雄一郎も有里も再び相好をくずした。
「これでお前のところも万々歳だ、わしも安心してあの世へ行けるぞ……」
斉五郎が相変らずのおどけた調子でみんなを笑わせた。
室伏家にとっては、まったく何年ぶりかの楽しい心の底からの笑いだった。
雄一郎は是非泊って行くようすすめたが、溝上は明日の午前中の船に乗らなければならないからと、その夜の列車で函館へ帰って行った。
ちょうど本州へ台風十五号が接近していた。
有里はその夜のうちにも溝上と一緒に秀夫の所へ行きたそうな顔つきであったが、法事の後片付けもすんでいないので、明日の午後、雄一郎と函館へ行くことになった。
「明日のお天気、大丈夫かしらね……」
溝上を駅まで送った帰り、有里は暗い空を見上げて言った。
「なあに、台風ったって大したことはあるまい……雨が降ろうが槍《やり》が降ろうが明日は逢いに行くさ……」
雄一郎の声が歌うようだった。
昭和二十九年九月二十六日、日本本土を襲った台風十五号は、時速百|粁《キロ》の猛スピードで四国松山の西方海上を通り、中国地方を斜めに横断し、午前八時頃、鳥取の北方で日本海に抜けた。
しかし、依然として衰えをみせず、日本海上で異状な発達をしながら北東に進み、午後三時には青森の西方海上に達し、中心気圧九六〇ミリバールの台風として、しかも急速に進行速度を落しはじめていた。
つまり、本州を横断してしまったにも関らず、依然として勢力に衰えをみせぬ台風が、のそりのそりと海ぞいに津軽《つがる》海峡へ近づきつつあったのだ。
この日、函館《はこだて》では朝から小雨模様だった。十時頃から東の風が吹きはじめ、ラジオは台風十五号の接近を伝えていた。
函館海洋気象台から暴風警報の出た午前十一時三十分、すでに津軽海峡は東の風が平均二十|米《メートル》に達し、大時化《おおしけ》となっていた。
その中を、定時に青森を出航した溝上敬吉の乗る第十一青函丸は、強風に難航しつつ、約十分遅れて、漸《ようや》く十一時五十分に函館港に着き、旅客百七十六名、貨車四十二両を搭載して十三時二十分、折返し函館を出航した。
雄一郎と有里が函館へ着いたのはそのあとで、彼は同僚に事情を話し、この日仕事をかわってもらって早朝|小樽《おたる》を発《た》って来たのだった。
二人は知らなかったが、この時函館港には秀夫が機関部員として乗り込んでいる洞爺丸《とうやまる》が風のおさまるのを待って待機中だった。
雄一郎夫婦は地図をたよりに若松町の松月荘というアパートを訪ねた。
雨が風に乗って吹きつけるので、二人がアパートの前まで辿《たど》りついた時には、衣服もかなり濡《ぬ》れていた。
溝上に教えられた通り二階へ上り、階段から二番目のドアをノックした。中から若い女の声がして、ドアがそっと開いた。
「私は室伏秀夫の父ですが……」
雄一郎が名乗るか名乗らぬうちに、女の口から、あッと小さな叫び声がもれた。
「どうぞ……」
中へ招じた声もふるえていた。
「秀夫は今日は出勤ですか?」
有里が聴いた。
「は、はい……こんな嵐《あらし》でどうなるかわかりませんが、今日は洞爺丸で青森まで往復することになっています……」
奈津子は眼を伏せたままだった。
最初見た時から、北海道のお父さんとお母さんだということはすぐ判った。しかし、あまり突然のことだったので、すっかり動転してしまい、ろくに口もきけない始末だった。
「お父さん、お母さん、奈津子です……」
口もとまで出かかっているのに、どうしても言えなかった。
雄一郎と有里は、この若い女が奈津子だなどとはまるで気付かなかった。
「すると、帰りはおそくなるかな……」
「台風で船の出航が遅れているようですから……」
いままで台風情報を聞いていたらしく、ラジオがつけっぱなしだった。
「あなたが、秀夫の……?」
有里が言った。
「申し遅れました。奈津子です……」
「奈津子……さん……?」
有里がおやという表情で奈津子を眺め、それから夫を見た。
「まさか……」
有里は敏感に奈津子の顔の中に、幼い日の面影を感じ取ったらしかった。
「だけど、そんな筈《はず》はないわ……あの子がこんなところに居るはずがない……」
「いいえ……」
奈津子はこの機をのがさず例の古ぼけた葉書を有里に見せた。
「これは昔、お母さんが私に逢《あ》いたくなったらいつでもポストへ入れろとおっしゃって……ご自分で書いて渡してくださったものです……」
有里は葉書を見詰めた。表情がみるみる変った。
「じゃあ、あなた、やっぱり奈っちゃん……」
「お母さん……」
奈津子は有里の膝《ひざ》にすがりつくと、まるで子供のようにむせび泣いた。
「奈っちゃん、大きくなったわね……」
有里の声もふるえていた。しっかりと奈津子の肩を抱いていた。