むかし、むかし、あるお寺に人のいい小僧《こぞう》さんがおりました。葬式《そうしき》だの、法事《ほうじ》だのというと、和尚《おしよう》さんのおともをして行きました。すると、それぞれの家で、
「お小僧さん、きょうはごくろうさまでございました。」
そんなことをいわれて、紙につつんだお金をもらいました。むかしのことですから、そのゼニは一文《もん》だの、二文だのといいました。まん中に穴《あな》があいてるゼニなんです。しかも四角な穴です。そのころの人は、それにワラシベであんだ、細いなわをさしとおしていました。そのなわのことをサシといいました。
小僧さんも、三文四文ともらうゼニを、みんなそのワラサシにとおして、部屋《へや》の柱のくぎにぶらさげておきました。そして、サシにとおしたゼニの長くなるのをたのしんでおりました。三枚《まい》や五枚では、それは五分《ぶ》の長さにもなりません。しかし、二十枚三十枚とたまると、三寸《ずん》にも、五寸にもなります。小僧さんのサシには、そのときもう三十枚もたまっていたのでしょうか。柱にぶらさがっていても目だちました。
「おまえ、ずいぶん持ってるな。これでおだんごの一くしもごちそうしたらどうだ。」
せっかく小僧さんがためたゼニを見て、こんなことをいう、おじさんがありました。また、
「小僧さん、小僧さん、こんなところに、こんなにお金をぶらさげておくと、ドロボウが来て、取ってしまいますよ。」
そんなことをいう、おばさんもありました。小僧さんはなるほどと思って、そのゼニをどっかへしまおうと考えました。ところで、どこへしまったらいいでしょうか。
小僧さんは、押入《おしい》れだの、戸だなだのと、入れるところをさがしました。その押入れも、戸だなも、しかし小僧さんひとりのものでないので、柱へぶらさげておくのと、たいした変わりもありません。みんなが朝晩《あさばん》そこをあけるのですから、いつ、だれに取られるかわかりません。それなら、床《ゆか》の下は。でなければ、天井《てんじよう》のうらは。床下ではネコがくわえていくかもしれません。天井うらではネズミがひいていくかもしれません。こまったことです。
何日も、何日も考えたすえ、小僧さんはそのゼニサシを、土をほってうめておくことにしました。そうしとけば、それがいちばん安心です。で、ある晩、和尚さんといっしょに法事から帰ってくると、すぐ、そのゼニサシをもって、外へ出ました。
それは、まえから考えていた場所なんですが、カネツキ堂《どう》のうらがわです。小僧さんは、朝晩そこへカネをつきに行くので、そっちをのぞくのに便利だったのです。竹ぎれの先をとがらし、土を一尺《しやく》ほど掘《ほ》りました。そして、そのへんを見まわし、だれも見ていないのをたしかめてから、そうです、その日もらった三文のお金をゼニサシにさしくわえ、それを土の中にうめました。土でよごれないように小さなかめの中に入れ、ふたをして、うめたのです。それから、いつものようにカネツキ堂の上にのぼって、
「ゴ——ン、ゴ——オン」
と、お寺の大きなカネをつきました。きょう、小僧さんはいい気持でした。お金はぜんぜんかくしてしまったし、気にかかることは一つもありません。
ところが、カネツキ堂からおりて、もう一度ゼニサシをうめたところをのぞきますと、
「あれえ——」
そこに土の上に、一ぴきの大きなカエルがすわっております。しかもそれが、小僧さんを見ると、ピョ——ンと一はね、遠くへとんでってしまいました。そのとき、ふと小僧さんは、
「もしかすると、あのゼニが、あのカエルになって、とんでったのではあるまいか。」
そんなことを考えました。しかしすぐ、
「そんなバカなことがあるものか。」
そう考えなおしたのですが、どうも心配でなりません。
「そんなことがあってたまるものか。」
思えば思うほど、気になってしかたがありません。それで、思いきって、またそこを掘りかえしてみました。
「どうかな。あるかな。ないかな。カエルになって、とんで行っちゃったのかな。」
胸《むね》をドキドキさせながら、掘ってみますと、やれ、うれしや、ちゃーんと、サシはもとのまま、穴の底に、かめの中に横になっていました。まずまず、これで安心です。そこで、もう一度うずめなおそうとして、小僧さんはいいました。
「ゼニサシ、ゼニサシ、カエルになんかなるんじゃないよ。しかし、そうだ、もしドロボウがここを掘ったら、そのときはカエルになって、ピョンピョン、ピョンピョン逃げて行きなさい。わたしのときはゼニでいなさい。いいかい。いいかい。」
そうしておいて、小僧さんは土をかけて、そこをうずめました。もういよいよ大安心です。そう思ったものの、小僧さん、それからあとは、朝に晩にカネをついたあとは、必ずそのゼニサシをうずめたところに寄って、
「ゼニサシ、ゼニサシ、わたしのときはゼニでいて、他人が見たらカエルになれ。いいかい、いかい。」
そういいいいしました。葬式や法事でもらうお金を、そのサシにくわえるときにも、それはもう決していいわすれることはありません。
「ゼニサシ、ゼニサシ、人が見たらカエルになれ。わたしが見たら、ゼニでおれ。」
くりかえしたわけであります。ところで、これをだれひとり知っている人はいないと思っていましたところ、ある日のことです。和尚さんが、どうも近ごろ、小僧さんがカネをついたあと、なかなか帰ってこないのに気がつきました。それで、ある日、そっと遠くからカネツキ堂の方を見ていました。すると、小僧さん、お堂のうしろへ行って、なにかいってるようであります。それで、そのつぎの日、和尚さんはもっと近くへ行って、かげにかくれて、小僧さんのやってることを見ていました。ちょうど、それは、小僧さんはお使いに行って、二文だか、三文だか、お金をもらった日であります。だから、土の下から、かめを掘りだし、中のサシにその三文をくわえ、大まじめに、
「人が見たら——」
と何度もいってうずめました。和尚さんは、おかしくてなりません。よっぽど、とちゅうで小僧さんに、
「これ、これ——」
そういって注意してやりたいと思いましたが、こらえました。そのかわり、あくる日になると、大きなカエルをとってきて、かめの中のゼニサシととりかえておきました。そして、やはりかげにかくれて見ていました。その日も小僧さん、お使いに行って、何文だかゼニをもらってきていました。だから、
「ゴ——ン、ゴ——オン」
と、カネをならすと、大いそぎでカネツキ堂のうしろへまわり、ゼニサシのうずめてあるところを掘りました。かめを出し、ふたをとり、——すると、どうでしょう。おどろいたことに、中にいるのはすましこんだ大ガエルです。
「オイッ。」
小僧さんがいいました。じつは、それがすぐゼニサシになると思ったからです。だって、いつも、いつも、人が見たらカエルになれといってあるもので、じぶんと人とをまちがえたものと思ったからです。しかし、カエルはじっとしております。
「オイッ。おれだよっ。」
小僧さん、大きな声をだして、もう一度いってみました。それでもカエルは、ゼニになりません。
「こまったなあ。」
小僧さんはひとりごとをいいながら、しばらく考えておりました。そのすえ、とにかくカエルをつかまえて、よくよくしらべてみようと考えたらしいのです。いや、とくといいきかせて、もとのゼニに返そうと思ったのかもしれません。そうっと、かめの中に手をさしいれました。すると、カエルは、
「これはたいへん。」
と思ったらしく、いずまいをなおして、すぐにもとびだしそうな姿勢《しせい》をとりました。小僧さんにも、それがよくわかるので、
「おれだよ。おれだよ。おれだよ。おれだよ。」
小さい声でくりかえし、くりかえしして、手を近づけました。しかしもうちょっとというところで、そのカエル、ピョ——ンと、大きくはねました。はねること一メートル五十センチ、いや二メートルかもしれません。小僧さんはおどろきました。アッと、思わずいったくらいです。それでもまだゼニサシのなってるカエルと思うものですから、
「だめだよ。おれじゃないか。ひとじゃないんだよ。とんでっちゃ困《こま》るじゃないか。」
そういっていました。でも、カエルのほうも本もののカエルですから、そんなことは通じません。ピョ——ン、ピョ——ン、ピョ——ン。ひととび一メートル以上もはねて、草のなかへ消えてってしまいました。にわかにうろたえて、小僧さんが、おっかけましたが、どうにもなりませんでした。
かげで、これを見ていた和尚さんが、どんなにおかしく、どんなに笑いをこらえていたことでしょう。