むかし、甲州《こうしゆう》に、というのは今の山梨《やまなし》県のことです、呉服物《ごふくもの》を売るあきんどがありました。静岡の方へ行っての帰りです。富士山のふもとの原っぱを通っていると、日が暮れました。
そこは二、三十キロのあいだ、家が一つもないというところですから、大へんです。どうしたらいいかと考えているうちに、遠くから山犬の鳴き声が聞こえてきました。山犬というのは、日本のオオカミのことです。だんだん、その人のほうへ近よってくるようすです。しかも、あっちの谷、こっちの森から、その声によびだされるのか、ほうぼうから声がおこって、それがだんだんひとところへ集まり、その集まったたくさんの山犬が、どんどん、どんどん、近づいてくるもようです。
「いよいよ大へんだ。」
その人はあわてました。あわてて、そのへんを見まわすと、近くに一本、高い木がありました。それに登る以外、もう、のがれる道はないのです。そこで、その人はその木のところへかけていき、それに登りつきました。四メートル、五メートルと登って、やっと、その人は大息《おおいき》をつきました。
「やれ、やれ、やれ。」
いくらたくさんの山犬だって、ここまで登ってはこれないだろう。そう思ったのです。思うまもなく、山犬たちは、もう木の下に集まり、ウオー、ウオー、ウオー、ウオーと、おそろしい声でほえたり、うなったりしていました。なかでも、強いらしい五、六ぴきは、かわるがわる飛びあがって、あきんどのお尻《しり》へ、そのするどいきばでかみつこうとしました。あらあらしい足音をたてて、それをやるのですが、三メートルとは飛びあがれません。
すると、なかの一ぴきがいいました。
「こりゃだめだ。孫太郎《まごたろう》ばあさんをよんできて、なんとか考えてもらわなくちゃ。」
「そうだ、そうだ。」
他の山犬がいいました。そして、もう二、三びきが、どこか、はしっていきました。まもなく帰ってきたのを見ると、大きな年よりのネコといっしょです。
「孫太郎ばあさん、ひとつたのみます。木の上に人間が登りついてて、おれたち、どうにもならんのじゃ。」
木の下で、あきんどの番をしていた五、六ぴきが、口ぐちにそんなことをいいました。そのふるネコが、孫太郎という名なのでありましょう。
「フーン、こりゃ、犬ばしごをかけるよりほか、手がないな。」
ちょっと考えていたあと、そのふるネコがいいました。すると、木の下で一ぴきの山犬がしゃがみました。と、その上へ一ぴきの山犬が登りました。と、またその上へ、もう一ぴき登りました。こうして、何十ぴきもの山犬がじゅんじゅんに登り、登りして、しだいに高くなってきました。もう、あきんどの足のへん、お尻近く登ってきました。
ところで、あきんどさん、こわくて、こわくて、その木のもっと上へ登ろうと思うのですが、上にはなにかの巣《す》のようなものがあって、頭につかえます。ハチの巣なのか、それとも、鳥の巣なのか、よくわかりません。とにかく大きなものです。しかし、もう山犬がお尻へとどきそうになっているのですから、ハチか、鳥かなんて考えてるわけにいきません。それをはらいのけて、そこをもっと上へ登っていこうと思いました。そこで、腰《こし》にさしていた短い刀をぬいて、その巣にキュッとつきさしました。
ところが、おどろいたことに、そこに一ぴきのクマがいたのです。クマが巣を作って、そこで寝《ね》ていたのです。クマはおどろきました。
「いたいっ、らんぼうするない。」
クマのことばで、そういったのでしょうか。なにか、ウオッというような声とともに、木の下へころがり落ちました。そして、これはたまらんと、全速力で逃げだしました。これを見ると、山犬どもは、
「それ、人間が逃げだした。」
と、頭をそろえて、どっと、そっちへかけだしました。だけども、あいてはクマのことですから、かけっこしても、かみあいっこをしても、山犬どものかなうことではありません。つぎからつぎへ、かみふせられました。そこで、
「なんて、この人間は強いんだろう。とてもかなわん。」
と、孫太郎ネコともども、どこともなく逃げてってしまいました。
木の上では、おそろしさに、それまでブルブルふるえていたあきんどさんも、これでやっと安心しました。それにまもなく、夜があけたので、
「ああ、こわかった。こわかった。」
と、また甲州さして帰っていきました。