これは、いまの岩手県気仙郡《けせんぐん》竹駒村《たけこまむら》の相川《あいかわ》という家に、つたわっているお話です。この家の先祖《せんぞ》は、三州古賀《さんしゆうこが》の城主《じようしゆ》だったそうですが、織田信長《おだのぶなが》との戦《たたか》いに負けて、はるばる、奥州《おうしゆう》へ落ちのび、ここに住むようになったのです。
ある日のこと、たくさんの牛を、牧場《まきば》にはなしていますと、ふいに、大きなワシが、空からおりてきて、子牛をさらって、飛んでいきました。主人は、おこって、
「どうしても、あのワシを、つかまえてやらなくちゃ。」
そういって、弓矢《ゆみや》をとり、牛の皮をかぶり、牧場の草の中にうずくまって、ワシのくるのを待っていました。一日、二日、三日、四日、とうとう、六日も、待ったのです。そのうち、心もからだもつかれて、つい、とろとろと、ねむってしまいました。
すると、フワッと、からだがういたように感じて、はっと、目をあけてみますと、大きなワシが、主人をむんずとひっさげて、もう、空の上を飛んでいました。主人は、今となっては、どうにもなりません。一生けんめい、からだをちぢめ、息《いき》をころして、ワシのするとおりになっていました。
ワシは、遠くの海の上を、何日も何日も、飛んでいきました。そして、ある日、どことも知れない島の、大きな杉の木のてっぺんにある巣《す》の中に、主人をおろしました。ワシは、それからまた、どこともなく、飛んでいってしまいました。
主人は、ワシの巣の中にいて、なんとかして助かりたいものと、あたりを見まわしました。見ると、巣の中に、たくさんの鳥の羽《はね》が、つみかさねられていました。きっと、ワシが、さらってきては食べた、ツルやガン、キジやトンビ、そういう鳥の羽なのでしょう。主人は、これらの羽の中から、長いのを拾い集めて、それで、なわをないはじめました。いく日かたって、そのなわのはしを、杉の木の枝《えだ》にくくりつけて、下へぶらさげました。やっと、それが、地につくまでになったのを見とどけますと、それをつたって下におりました。
地上におりて、さて、どうしたらいいか、木の根っこに腰《こし》をかけて、考えこんでいました。すると、そこへ、どこから来たのか、ひとりのしらがのおじいさんが、ヒョコヒョコとやってきて、
「おまえは、どこから、ここへ来たのか。なんのために、やってきたのか。難船《なんせん》でもしたのか。そうでなくては、なかなか、ここは、こられるところではない。」
そう、いいました。
そこで、主人が、
「ここは、いったい、どこなのですか。」
そう、聞きますと、
「ここは、玄海灘《げんかいなだ》という荒海《あらうみ》の中の、はなれ小島だ。」
と、老人が、教えてくれました。主人は、おどろいて、いままでの話を、こまごまとかたって聞かせました。
「どうかして、故郷《こきよう》に帰りたいが、玄海灘といわれては、奥州までは三百里(一二〇〇キロメートル)、とても、帰れるのぞみはない。」
そういって、なげきました。
すると、老人は、
「おまえが、そんなに故郷に帰りたいのなら、おれの背中《せなか》に乗りなさい。そうしたら、かならず、故郷につれてってやる。」
そう、いうのでした。
主人は、ふしぎに思って、
「おまえさんは、いったい、どういう人ですか。なんで、このおれを、故郷まで背負《せお》って行かれるのですか。」
そうききますと、老人は、
「おれは、じつは、サケの大助である。年ねん、十月二十日には、おまえの故郷、今泉川《いまいずみがわ》の上流の角枯淵《つのがれぶち》へ行って、卵《たまご》をうむのは、じつは、このおれだ。」
と、こたえました。
主人は、事情がわかったのですが、それでも、おそるおそる、老人の背中にまたがりました。すると、いつのまにか、もう、自分の故郷の今泉川に帰っていました。主人は、老人に、あつくあつくお礼をいって、やっと、わが家に帰りました。
今でも、十月二十日には、おみきとそなえ物とを、今泉川のサケの漁場《りようば》へおくり、吉例《きちれい》によって、サケのおまつりをすることになっております。
これが、そのおまつりのいわれです。