平原の村に一本の松の樹が生えていた。
古い松の樹で、幹には荒いウロコのような皮の上に乾いた苔《こけ》が生えていた。頂は高い秋の空の上に聳《そび》え、幽《かす》かな風にも針のようなその葉を震わせて、低い厳かな音を立てていた。秋の白い雲はその上を飄々《ひようひよう》として飛んでいた。
松の根許《ねもと》は樽《たる》のように太くて、しっかり土の中に入っていた。夏にはその土から蝉《せみ》の幼虫が穴を開けて出て来て、幹に登り殻をぬぎ棄てた。秋になってもその干枯《ひから》びた蝉殻は荒い樹の皮の処々《ところどころ》に残っていた。
ある秋の午後、一人の子供がその幹に片手をかけ、グルグル樹の周囲を廻っていた。子供は学校の帰りで、身体《からだ》の半分もあるようなカバンを背中に掛けていた。廻る度にそのカバンの中で弁当箱がカチャカチャと音を立てた。それでも子供はわざと音を立てるように、ずり下った袴《はかま》の裾を蹴《け》って、サッサと歩き続けていた。
子供は正太。正太の家は直ぐ彼方にあった。クルリと樹を一廻りすると、彼方に見えるのが正太の家だ。白壁の土蔵、茅葺《かやぶき》の大きな屋根、築地《ついじ》の塀《へい》に、屋根のある門。クルリと廻ると、正太の家。正太はそれが面白い。隠れたと思うと、また出て来る家。自分の家、母の家、弟の家、お爺さんの家。クルリ、クルリ、隠れたと思うとまた出て来る家、正太の家、正太の家。何度廻っても面白い。次から次へ、何度でも出て来る家、正太の家。
子供は正太。正太の家は直ぐ彼方にあった。クルリと樹を一廻りすると、彼方に見えるのが正太の家だ。白壁の土蔵、茅葺《かやぶき》の大きな屋根、築地《ついじ》の塀《へい》に、屋根のある門。クルリと廻ると、正太の家。正太はそれが面白い。隠れたと思うと、また出て来る家。自分の家、母の家、弟の家、お爺さんの家。クルリ、クルリ、隠れたと思うとまた出て来る家、正太の家、正太の家。何度廻っても面白い。次から次へ、何度でも出て来る家、正太の家。
先刻《さつき》まで正太は学校にいた。学校の時間は永かった。何時《いつ》も、何時も、いや、生れるときからこうして家を離れて、永年教室にいるような気がして来た。こんなにして家を離れて学校にいる間に、お爺さんもお母さんも、歳をとって、白髪《しらが》になって死んでしまうのではあるまいか。教室の午後正太のいつもする心配である。今日もまた、その心配が始まった。
これからいつ迄《まで》たったら家に帰れるのだろう。正太はもう帰れないのかもしれない。だって、机の上に窓からさし込んでいる日影は光も弱く、斜めになって机の端に一寸《ちよつと》ばかりさしているきりだ。もう日の暮れるのも近い。
習字の時間だが、書いても書いても鈴が鳴らないのだ。窓の外の空は蒼《あお》く遠く澄み渡り、その空の遠い処、玩具《おもちや》のように小さく空が地上に近づいている処、そこに正太の村が小さく可愛ゆく浮び上って見えるではないか。遠くからは竹藪《たけやぶ》に埋まって見える村。その屋根の上に、空際に高々とさしあげられた柿の枝に粒々になって見える柿の実の数々。また、その空に砂を投げたようにバラバラと小さく飛んでいる小鳥の群れ。
やがて、正太の心に一本の柿の樹が活動の大写しになって近づいて来た。曲りくねって高く空に跳ね上った枝の上に、テラテラ光る一つの柿の実がなっている。それを枝をゆりゆり一羽の鴉《からす》がつついている。鴉の嘴《くちばし》は馬鹿に大きい。枝が鴉の重みで大きくゆれると、鴉は黒い翼を拡げバサバサとそれを動かす。
コラッ
と、正太は呼んでみたい。そんなにハッキリと、眼の前に明るい空際に、鴉は浮んで見える。だが、樹の下には子供がいる。二人も三人も。彼等は長い棹《さお》をもってためつすがめつ葉蔭《はかげ》の柿を狙っている。そこへ一人の子供が走って来る。それは善太だ。善太は金輪を廻している。
シャンシャン、シャンシャン
金輪の音は今この教室で習字をしている正太の耳に響いて来る。善太は今柿の樹の周囲を廻っている。何度も何度も廻っている。金輪の輪は円くその線は鉛筆でひいた紙の上の筋のように細い。空中に消えそうにさえ思われる。だが、それを廻す善太の姿の快さ。
「あいつ金輪は上手だ。」
善太は村の道を走り出した。
「あいつ何処《どこ》へ行くんだろう。」
善太は道を遠くへ、金輪を廻して走り去った。小さくなるまで、家の蔭に隠れる迄、正太は善太の後姿を追いつづける。
友達は村でこんなに遊んでいるのに、先生は教壇の上で椅子に腰をかけて、何か小型の書を読んでいる。先生があんなにして書を読むので、尚さら時間が永くなるのだ。
「帰りたいなあ。」
先生の様子を眺めると、こんな言葉が正太の心を衝きあげて来た。そこで、正太は筆を投げすて、ゴシゴシと墨をとってすり出した。
「アッ、半鐘だ、火事だな。」
正太は耳の中でカンカンという音を聞いたように思って、この時墨の手をとめた。耳をすました。と、音は幽かに、そして遠く、やがて何処かへ薄れて消えた。それなのに今度は遠い空の下で火の見の上で黒い小さい半鐘がカンカンカンカンと物狂わしく暴れ出した。ああして半鐘は鳴っているのだ。キットああして鳴っているのだ。
煙!
正太は窓を見た。遠くにムクムクと白い煙が上っていた。
ウチだ。正太のウチだ。
正太は眼の前に真紅《まつか》な火を見た。それから、怒り、わめき、荒れ狂うているものが眼に映った。
ウチだ。
正太の家が燃えている。燃えながら家は怒っている。燃えながら、家は戦っている。火と、風と、煙と、炎と、火の渦巻と、煙の渦巻と。怒り、わめき、荒れ狂うて——。
ゴ——、ゴ——、ゴ——ッ
と、いう音を正太は耳にするように思った。だが、もう火事は止《や》んでいた。そこは早や焼跡だ。黒い黒い焼跡だ。方々にいぶっている灰。ただようている煙。ところで何とそこの明るくなったことだろう。窓が開いたように、明るい空虚が出来たのだ。風もそこを自由に吹いて行くだろう。
けれども、家がなくなったら、お母さんやお爺さんはどうするのだろう。今晩何処にねるのだろう。早く帰りたい。帰らなければ、みんなは何処かへ行ってしまう。そしたら正太には帰っても行く処がなくなるのだ。家には黒い灰と石ころだけが転がっている。みんなは正太が後から来ると思って行ってしまうのに違いない。だけど正太は火事の時に行く処を知らない。
あッ、そうだ。
正太は伯母さんの処へ行きさえすればいい。伯母さんは火事の時にみんなの行った処を教えてくれるに違いない。帰りを直ぐ伯母さんの方へ廻ればいい。
だけど、家はホントに焼けたのかしらん。村に帰って、家が焼けたか見なければなるまい。でも、伯母さんの内は遠いのだ。行く内に日が暮れる。村に帰っていては間に合わない。直ぐ行こうか直ぐ。が、伯母さんは、どうして来たと聞くだろう。
フト、正太はボンヤリして机に向いている自分に気がついて、また墨をとってすり出した。ゴシゴシ、ゴシゴシ。
学校はどうしてこんなに永いんだろう。日が暮れる迄、学校の鈴が鳴らなかったらどうしよう。それとも、もう直ぐ日が暮れるのではあるまいか。見れば、校庭に列んだポプラの葉がヒラヒラと吹く風に斜めの線を引いて飛んでいる。ポプラの樹は黒い影を長々と裾のように地上に引いて、その影と影の間には傾いた秋の日が斜めに明るくさしている。
先生はいつ迄もいつ迄も書を読んでいて、時間の来たのを知らないんだ。それとも、小使さんが鈴を鳴らすのを忘れているのか。いや! 鈴はもう先刻《さつき》鳴ったのだ。誰もそれに気がつかなかったのだ。そうだ! 先刻もう鈴は鳴った。早く手をあげて先生に知らせればよかった。
「先生——。」
正太は危うく手をあげようとした。だが、彼は躊躇《ちゆうちよ》した。
家が焼けたのなら、お母さんが呼びに来てくれればいいのに、いつもこんなことには気のつかないお母さんだ。今日もきっとお母さんは正太のことを忘れているのだ。
今は正太はお母さんに腹が立って来た。早く呼びに来てくれればいいのに、そうしないと、もう日は暮れてしまうのだ。伯母さんの内に行こうにも、暗くなったらあの大川の橋の処には追剥が出て来るのだ。あの墓のある丘の辺には人をばかす狐もいるんだ。
「早く早く、早く早く。」
正太はその時小便のはずんでいるのに気がついた。彼は一刻もじっと腰がかけていられないような気になった。ドンドンと|地蹈※[#「韋+備のつくり」]《じたたら》をふまないではいられない。
「先生——。」
彼はまた危うくあがりそうになった手を引っこめた。その時、ガヤガヤバタバタという音が学校中に湧《わ》き起った。正太は不思議そうに周囲を見廻した。みんな立上って、道具をしまって、カバンに入れている。何のことだ。時間は終ったのだ。さあ、早く帰ろう。正太も道具をカバンに入れ、カバンを肩にかけて立上る。みんなと出口で下駄を争う。ガヤガヤガヤガヤで校庭に列ぶ。礼をして別れる。
さあ、急がなくてはならない。彼には周囲にいる友達も、友達の声も解らなくて唯だ多勢のガヤガヤばかりが感じられる。彼は前のものに突き当り、横のものの中に割込み前へ前へと急《せ》き立てる。何しろ正太は小便がしたいのだ。それなのに、多勢は見るだろうし、からかうだろう。正太は逃げ遅れた鼠のように戸惑《とまど》いして、みんなの間をチョロチョロと駈けぬける。
こうして、やっと皆から少し離れた時、彼はずり落ちた袴を後に引きずって、大きな帽子をアミダにして、トット、トット、と走り出した。それから振返り振返り大分みんなから離れたのを知って、正太は堪《こら》えきれなくなって、道端の草に向いて前を拡げた。だが、余り大急ぎで前を拡げたので、小便が袴の裾にかかり、足の甲に飛び散った。足にかからせまいと、正太はそこで出来る限り大股《おおまた》に踏張って、前を一層引きあげて反り返った。その時、フト道の彼方を大急ぎにやって来る一人の大人が眼に映った。紺の襦袢《じゆばん》に、紺の股引《ももひき》、跣足《はだし》足袋《たび》で、帽子も冠《かぶ》らない。その人は百姓の田圃《たんぼ》姿で急いでいる。
正太を迎えにやって来たのではあるまいか。正太はその方に一層顔をねじ向ける。
オヤ、善太とこのおじさんだ。じゃ、きっと正太を迎えに来てくれたんだ。
正太は益々顔をねじ向ける。ところが余りその方に身体をねじったので、倒れそうになってヒョロヒョロした。だが、おじさんは正太には眼もくれない。フーフー云い云い行き過ぎる。
聞いてみようか。正太は僕だと云ってみようか。
正太は何もよう云わない。ただ、その方に顔をねじ向け突き出し、見てもらおう解ってもらおうと、おじさんを注視する。おじさんの方では、正太などには眼もくれない。何しろ先を急ぐと見えて、正太の側は急ぎ足で通り、通り過ぎると走り出した。正太はおじさんを呼び止める方も知らず、たよりない気持で、小便を終ったまま、一寸《ちよつと》立っておじさんを見送っていた。が、また思い出した。家は焼けたのだ。そこで、小便にぬれた袴をつまみあげ、村をさして走り出した。正太の身体の半分もあるようなカバンは、一足ごとに彼の背中をどやし付け、中の弁当箱がカチャカチャ鳴った。そこで正太は息が迫った。息が迫ると、悲しくなった。お母さんが迎えに来てくれればいいのに、来ないばかりに袴がぬれた。
松の樹の手前まで来た時、正太はソロソロと歩き出した。何しろ、直ぐもう家が、焼けた正太の家が見えるのだ。正太は松の樹の手前の家の角で立止った。その角から少し頭を突き出した。
はて、何のことだ。
松の樹はそこに立っている。彼方には白壁の土蔵だ。茅葺の大屋根だ。見なれた正太のなつかしい家だ。何の変りもありはしない。そこで、正太は家の角から走り出て、松の樹に片手をかけると、クルリ、クルリ、と廻り始めた。一廻りしては彼方を見る。一廻りしては彼方を見る。そこには明るい正太の家。クルリ、クルリ、正太は廻る。正太は廻る。
フト、この時正太は後ろに人の気勢《きせい》を感じて、振向いた。正太は何しろはにかみやだ。こんな処を人に見られては恥ずかしい。だが、後ろに立っていたのはお母さんだ。ニコニコ笑ったお母さんだ。お母さんだって、正太にはやはり恥ずかしい。そこで、正太はスタスタと駈け出し、母親の膝《ひざ》の処にとり縋《すが》った。
「お母さん——。」
「お帰り。」
「何処へ行ったん。」
「西の畑へ。」
「何をとりにな。」
「お芋をとりに。」
「芋? さつま芋じゃなあ。」
「いんや、里芋。」
「里芋? さつま芋の方がええわ。」
「そねえな事を云うて、さつま芋はもう無《の》うなったぞ。」
「無《ね》え? 無うなったんなら、何かつかあさい。」
「何か云うて、何がありぁ。」
「それでも、さつま芋がないんじぁもの、何かつかあさい。」
「それなら、裏の柿をおとり。」
「柿は駄目、他の何か。」
「他にと——他には何もない。」
母親はこう云うと、正太の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「何か、何か、何かくれにゃ動かん。」
正太は今は全く甘えて、母親の片手に両手でもってブラ下った。
「さ、帰ろう帰ろう。こんなにしていては、晩の御飯が遅くなる。」
「ウンニャ、さつま芋が無いから駄目。」
正太はカブリを振りつづける。母親はもて余す。が、正太は何も欲しい訳ではない。ただ先刻《さつき》恥ずかしかったばかりに、いや、正太の家が焼けていなかったばかりに、こうして母親に甘えなければならなかった。
「そんなにブラ下ると、お母さんは転げてしまうぞ。」
「ええ! 転げてもええ。さつま芋をくれんのだもの。」
「アッ、正太、お爺さんが呼んどられる。な、それ、正太、正太。」
正太が立つと、母親はニコニコして歩き出した。
「嘘だ嘘だ、お母さんは嘘をついたな。」
正太は母親を追いかけ、またその手にブラ下る。
「まあ——転げるが転げるが。」
母親はそう云い云い、身体を円めてブラ下る正太を引いて、家の門を入って行く。
これからいつ迄《まで》たったら家に帰れるのだろう。正太はもう帰れないのかもしれない。だって、机の上に窓からさし込んでいる日影は光も弱く、斜めになって机の端に一寸《ちよつと》ばかりさしているきりだ。もう日の暮れるのも近い。
習字の時間だが、書いても書いても鈴が鳴らないのだ。窓の外の空は蒼《あお》く遠く澄み渡り、その空の遠い処、玩具《おもちや》のように小さく空が地上に近づいている処、そこに正太の村が小さく可愛ゆく浮び上って見えるではないか。遠くからは竹藪《たけやぶ》に埋まって見える村。その屋根の上に、空際に高々とさしあげられた柿の枝に粒々になって見える柿の実の数々。また、その空に砂を投げたようにバラバラと小さく飛んでいる小鳥の群れ。
やがて、正太の心に一本の柿の樹が活動の大写しになって近づいて来た。曲りくねって高く空に跳ね上った枝の上に、テラテラ光る一つの柿の実がなっている。それを枝をゆりゆり一羽の鴉《からす》がつついている。鴉の嘴《くちばし》は馬鹿に大きい。枝が鴉の重みで大きくゆれると、鴉は黒い翼を拡げバサバサとそれを動かす。
コラッ
と、正太は呼んでみたい。そんなにハッキリと、眼の前に明るい空際に、鴉は浮んで見える。だが、樹の下には子供がいる。二人も三人も。彼等は長い棹《さお》をもってためつすがめつ葉蔭《はかげ》の柿を狙っている。そこへ一人の子供が走って来る。それは善太だ。善太は金輪を廻している。
シャンシャン、シャンシャン
金輪の音は今この教室で習字をしている正太の耳に響いて来る。善太は今柿の樹の周囲を廻っている。何度も何度も廻っている。金輪の輪は円くその線は鉛筆でひいた紙の上の筋のように細い。空中に消えそうにさえ思われる。だが、それを廻す善太の姿の快さ。
「あいつ金輪は上手だ。」
善太は村の道を走り出した。
「あいつ何処《どこ》へ行くんだろう。」
善太は道を遠くへ、金輪を廻して走り去った。小さくなるまで、家の蔭に隠れる迄、正太は善太の後姿を追いつづける。
友達は村でこんなに遊んでいるのに、先生は教壇の上で椅子に腰をかけて、何か小型の書を読んでいる。先生があんなにして書を読むので、尚さら時間が永くなるのだ。
「帰りたいなあ。」
先生の様子を眺めると、こんな言葉が正太の心を衝きあげて来た。そこで、正太は筆を投げすて、ゴシゴシと墨をとってすり出した。
「アッ、半鐘だ、火事だな。」
正太は耳の中でカンカンという音を聞いたように思って、この時墨の手をとめた。耳をすました。と、音は幽かに、そして遠く、やがて何処かへ薄れて消えた。それなのに今度は遠い空の下で火の見の上で黒い小さい半鐘がカンカンカンカンと物狂わしく暴れ出した。ああして半鐘は鳴っているのだ。キットああして鳴っているのだ。
煙!
正太は窓を見た。遠くにムクムクと白い煙が上っていた。
ウチだ。正太のウチだ。
正太は眼の前に真紅《まつか》な火を見た。それから、怒り、わめき、荒れ狂うているものが眼に映った。
ウチだ。
正太の家が燃えている。燃えながら家は怒っている。燃えながら、家は戦っている。火と、風と、煙と、炎と、火の渦巻と、煙の渦巻と。怒り、わめき、荒れ狂うて——。
ゴ——、ゴ——、ゴ——ッ
と、いう音を正太は耳にするように思った。だが、もう火事は止《や》んでいた。そこは早や焼跡だ。黒い黒い焼跡だ。方々にいぶっている灰。ただようている煙。ところで何とそこの明るくなったことだろう。窓が開いたように、明るい空虚が出来たのだ。風もそこを自由に吹いて行くだろう。
けれども、家がなくなったら、お母さんやお爺さんはどうするのだろう。今晩何処にねるのだろう。早く帰りたい。帰らなければ、みんなは何処かへ行ってしまう。そしたら正太には帰っても行く処がなくなるのだ。家には黒い灰と石ころだけが転がっている。みんなは正太が後から来ると思って行ってしまうのに違いない。だけど正太は火事の時に行く処を知らない。
あッ、そうだ。
正太は伯母さんの処へ行きさえすればいい。伯母さんは火事の時にみんなの行った処を教えてくれるに違いない。帰りを直ぐ伯母さんの方へ廻ればいい。
だけど、家はホントに焼けたのかしらん。村に帰って、家が焼けたか見なければなるまい。でも、伯母さんの内は遠いのだ。行く内に日が暮れる。村に帰っていては間に合わない。直ぐ行こうか直ぐ。が、伯母さんは、どうして来たと聞くだろう。
フト、正太はボンヤリして机に向いている自分に気がついて、また墨をとってすり出した。ゴシゴシ、ゴシゴシ。
学校はどうしてこんなに永いんだろう。日が暮れる迄、学校の鈴が鳴らなかったらどうしよう。それとも、もう直ぐ日が暮れるのではあるまいか。見れば、校庭に列んだポプラの葉がヒラヒラと吹く風に斜めの線を引いて飛んでいる。ポプラの樹は黒い影を長々と裾のように地上に引いて、その影と影の間には傾いた秋の日が斜めに明るくさしている。
先生はいつ迄もいつ迄も書を読んでいて、時間の来たのを知らないんだ。それとも、小使さんが鈴を鳴らすのを忘れているのか。いや! 鈴はもう先刻《さつき》鳴ったのだ。誰もそれに気がつかなかったのだ。そうだ! 先刻もう鈴は鳴った。早く手をあげて先生に知らせればよかった。
「先生——。」
正太は危うく手をあげようとした。だが、彼は躊躇《ちゆうちよ》した。
家が焼けたのなら、お母さんが呼びに来てくれればいいのに、いつもこんなことには気のつかないお母さんだ。今日もきっとお母さんは正太のことを忘れているのだ。
今は正太はお母さんに腹が立って来た。早く呼びに来てくれればいいのに、そうしないと、もう日は暮れてしまうのだ。伯母さんの内に行こうにも、暗くなったらあの大川の橋の処には追剥が出て来るのだ。あの墓のある丘の辺には人をばかす狐もいるんだ。
「早く早く、早く早く。」
正太はその時小便のはずんでいるのに気がついた。彼は一刻もじっと腰がかけていられないような気になった。ドンドンと|地蹈※[#「韋+備のつくり」]《じたたら》をふまないではいられない。
「先生——。」
彼はまた危うくあがりそうになった手を引っこめた。その時、ガヤガヤバタバタという音が学校中に湧《わ》き起った。正太は不思議そうに周囲を見廻した。みんな立上って、道具をしまって、カバンに入れている。何のことだ。時間は終ったのだ。さあ、早く帰ろう。正太も道具をカバンに入れ、カバンを肩にかけて立上る。みんなと出口で下駄を争う。ガヤガヤガヤガヤで校庭に列ぶ。礼をして別れる。
さあ、急がなくてはならない。彼には周囲にいる友達も、友達の声も解らなくて唯だ多勢のガヤガヤばかりが感じられる。彼は前のものに突き当り、横のものの中に割込み前へ前へと急《せ》き立てる。何しろ正太は小便がしたいのだ。それなのに、多勢は見るだろうし、からかうだろう。正太は逃げ遅れた鼠のように戸惑《とまど》いして、みんなの間をチョロチョロと駈けぬける。
こうして、やっと皆から少し離れた時、彼はずり落ちた袴を後に引きずって、大きな帽子をアミダにして、トット、トット、と走り出した。それから振返り振返り大分みんなから離れたのを知って、正太は堪《こら》えきれなくなって、道端の草に向いて前を拡げた。だが、余り大急ぎで前を拡げたので、小便が袴の裾にかかり、足の甲に飛び散った。足にかからせまいと、正太はそこで出来る限り大股《おおまた》に踏張って、前を一層引きあげて反り返った。その時、フト道の彼方を大急ぎにやって来る一人の大人が眼に映った。紺の襦袢《じゆばん》に、紺の股引《ももひき》、跣足《はだし》足袋《たび》で、帽子も冠《かぶ》らない。その人は百姓の田圃《たんぼ》姿で急いでいる。
正太を迎えにやって来たのではあるまいか。正太はその方に一層顔をねじ向ける。
オヤ、善太とこのおじさんだ。じゃ、きっと正太を迎えに来てくれたんだ。
正太は益々顔をねじ向ける。ところが余りその方に身体をねじったので、倒れそうになってヒョロヒョロした。だが、おじさんは正太には眼もくれない。フーフー云い云い行き過ぎる。
聞いてみようか。正太は僕だと云ってみようか。
正太は何もよう云わない。ただ、その方に顔をねじ向け突き出し、見てもらおう解ってもらおうと、おじさんを注視する。おじさんの方では、正太などには眼もくれない。何しろ先を急ぐと見えて、正太の側は急ぎ足で通り、通り過ぎると走り出した。正太はおじさんを呼び止める方も知らず、たよりない気持で、小便を終ったまま、一寸《ちよつと》立っておじさんを見送っていた。が、また思い出した。家は焼けたのだ。そこで、小便にぬれた袴をつまみあげ、村をさして走り出した。正太の身体の半分もあるようなカバンは、一足ごとに彼の背中をどやし付け、中の弁当箱がカチャカチャ鳴った。そこで正太は息が迫った。息が迫ると、悲しくなった。お母さんが迎えに来てくれればいいのに、来ないばかりに袴がぬれた。
松の樹の手前まで来た時、正太はソロソロと歩き出した。何しろ、直ぐもう家が、焼けた正太の家が見えるのだ。正太は松の樹の手前の家の角で立止った。その角から少し頭を突き出した。
はて、何のことだ。
松の樹はそこに立っている。彼方には白壁の土蔵だ。茅葺の大屋根だ。見なれた正太のなつかしい家だ。何の変りもありはしない。そこで、正太は家の角から走り出て、松の樹に片手をかけると、クルリ、クルリ、と廻り始めた。一廻りしては彼方を見る。一廻りしては彼方を見る。そこには明るい正太の家。クルリ、クルリ、正太は廻る。正太は廻る。
フト、この時正太は後ろに人の気勢《きせい》を感じて、振向いた。正太は何しろはにかみやだ。こんな処を人に見られては恥ずかしい。だが、後ろに立っていたのはお母さんだ。ニコニコ笑ったお母さんだ。お母さんだって、正太にはやはり恥ずかしい。そこで、正太はスタスタと駈け出し、母親の膝《ひざ》の処にとり縋《すが》った。
「お母さん——。」
「お帰り。」
「何処へ行ったん。」
「西の畑へ。」
「何をとりにな。」
「お芋をとりに。」
「芋? さつま芋じゃなあ。」
「いんや、里芋。」
「里芋? さつま芋の方がええわ。」
「そねえな事を云うて、さつま芋はもう無《の》うなったぞ。」
「無《ね》え? 無うなったんなら、何かつかあさい。」
「何か云うて、何がありぁ。」
「それでも、さつま芋がないんじぁもの、何かつかあさい。」
「それなら、裏の柿をおとり。」
「柿は駄目、他の何か。」
「他にと——他には何もない。」
母親はこう云うと、正太の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「何か、何か、何かくれにゃ動かん。」
正太は今は全く甘えて、母親の片手に両手でもってブラ下った。
「さ、帰ろう帰ろう。こんなにしていては、晩の御飯が遅くなる。」
「ウンニャ、さつま芋が無いから駄目。」
正太はカブリを振りつづける。母親はもて余す。が、正太は何も欲しい訳ではない。ただ先刻《さつき》恥ずかしかったばかりに、いや、正太の家が焼けていなかったばかりに、こうして母親に甘えなければならなかった。
「そんなにブラ下ると、お母さんは転げてしまうぞ。」
「ええ! 転げてもええ。さつま芋をくれんのだもの。」
「アッ、正太、お爺さんが呼んどられる。な、それ、正太、正太。」
正太が立つと、母親はニコニコして歩き出した。
「嘘だ嘘だ、お母さんは嘘をついたな。」
正太は母親を追いかけ、またその手にブラ下る。
「まあ——転げるが転げるが。」
母親はそう云い云い、身体を円めてブラ下る正太を引いて、家の門を入って行く。
それから一月とたたないある日の午後、正太の母はその松の樹の処にやって来てハッとして立ちすくんだ。
クルリ、クルリ
正太が松の樹を廻っている。片手を樽のような樹の幹にかけて、小さいあの正太が。だが、今ではもうこの世にいない筈であるあの正太が。
母親は立ちすくんで、その姿をじっと眺めた。だが、眺めている内に、その姿は煙のように消えてしまった。後には荒いウロコのような樹の皮の処々に、干乾びた蝉の殻が幾つも幾つもくっ付いていた。彼女は暫《しばら》く佇《たたず》んで、透明な秋の空気の中に立っているその松の樹の幹を眺め入った。しかしもう正太の姿は現われなかった。大気が移りつつあるのか、冷たい風が吹くともなく、松の幹を吹いていた。その時その松の幹が、母親に何と淋しく味気なく見えたことであったろう。正太はいない。いなくなったのだ。そこには干乾びた幾つかの蝉殻ばかり。
それから何日かたち。
それからまた幾月かたち。
母親は樹の周囲を廻っている正太の姿を見たのである。
クルリ、クルリ、と、小さい正太の姿。
クルリ、クルリ
正太が松の樹を廻っている。片手を樽のような樹の幹にかけて、小さいあの正太が。だが、今ではもうこの世にいない筈であるあの正太が。
母親は立ちすくんで、その姿をじっと眺めた。だが、眺めている内に、その姿は煙のように消えてしまった。後には荒いウロコのような樹の皮の処々に、干乾びた蝉の殻が幾つも幾つもくっ付いていた。彼女は暫《しばら》く佇《たたず》んで、透明な秋の空気の中に立っているその松の樹の幹を眺め入った。しかしもう正太の姿は現われなかった。大気が移りつつあるのか、冷たい風が吹くともなく、松の幹を吹いていた。その時その松の幹が、母親に何と淋しく味気なく見えたことであったろう。正太はいない。いなくなったのだ。そこには干乾びた幾つかの蝉殻ばかり。
それから何日かたち。
それからまた幾月かたち。
母親は樹の周囲を廻っている正太の姿を見たのである。
クルリ、クルリ、と、小さい正太の姿。