正太のお母さんは今日は朝からお洗濯だ。椎《しい》の樹の下で、若葉を翻《ひるがえ》す風の音を聞きながら、大きな盥《たらい》に向いてお洗濯だ。葉蔭をもれる春の日が、お母さんの耳の上や、盥の隅のシャボンの泡《あわ》や、後ろに垂れたメリンスの帯の上などに、黄いろい縞を作ってチラチラしていた。
その時フト、お母さんにシャンシャンと鳴る金輪の音が聞えて来た。
「正太はまあ今日も朝から金輪廻し、何処《どこ》を廻して駈けていることやら。」
お母さんはこう思った。が、実際正太は金輪を廻すのは上手だった。村の道という道は、どんなに細い処であろうと、どんなに曲りくねった処であろうと、正太の金輪を廻して駈けて行く得意げな小さい姿の見られない処はなかった。
シャンシャン、シャンシャン
また金輪の音が聞えて来た。正太が門から金輪を廻して入って来た。
「お母さん、もう御飯かな。」
駈けながら正太は大きな声。
「何を云うてなら。」
お母さんは今忙しい。お母さんの手許《てもと》でシャボンの泡が四方に散っている。だから正太の方は振向きもしないで小さな声。
「せえでも、お腹がすいたんで。」
「すいても、御飯はまだなかなか。」
この間に、正太は金輪を廻して、椎の樹とお母さんの周囲を一廻り。金輪の音がシャンシャンシャン。
「御飯のおかずはな?」
「何にしょうか。あげにお菜でも煮とこうか。」
「あげ? 魚の方がええなあ。」
正太はこう云いながら、またもお母さんの周囲を金輪で一廻り。金輪の音は鳴りつづける。
「魚は晩、お父さんと一緒。」
お母さんがこう云うと、俄《にわ》かに金輪の音が高まった。
「魚は晩、お父さんと一緒。」
こう繰返して、正太はもう門の方に駈けていた。彼はこれから村のどこへ駈けて行こうとするのか。しかし、何しろ正太は金輪は上手だ。村のどんな小道であろうと駈けて行くその小さな姿の見られない処はなかった。
午《ひる》すぎお母さんは手拭を姉さん冠《かぶ》り、樹の下に張板を立てて、お張ものに忙しい。正太は座敷で絵雑誌を前に腹這《はらば》いになっていた。友達のない午後、お母さんの忙しい午後は永かった。先生のお父さんは中々《なかなか》学校から帰って来なかった。
「正太、金輪はもう止《や》めたんか。」
退屈そうな正太を見て、お母さんが話しかけた。でも、お母さんは忙しい。湯気の立上る張板を白い手で撫《な》でながら、正太の方は見もしない。その時正太は顔を上げお母さんの方に向いたのだが、それから庭の隅の若葉の鮮やかな一本の柿の樹の方に眼をやった。そこには葉隠れに正太の金輪が懸っている。村を廻して歩いたあの金輪。今朝門を入ると、得意になって上に投げあげたそれが、今若葉の間に円をなして懸っていた。正太はそれを見ると、黙って頭を垂れた。だが、直ぐ、
「オット、ええことがあったぞ。」
正太は飛び起きた。もう金輪なぞどうでもいい。やがて、座敷の奥から下げ出たのは、布で作った一つの人形。パッチリした眼に、四つの手足、人形の歳はいま三つか四つ。彼は弟のように正太に片手をとられ、他の手足を下にブラ下げてやって来た。だが、縁側までやって来ると、正太はその手をもって、人形を椎の樹目がけて投げ飛ばした。人形は頭と足とで、クルクル廻りながら、樹の下の土、いや、しゃがんでるお母さんの尻の下の方に行って、大の字なりに寝ころんだ。
「よしッ。」
正太はこれを見ると、直ぐ下駄をはいて駈け出した。何さま永い午後である。それにお母さんは忙しい。正太だってあばれないではいられない。足をもって、人形をお母さんの尻の下から引出すと、こん度は空に向けて、ピョ——ンと高く投げあげた。人形はやはり頭と足とでクルクル舞いながら飛んで行ったが、落ちる時には頭を下にしてやって来たのか、見上げる正太の前に、椎の樹の枝の端っこに、片足をかけてブラ下っていた。
「コラ、落ちい。」
正太は短い棒切れをもって来て、両手を下げている人形の頭を力一杯|撲《なぐ》りつけた。ボテッという音と共に、人形は土の上に落ちて来た。
「まあ、可哀そうに。」
お母さんは云うのに違いないのだけれども、いや、正太もそう云ってもらいたいのだけれども、何分お母さんは忙しい。
「よしッ。」
正太は今得意だ。人形の撲られてボテッというのが気に入った。そこで人形の片足をもって、また樹の下枝にブラ下げ、ボールを打つ選手のような形をして、短い棒を力一杯振廻した。思った通りにまたボテッ——。こん度は人形は余り激しく撲られて、廻る余裕もなく逆立ちをした身体《からだ》をそのまま、両手を垂れた身体をそのまま、ス——ッと空中を飛行して、彼方の塀《へい》に行って身体を打《ぶ》ッ付けた。そしてまた音がボテッ——。正太は益々得意である。大急ぎでそこに駈けつけ、立っている棒の上に、こん度は人形を腹這いに載せた。人形の手足が四つダラリと下に垂れ下った。
「飛べえ!」
棒を振る。ボテッと音がする。人形が飛ぶ。だが、こん度は四這いの飛行だ。そして彼方の納屋の壁に行って頭を打ッつける。こうして正太は人形を追いかけ、あちらに走りこちらに走り何処でも人形を撲りつけた。何さま永い午後で、しかもお母さんは正太の勇ましい姿を見てくれないのだ。正太は暴れないではいられない。だが、実を云えば、正太ももう人形に飽きた。
「お母さん、何ぞつかあさい。」
お母さんの処へ行って、肩に手をかける。
「何もないのお。」
お母さんは気のぬけた返事だ。と——。
「そうだッ。」
もう、正太はいいことを思いついた。三輪車に乗ろう。そこでこの時足許に転がっていた人形を彼方に蹴《け》り飛ばして走り出した。人形は土の上を滑って、座敷の前で二三度コロコロして、それから手足を拡げて、大の字なりに寝ころんだ。彼はやはり子供らしく、パッチリ眼を開いて、お日様を仰いでいた。正太に撲られたことなど、もうスッカリ忘れていた。自分でも正太の弟だと思っているのかもしれない。「ピリピリッ、公園行き、公園行きでありまあす。」
だが、もうこの時正太はこの声と共に納屋の方から三輪車に乗って現われ出た。座敷の前を通って、椎の樹の下のお母さんを廻って、後ろに三筋の跡をつけて、また納屋の方に帰って来る。これが公園行きの軌道である。三輪車も正太は上手だ。足を繰ることが誠に速い。だが、不幸なことに、人形は公園行きの軌道の上に寝ていた。そしてお日様を眺めて動こうとしなかった。その上に、正太は今は人形の首を轢《ひ》くなど平気の平左に考えていた。それどころか、却《かえ》ってそれが面白い。それだけでさえ、彼の足はペタルの上を躍るように踏みつける。では仕方がない。車輪は嫌でも人形の首の上に上らなければなるまい。ギッチリコ、車輪は首を轢いてしまった。帰りも同じに、ギッチリコ、しかしこん度は足の方だ。車輪はこんなに思っていてもしかし人形の方は楽天家だ。それとも無邪気で痛みを知らないのか。首を縮めようともしないで円い眼をパッチリ開けて、やって来る車輪をほほ笑みかけて迎えている。それどころか、おへそを空に向けてボッテリしたその腹を車輪の過ぎるに任せていた。
「ピリピリッ、停車場行き停車場行きでありまあす」
三輪車は後ろに三筋の跡を引いて庭を目まぐるしく往来する。その度に人形を一度ずつ轢いて行く。人形は何度轢かれてもそのあどけない表情を変えなかったのだけれども、余りに激しい三輪車の往来に、到頭彼も首をダラリと、土の上に垂れてしまった。首と体とを結びつけていた糸が解けたのだ。それから体と足とをつないでいた糸もゆるんで来た。そして人形は遂に敗残者となって疲れて死にかかって、力なく土の上に自分の身体を投げ棄てていた。
何十回となく公園行き停車場行きを繰返した正太に、また午後の日が永くなった。そこで三輪車を椎の樹の下に乗りつける。
「お母さん、お父さんはまだかな。」
「まだまだ。」
「それでも善さんは帰ったぞな。」
「善さんは生徒じぁもの。」
「先生の方が遅いんかな。」
「そうとも。」
「フウ——ン。」
仕方がない。午後が永いから、こん度は三輪車は最大急行だ。無茶苦茶乗りだ。
「ピ——ピ——ッ、ピ——ピ——ッ。」
だが、この最大急行も二三回で直ぐ椎の樹の下に停車する。
「お母さん、もう何ぞ貰うても宜《よ》かろうがな。」
「————」
「なあ、お母さんッ。」
「そうじぁなあ。」
「お母さん。」
「そうじぁなあ。」
仕方がない。正太はまた最大急行だ。
「ピ——ピ——ッ、ピ——ピ——ッ。」
二三回でまた椎の樹の下の停車。
「お母さんッ。」
「————」
「何ぞッ。」
「へいへい。」
「早くッ。」
「よしよし。」
——これでもききめのないのを知ると、正太はヒドク考え込んで、三輪車を下りて、人形を拾いあげた。そして、縁側に腰をかけて、静かに人形を弄《いじ》くり廻した。垂れ下った頭をくっ付けてみたり、二本の足をプラプラ振らせてみたり、それからまみれている土を叩いたり吹いたり、自分の着物にこすり付けてみたり。その末糸のついた針をもって来て、首と足とを縫いつけにかかった。もとより正太に縫えよう筈がなかった。縫えないのが解ると、また大きな声をあげた。今度は少し悲しみと怒りの混った声を。
「お母さんッ。」
「正太、金輪はもう止《や》めたんか。」
退屈そうな正太を見て、お母さんが話しかけた。でも、お母さんは忙しい。湯気の立上る張板を白い手で撫《な》でながら、正太の方は見もしない。その時正太は顔を上げお母さんの方に向いたのだが、それから庭の隅の若葉の鮮やかな一本の柿の樹の方に眼をやった。そこには葉隠れに正太の金輪が懸っている。村を廻して歩いたあの金輪。今朝門を入ると、得意になって上に投げあげたそれが、今若葉の間に円をなして懸っていた。正太はそれを見ると、黙って頭を垂れた。だが、直ぐ、
「オット、ええことがあったぞ。」
正太は飛び起きた。もう金輪なぞどうでもいい。やがて、座敷の奥から下げ出たのは、布で作った一つの人形。パッチリした眼に、四つの手足、人形の歳はいま三つか四つ。彼は弟のように正太に片手をとられ、他の手足を下にブラ下げてやって来た。だが、縁側までやって来ると、正太はその手をもって、人形を椎の樹目がけて投げ飛ばした。人形は頭と足とで、クルクル廻りながら、樹の下の土、いや、しゃがんでるお母さんの尻の下の方に行って、大の字なりに寝ころんだ。
「よしッ。」
正太はこれを見ると、直ぐ下駄をはいて駈け出した。何さま永い午後である。それにお母さんは忙しい。正太だってあばれないではいられない。足をもって、人形をお母さんの尻の下から引出すと、こん度は空に向けて、ピョ——ンと高く投げあげた。人形はやはり頭と足とでクルクル舞いながら飛んで行ったが、落ちる時には頭を下にしてやって来たのか、見上げる正太の前に、椎の樹の枝の端っこに、片足をかけてブラ下っていた。
「コラ、落ちい。」
正太は短い棒切れをもって来て、両手を下げている人形の頭を力一杯|撲《なぐ》りつけた。ボテッという音と共に、人形は土の上に落ちて来た。
「まあ、可哀そうに。」
お母さんは云うのに違いないのだけれども、いや、正太もそう云ってもらいたいのだけれども、何分お母さんは忙しい。
「よしッ。」
正太は今得意だ。人形の撲られてボテッというのが気に入った。そこで人形の片足をもって、また樹の下枝にブラ下げ、ボールを打つ選手のような形をして、短い棒を力一杯振廻した。思った通りにまたボテッ——。こん度は人形は余り激しく撲られて、廻る余裕もなく逆立ちをした身体《からだ》をそのまま、両手を垂れた身体をそのまま、ス——ッと空中を飛行して、彼方の塀《へい》に行って身体を打《ぶ》ッ付けた。そしてまた音がボテッ——。正太は益々得意である。大急ぎでそこに駈けつけ、立っている棒の上に、こん度は人形を腹這いに載せた。人形の手足が四つダラリと下に垂れ下った。
「飛べえ!」
棒を振る。ボテッと音がする。人形が飛ぶ。だが、こん度は四這いの飛行だ。そして彼方の納屋の壁に行って頭を打ッつける。こうして正太は人形を追いかけ、あちらに走りこちらに走り何処でも人形を撲りつけた。何さま永い午後で、しかもお母さんは正太の勇ましい姿を見てくれないのだ。正太は暴れないではいられない。だが、実を云えば、正太ももう人形に飽きた。
「お母さん、何ぞつかあさい。」
お母さんの処へ行って、肩に手をかける。
「何もないのお。」
お母さんは気のぬけた返事だ。と——。
「そうだッ。」
もう、正太はいいことを思いついた。三輪車に乗ろう。そこでこの時足許に転がっていた人形を彼方に蹴《け》り飛ばして走り出した。人形は土の上を滑って、座敷の前で二三度コロコロして、それから手足を拡げて、大の字なりに寝ころんだ。彼はやはり子供らしく、パッチリ眼を開いて、お日様を仰いでいた。正太に撲られたことなど、もうスッカリ忘れていた。自分でも正太の弟だと思っているのかもしれない。「ピリピリッ、公園行き、公園行きでありまあす。」
だが、もうこの時正太はこの声と共に納屋の方から三輪車に乗って現われ出た。座敷の前を通って、椎の樹の下のお母さんを廻って、後ろに三筋の跡をつけて、また納屋の方に帰って来る。これが公園行きの軌道である。三輪車も正太は上手だ。足を繰ることが誠に速い。だが、不幸なことに、人形は公園行きの軌道の上に寝ていた。そしてお日様を眺めて動こうとしなかった。その上に、正太は今は人形の首を轢《ひ》くなど平気の平左に考えていた。それどころか、却《かえ》ってそれが面白い。それだけでさえ、彼の足はペタルの上を躍るように踏みつける。では仕方がない。車輪は嫌でも人形の首の上に上らなければなるまい。ギッチリコ、車輪は首を轢いてしまった。帰りも同じに、ギッチリコ、しかしこん度は足の方だ。車輪はこんなに思っていてもしかし人形の方は楽天家だ。それとも無邪気で痛みを知らないのか。首を縮めようともしないで円い眼をパッチリ開けて、やって来る車輪をほほ笑みかけて迎えている。それどころか、おへそを空に向けてボッテリしたその腹を車輪の過ぎるに任せていた。
「ピリピリッ、停車場行き停車場行きでありまあす」
三輪車は後ろに三筋の跡を引いて庭を目まぐるしく往来する。その度に人形を一度ずつ轢いて行く。人形は何度轢かれてもそのあどけない表情を変えなかったのだけれども、余りに激しい三輪車の往来に、到頭彼も首をダラリと、土の上に垂れてしまった。首と体とを結びつけていた糸が解けたのだ。それから体と足とをつないでいた糸もゆるんで来た。そして人形は遂に敗残者となって疲れて死にかかって、力なく土の上に自分の身体を投げ棄てていた。
何十回となく公園行き停車場行きを繰返した正太に、また午後の日が永くなった。そこで三輪車を椎の樹の下に乗りつける。
「お母さん、お父さんはまだかな。」
「まだまだ。」
「それでも善さんは帰ったぞな。」
「善さんは生徒じぁもの。」
「先生の方が遅いんかな。」
「そうとも。」
「フウ——ン。」
仕方がない。午後が永いから、こん度は三輪車は最大急行だ。無茶苦茶乗りだ。
「ピ——ピ——ッ、ピ——ピ——ッ。」
だが、この最大急行も二三回で直ぐ椎の樹の下に停車する。
「お母さん、もう何ぞ貰うても宜《よ》かろうがな。」
「————」
「なあ、お母さんッ。」
「そうじぁなあ。」
「お母さん。」
「そうじぁなあ。」
仕方がない。正太はまた最大急行だ。
「ピ——ピ——ッ、ピ——ピ——ッ。」
二三回でまた椎の樹の下の停車。
「お母さんッ。」
「————」
「何ぞッ。」
「へいへい。」
「早くッ。」
「よしよし。」
——これでもききめのないのを知ると、正太はヒドク考え込んで、三輪車を下りて、人形を拾いあげた。そして、縁側に腰をかけて、静かに人形を弄《いじ》くり廻した。垂れ下った頭をくっ付けてみたり、二本の足をプラプラ振らせてみたり、それからまみれている土を叩いたり吹いたり、自分の着物にこすり付けてみたり。その末糸のついた針をもって来て、首と足とを縫いつけにかかった。もとより正太に縫えよう筈がなかった。縫えないのが解ると、また大きな声をあげた。今度は少し悲しみと怒りの混った声を。
「お母さんッ。」
ビスケットの皿に向って、口をモグモグしながら正太は腹這いになっていた。
「あのなあ、お母さん。」
正太は足をバタンバタンと打っている。
「あのなあ、お母さん。」
正太はビスケットを一杯口に頬ばったままこん度は仰向《あおむ》けになって、側のお母さんに話しかける。その方がお母さんの顔がよく見える。
「人形でも死ぬるんかな。」
「まあまあ。」
お母さんは側にあった人形をとりあげた。
「可哀そうに、どうしたんなら。」
こう云われると、正太は背中を土にすりつける犬のように、上にあげた両足を両方の手で掴《つか》んで、畳の上をゴロゴロと転び始めた。
「のう、どうしたんなら、正太。」
「ウウン——。」
正太はニヤニヤして唯だころげていた。
「せえでも縫いつける気じぁったんじぁのお。」
お母さんはさしてある針を使って、首と足とを縫いつけた。
「さあ、忙しい。」
お母さんは手拭を冠る。エプロンをつける。そして椎の樹の方に立って行く。
「人形をねかそうッ。」
正太もこう云って立上る。座蒲団《ざぶとん》を二枚持って来て、一枚を敷かせ、一枚をかける。
「ねとれえよ。」
正太は仰向けにねかせた人形を覗《のぞ》いて、こう云ってきかす。もとより人形はおとなしくねている。可愛らしい眼をして、天井を見上げている。
「お母さん、人形をねさした。」
「そうかな。」
正太はお父さんの机の上から一輪ざしの草花をもって来る。机の抽斗《ひきだし》から検温器を出して来る。それから残ったビスケットも一緒に、人形の枕もとを飾ってやる。側に正太も横になる。
「お母さん、人形は熱があるぞな。」
「そうか、よしよし。」
だが、正太は横になってみると俄かに眠くなった。そこでいつもお母さんの懐ろに顔を埋めるように、人形の蒲団に顔を押しつけた。すると何となく人形が可愛ゆくなって片手を人形の上に載せかけた。それで今迄そぐわなかった気持が安らかになって、正太は直ぐスヤスヤと眠りに入った。
「あのなあ、お母さん。」
正太は足をバタンバタンと打っている。
「あのなあ、お母さん。」
正太はビスケットを一杯口に頬ばったままこん度は仰向《あおむ》けになって、側のお母さんに話しかける。その方がお母さんの顔がよく見える。
「人形でも死ぬるんかな。」
「まあまあ。」
お母さんは側にあった人形をとりあげた。
「可哀そうに、どうしたんなら。」
こう云われると、正太は背中を土にすりつける犬のように、上にあげた両足を両方の手で掴《つか》んで、畳の上をゴロゴロと転び始めた。
「のう、どうしたんなら、正太。」
「ウウン——。」
正太はニヤニヤして唯だころげていた。
「せえでも縫いつける気じぁったんじぁのお。」
お母さんはさしてある針を使って、首と足とを縫いつけた。
「さあ、忙しい。」
お母さんは手拭を冠る。エプロンをつける。そして椎の樹の方に立って行く。
「人形をねかそうッ。」
正太もこう云って立上る。座蒲団《ざぶとん》を二枚持って来て、一枚を敷かせ、一枚をかける。
「ねとれえよ。」
正太は仰向けにねかせた人形を覗《のぞ》いて、こう云ってきかす。もとより人形はおとなしくねている。可愛らしい眼をして、天井を見上げている。
「お母さん、人形をねさした。」
「そうかな。」
正太はお父さんの机の上から一輪ざしの草花をもって来る。机の抽斗《ひきだし》から検温器を出して来る。それから残ったビスケットも一緒に、人形の枕もとを飾ってやる。側に正太も横になる。
「お母さん、人形は熱があるぞな。」
「そうか、よしよし。」
だが、正太は横になってみると俄かに眠くなった。そこでいつもお母さんの懐ろに顔を埋めるように、人形の蒲団に顔を押しつけた。すると何となく人形が可愛ゆくなって片手を人形の上に載せかけた。それで今迄そぐわなかった気持が安らかになって、正太は直ぐスヤスヤと眠りに入った。
正太が眼がさめた時にはいつの間にか傾いた日ざしが椎の樹の幹を黄金色に染めていた。樹はまた黒い影を長々と地上に引いていた。お母さんの姿は庭には見えなかった。台所の方でコトコト音がしていた。
畳の上にボンヤリ坐っていた正太はフト眼を移すと、押入れのフスマの陰から、如何《いか》にもイタズラものらしく、少し顔を覗けている蒲団の端に気がついた。自然に正太の口の辺に微笑が浮んだ。次第にそれが大きくなった。
「フフフフフフ隠れてやろう。」
お母さんが、寝ていた正太がいつの間にかいなくなったとビックリするだろう。そこで、四辺《あたり》を見廻した末、ソット押入れのフスマを開ける。開ける内にも度々《たびたび》振返る。振返る度に笑いが次第にこみあげる。
フフフフ、フフフフ
さて身体を屈《かが》めて頭から——だが自然に正太の首が縮む。尻がまだ押入れの外にあるのに、彼はまた振返らないではいられない。フスマをしめにかかっても、また首を突き出して、四辺を見廻さないではいられない。何と嬉しいことだろう。だって、お母さんは知らないんだ。フスマがしまる。中が暗くなる。フフフフ、クククク笑いがグットこみ上げる。堪えても堪えても、フフフフ、クククク、中の蒲団に腰をかけ自分で自分の口に手をあて身体をゆすって、正太は笑いつづけた。はては蒲団の上に顔を埋め、蒲団の間にもぐり込み、足をバタバタやって笑いつづけた。終《しま》いにはとうとう堪えきれなくなって、フスマをサッと開け放し、外に飛び出て大声をあげた。
ハハハハハ、ハハハハハ
身体を折り曲げ折り曲げ笑いつづけた。
「お母さん、お母さん。」
それから正太はお母さんの処に出かけた。
「お母さん、正太は何処に居った。寐《ね》とったか?」
「そうじぁのお。」
「云うてみられえ。」
「何処じぁろう。」
お母さんは首を傾けた。が、そうされてみると、またしても吹き出して来る正太の笑い、喜び。
「押入れじゃあないんぞな。」
「そうか。——けえど、押入れのようじぁなあ。」
「押入れじゃあないんじぁて。お母さんッ。」
「押入れのようじぁなあ。」
「押入れじゃあない云うたら! お母さんッ。」
「押入れ押入れ。」
お母さんに顔を指ざされて、正太は遂に吹出してしまった。
「ハハハハハ ハハハハハ。」
「そうら、押入れじぁろうが。」
「ハハハハハ ハハハハハ。お母さん、正太が隠れたのが、どうして解ったらな。え! どうして解ったらな。」
「それは解るぞ。」
「どうしてな。」
「せえでも、正太は笑おうがな。笑うたら、お母さんには直ぐ判る。」
「それではこん度は笑わんぞな。隠れるからあててみられ。ええかな、隠れるぞな。」
もう正太は駈け出した。こんなにお母さんに遊んで貰えるのだ。正太は駈け出さないではいられない。
座敷まで来ると、正太はもうぬき足さし足、四辺《あたり》をしきりに振返る。が、もう何かが彼の心をくすぐり始めた。クックックックッ、どうもおかしくて堪らない。そこで手取り早く、そこに吊《つる》してあるお父さんの着物の中に隠れる。隠れたものの、堪えれば堪える程、こみあげて来る笑い、喜び。とうとう正太は畳の上に頭を下にさげて行き、終《つい》にゴロリと転んでしまう。おかしくて、とても立っていられない。下に転ぶと、足をピンピン跳ねあげた。それからポンと跳ね起きて、ア——ア、ア——アと、大きな吐息をつき、笑いを殺して、またお母さんの台所へ。
「お母さん、正太は何処に隠れとった。」
「そうじゃあなあ。」
お母さんはこう云ってニコニコして、正太の顔をじっと見る。見られると、正太は笑わないではいられない。
「何処! 早う云われい。」
お母さんの袖をとる。
「そうじゃあなあ。」
また、お母さんは正太の顔を見る。見た上に覗き込む。
「ハハハハハ お母さんはいかん。正太の顔を見るんじゃあもの。」
「でも、見にゃ解らんが。」
「見ずに、見ずにあててみられい。」
「よしよし、それじゃあ、ええっと、座敷の方と——。」
「あ、見とる見とる、横目で見とる。ハハハハ。」
「見りゃせんぞ。ええと、座敷は何処かな。顔を見ると解るんじぁがなあ。ええとええと。」
「ハハハハハ 着物の処じゃあないぞな。」
「解った解った。着物ではないと、そうすると、床の間かな。」
「ハハハハ 床でもないぞ。床でもないぞ。」
正太は歌のようにはやし出した。身体をゆすって、手を叩いて。
「床の間でもないと、それじゃあ、——着物ッ。」
他を向いて考えていたお母さんが、こう云うと、振向いて正太の顔の前に顔を突き出した。
「ハハハハハ ハハハハハ。」
正太は笑いこけた。
「お母さん、どうして解るん? ええ、どうして。」
「そりゃ解るとも、お母さんにゃ、正太が何処に隠れても解る。」
「面白いなあ——。」
正太はもう心から面白くなった。
「それじゃあ、お母さん、隠れるぞなッ。」
もう正太は駈出した。クックックックッ、何か解らないものにくすぐられ、解らないものに追いたてられ、彼は座敷を駈け、茶の間を走り、床の間の隅に身体を縮め、縁側の端に笑いを忍んだ。が、とうとう彼はそこにも忍びきれなくて、玄関から下駄をつッかけて外に走り出た。
「正太、正太。」
度をはずれたこの騒ぎように、お母さんは一寸困って、台所から正太を呼び立てた。が、こう呼ばれてみると、何と正太の嬉しいことだろう。クックッ、クックッと正太はこの声に追い立てられるように駈けつづけた。あわてたり、狼狽《うろた》えたりして、庭を駈ける正太に、この時塀にたてかけた一つの梯子《はしご》が目についた。正太はそれに手をかける。と、この時また、
「正太、正太。」
と、お母さんの声。正太は考える暇もなく、あわてて梯子に駈けのぼる。クックッ、クックッ、と笑いを堪えて、綱渡りのように塀の上を伝うて行く。
「正太ッ、正太ッ。」
お母さんには正太の声の遠くなったのが気懸りで、台所でしきりにまたこう呼び立てる。だが、呼び立てられれば呼び立てられる程、正太は狼狽えないではいられない。さて塀に上ったものの、見れば正太には隠れる処がない。ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと、正太は両手を拡げて危なかしく塀の上を伝っているのに。やっと、正太が塀の上に延びている椎の樹の枝にたどりついた時、玄関の方に出て来るらしいお母さんの跫音《あしおと》が聞えて来た。これではいけない。正太は椎の枝にとりすがって、その上に登りつく。そして玄関の方を振向いてみる。あ、お母さんはそこに出て、庭をキョロキョロ眺めている。これはいけない。また上の枝にすがりつく。そして上に登りつく。
「正太——。」
お母さんが呼ぶ。また正太はおかしくなる。嬉しさと、笑いとがこみあげて来る。そこでまた一登り。
「正太、何処に居るんなら?」
「クックッ クックッ。」
「まあ、正太ッ。」
お母さんはビックリして、樹の下に駈けて来る。
「正太ッ危ないッ。」
正太もビックリした。お母さんのこの声に。だが、正太の嬉しさは消えない。それどころか、正太は今は得意にさえなって来たのだ。そこでまたクックックックッと、上の枝に登って行く。
「正太ッ、正太ッ。」
お母さんはもう顔色を変えて、樹の下で身体を折り曲げ折り曲げ、小さいながら声に必死の力をこめて呼び立てた。だが、呼べば呼ぶ程、正太は上に登って行って、終いには高い椎の樹の頂、葉に隠れて見えない処、空の上の方の飛ぶ雲に近いような処に登ってしまった。そして、そこからクックッと笑い声だけが聞えた。お母さんは樹の周囲をあちらに行き、こちらに行き、正太を見ようとグルグル廻り、背延びをし爪立ちをして、上を仰いだ。
畳の上にボンヤリ坐っていた正太はフト眼を移すと、押入れのフスマの陰から、如何《いか》にもイタズラものらしく、少し顔を覗けている蒲団の端に気がついた。自然に正太の口の辺に微笑が浮んだ。次第にそれが大きくなった。
「フフフフフフ隠れてやろう。」
お母さんが、寝ていた正太がいつの間にかいなくなったとビックリするだろう。そこで、四辺《あたり》を見廻した末、ソット押入れのフスマを開ける。開ける内にも度々《たびたび》振返る。振返る度に笑いが次第にこみあげる。
フフフフ、フフフフ
さて身体を屈《かが》めて頭から——だが自然に正太の首が縮む。尻がまだ押入れの外にあるのに、彼はまた振返らないではいられない。フスマをしめにかかっても、また首を突き出して、四辺を見廻さないではいられない。何と嬉しいことだろう。だって、お母さんは知らないんだ。フスマがしまる。中が暗くなる。フフフフ、クククク笑いがグットこみ上げる。堪えても堪えても、フフフフ、クククク、中の蒲団に腰をかけ自分で自分の口に手をあて身体をゆすって、正太は笑いつづけた。はては蒲団の上に顔を埋め、蒲団の間にもぐり込み、足をバタバタやって笑いつづけた。終《しま》いにはとうとう堪えきれなくなって、フスマをサッと開け放し、外に飛び出て大声をあげた。
ハハハハハ、ハハハハハ
身体を折り曲げ折り曲げ笑いつづけた。
「お母さん、お母さん。」
それから正太はお母さんの処に出かけた。
「お母さん、正太は何処に居った。寐《ね》とったか?」
「そうじぁのお。」
「云うてみられえ。」
「何処じぁろう。」
お母さんは首を傾けた。が、そうされてみると、またしても吹き出して来る正太の笑い、喜び。
「押入れじゃあないんぞな。」
「そうか。——けえど、押入れのようじぁなあ。」
「押入れじゃあないんじぁて。お母さんッ。」
「押入れのようじぁなあ。」
「押入れじゃあない云うたら! お母さんッ。」
「押入れ押入れ。」
お母さんに顔を指ざされて、正太は遂に吹出してしまった。
「ハハハハハ ハハハハハ。」
「そうら、押入れじぁろうが。」
「ハハハハハ ハハハハハ。お母さん、正太が隠れたのが、どうして解ったらな。え! どうして解ったらな。」
「それは解るぞ。」
「どうしてな。」
「せえでも、正太は笑おうがな。笑うたら、お母さんには直ぐ判る。」
「それではこん度は笑わんぞな。隠れるからあててみられ。ええかな、隠れるぞな。」
もう正太は駈け出した。こんなにお母さんに遊んで貰えるのだ。正太は駈け出さないではいられない。
座敷まで来ると、正太はもうぬき足さし足、四辺《あたり》をしきりに振返る。が、もう何かが彼の心をくすぐり始めた。クックックックッ、どうもおかしくて堪らない。そこで手取り早く、そこに吊《つる》してあるお父さんの着物の中に隠れる。隠れたものの、堪えれば堪える程、こみあげて来る笑い、喜び。とうとう正太は畳の上に頭を下にさげて行き、終《つい》にゴロリと転んでしまう。おかしくて、とても立っていられない。下に転ぶと、足をピンピン跳ねあげた。それからポンと跳ね起きて、ア——ア、ア——アと、大きな吐息をつき、笑いを殺して、またお母さんの台所へ。
「お母さん、正太は何処に隠れとった。」
「そうじゃあなあ。」
お母さんはこう云ってニコニコして、正太の顔をじっと見る。見られると、正太は笑わないではいられない。
「何処! 早う云われい。」
お母さんの袖をとる。
「そうじゃあなあ。」
また、お母さんは正太の顔を見る。見た上に覗き込む。
「ハハハハハ お母さんはいかん。正太の顔を見るんじゃあもの。」
「でも、見にゃ解らんが。」
「見ずに、見ずにあててみられい。」
「よしよし、それじゃあ、ええっと、座敷の方と——。」
「あ、見とる見とる、横目で見とる。ハハハハ。」
「見りゃせんぞ。ええと、座敷は何処かな。顔を見ると解るんじぁがなあ。ええとええと。」
「ハハハハハ 着物の処じゃあないぞな。」
「解った解った。着物ではないと、そうすると、床の間かな。」
「ハハハハ 床でもないぞ。床でもないぞ。」
正太は歌のようにはやし出した。身体をゆすって、手を叩いて。
「床の間でもないと、それじゃあ、——着物ッ。」
他を向いて考えていたお母さんが、こう云うと、振向いて正太の顔の前に顔を突き出した。
「ハハハハハ ハハハハハ。」
正太は笑いこけた。
「お母さん、どうして解るん? ええ、どうして。」
「そりゃ解るとも、お母さんにゃ、正太が何処に隠れても解る。」
「面白いなあ——。」
正太はもう心から面白くなった。
「それじゃあ、お母さん、隠れるぞなッ。」
もう正太は駈出した。クックックックッ、何か解らないものにくすぐられ、解らないものに追いたてられ、彼は座敷を駈け、茶の間を走り、床の間の隅に身体を縮め、縁側の端に笑いを忍んだ。が、とうとう彼はそこにも忍びきれなくて、玄関から下駄をつッかけて外に走り出た。
「正太、正太。」
度をはずれたこの騒ぎように、お母さんは一寸困って、台所から正太を呼び立てた。が、こう呼ばれてみると、何と正太の嬉しいことだろう。クックッ、クックッと正太はこの声に追い立てられるように駈けつづけた。あわてたり、狼狽《うろた》えたりして、庭を駈ける正太に、この時塀にたてかけた一つの梯子《はしご》が目についた。正太はそれに手をかける。と、この時また、
「正太、正太。」
と、お母さんの声。正太は考える暇もなく、あわてて梯子に駈けのぼる。クックッ、クックッ、と笑いを堪えて、綱渡りのように塀の上を伝うて行く。
「正太ッ、正太ッ。」
お母さんには正太の声の遠くなったのが気懸りで、台所でしきりにまたこう呼び立てる。だが、呼び立てられれば呼び立てられる程、正太は狼狽えないではいられない。さて塀に上ったものの、見れば正太には隠れる処がない。ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと、正太は両手を拡げて危なかしく塀の上を伝っているのに。やっと、正太が塀の上に延びている椎の樹の枝にたどりついた時、玄関の方に出て来るらしいお母さんの跫音《あしおと》が聞えて来た。これではいけない。正太は椎の枝にとりすがって、その上に登りつく。そして玄関の方を振向いてみる。あ、お母さんはそこに出て、庭をキョロキョロ眺めている。これはいけない。また上の枝にすがりつく。そして上に登りつく。
「正太——。」
お母さんが呼ぶ。また正太はおかしくなる。嬉しさと、笑いとがこみあげて来る。そこでまた一登り。
「正太、何処に居るんなら?」
「クックッ クックッ。」
「まあ、正太ッ。」
お母さんはビックリして、樹の下に駈けて来る。
「正太ッ危ないッ。」
正太もビックリした。お母さんのこの声に。だが、正太の嬉しさは消えない。それどころか、正太は今は得意にさえなって来たのだ。そこでまたクックックックッと、上の枝に登って行く。
「正太ッ、正太ッ。」
お母さんはもう顔色を変えて、樹の下で身体を折り曲げ折り曲げ、小さいながら声に必死の力をこめて呼び立てた。だが、呼べば呼ぶ程、正太は上に登って行って、終いには高い椎の樹の頂、葉に隠れて見えない処、空の上の方の飛ぶ雲に近いような処に登ってしまった。そして、そこからクックッと笑い声だけが聞えた。お母さんは樹の周囲をあちらに行き、こちらに行き、正太を見ようとグルグル廻り、背延びをし爪立ちをして、上を仰いだ。
冬の初め、空がカラリと晴れて、木枯しがその空を渡っていた。正太のお母さんは座敷の前で洗濯をしていた。盥の中のお母さんの手もとでは白いシャボンの泡が冬の日光の中を四方に飛び散っていた。正太の声はもう聞かれなかった。椎の樹の影も庭にさしていなかった。正太が椎の樹から落ちて、生命《いのち》をおとしたので、椎の樹は切り倒されてしまった。だが、庭には柿の樹が残っていた。葉が落ち尽して、黒々とした骨々しいその枝を空際にさし上げている柿の樹だけが。しかしその枝には一つの金輪が懸っていた。正太が夏の初め得意になって上に投げあげたあの金輪だ。葉が落ちたので、その金輪が空際に円《まる》い円をなして懸っていた。その円を通して、彼方の空の見えることは、正太のお母さんには淋しかった。でもその金輪が正太が自分でそこに懸けた金輪がそこに懸っていることは、正太のお母さんの慰めであった。そこにもまだ正太の生活が残っていたから、あのイタズラものの正太の生活が。
風が吹く度にチャリチャリチャリチャリと、金輪の鳴り輪がすれ合って音を立てた。その度にお母さんは金輪の方を振返った。金輪が落ちはしないかと心配になったからである。時には夜ふけて、その音が聞えて来た。お母さんは床の中でどんなに淋しい気持になったことだろう。金輪をもう落してしまおうかと思った位である。時には鴉《からす》がその枝に来て、大きな嘴《くちばし》で金輪をコツコツつついていた。それどころでなく時にはその鴉は金輪の中に入ってとまっていた。これを見ると、お母さんは狼狽えた。
「シッ シッ。」
と、手をあげて追い立てた。金輪が落ちたらどうしよう。正太のものとては、たった一つ残ったそれである。だから、落しては正太にすまない、正太が可哀相だ。
それにしても、今日は風が強い。空が晴れているのに、何処からかドッと木枯しが吹き寄せる。その度にチャリチャリと鳴り輪がきしる。またその度にお母さんはその方を向かなければならない。
正太は金輪が上手で村のどんな小道であろうと、駈けて行くその小さな姿の見られない処はなかったのだが、お母さんは洗濯をしていると、村の小道を何処か正太が金輪を廻して駈けているように思えてならなかった。
その時、チャリ——ンという音を聞いて、お母さんはサッと立上った。金輪が跳ねている。大きく、そして小さく小さく、それから地上をくるりと廻って、お母さんの側でハタリと横に倒れてしまった。
どうしたんだ?
お母さんは初め金輪が枝から飛び下りたのかと思った。いや! ドッと大きな木枯しが吹いたのだ。お母さんは足もとの金輪をじっと見下ろした。何とその錆《さ》びたことだろう。一面に真赤に錆がついていた。空にある頃はそれは唯だ黒くだけ見えていたのだが。
「そうじぁなあ。あれからもう半年になるんじぁもの。」
お母さんは暫く立ったまま、指を折って数えてみた。
「錆びる筈じぁ。」
金輪を壁に立てかけて、お母さんはまたお洗濯だ。白い泡が四方に散る。その内フトお母さんは金輪を廻してみる気になって納屋の壁にかけてあった正太の廻し棒をとって来た。そして金輪に棒の先の曲った処をかけて、ソロソロと前に押してみた。チャリチャリと鳴り輪の音がする。だが、二三歩でもう金輪は横に倒れる。また起してやってみる。また二三歩で横に倒れる。お母さんは首を傾けた。
「なる程、正太は金輪は上手だ。」
またお母さんは盥に向った。木枯しが何度も吹き寄せる。木枯しの間々に、お母さんは折々金輪の音を遠くで聞くような気がした。そしてまたしても考えつづけた。
「正太はホントに金輪は上手だ。」
風が吹く度にチャリチャリチャリチャリと、金輪の鳴り輪がすれ合って音を立てた。その度にお母さんは金輪の方を振返った。金輪が落ちはしないかと心配になったからである。時には夜ふけて、その音が聞えて来た。お母さんは床の中でどんなに淋しい気持になったことだろう。金輪をもう落してしまおうかと思った位である。時には鴉《からす》がその枝に来て、大きな嘴《くちばし》で金輪をコツコツつついていた。それどころでなく時にはその鴉は金輪の中に入ってとまっていた。これを見ると、お母さんは狼狽えた。
「シッ シッ。」
と、手をあげて追い立てた。金輪が落ちたらどうしよう。正太のものとては、たった一つ残ったそれである。だから、落しては正太にすまない、正太が可哀相だ。
それにしても、今日は風が強い。空が晴れているのに、何処からかドッと木枯しが吹き寄せる。その度にチャリチャリと鳴り輪がきしる。またその度にお母さんはその方を向かなければならない。
正太は金輪が上手で村のどんな小道であろうと、駈けて行くその小さな姿の見られない処はなかったのだが、お母さんは洗濯をしていると、村の小道を何処か正太が金輪を廻して駈けているように思えてならなかった。
その時、チャリ——ンという音を聞いて、お母さんはサッと立上った。金輪が跳ねている。大きく、そして小さく小さく、それから地上をくるりと廻って、お母さんの側でハタリと横に倒れてしまった。
どうしたんだ?
お母さんは初め金輪が枝から飛び下りたのかと思った。いや! ドッと大きな木枯しが吹いたのだ。お母さんは足もとの金輪をじっと見下ろした。何とその錆《さ》びたことだろう。一面に真赤に錆がついていた。空にある頃はそれは唯だ黒くだけ見えていたのだが。
「そうじぁなあ。あれからもう半年になるんじぁもの。」
お母さんは暫く立ったまま、指を折って数えてみた。
「錆びる筈じぁ。」
金輪を壁に立てかけて、お母さんはまたお洗濯だ。白い泡が四方に散る。その内フトお母さんは金輪を廻してみる気になって納屋の壁にかけてあった正太の廻し棒をとって来た。そして金輪に棒の先の曲った処をかけて、ソロソロと前に押してみた。チャリチャリと鳴り輪の音がする。だが、二三歩でもう金輪は横に倒れる。また起してやってみる。また二三歩で横に倒れる。お母さんは首を傾けた。
「なる程、正太は金輪は上手だ。」
またお母さんは盥に向った。木枯しが何度も吹き寄せる。木枯しの間々に、お母さんは折々金輪の音を遠くで聞くような気がした。そしてまたしても考えつづけた。
「正太はホントに金輪は上手だ。」