明治のつい前までは、方々に、まだ天狗《てんぐ》や河童《かつぱ》というものがおりました。野原では、狐の嫁入りなんかも見られました。だからそのころは、面白い話がたくさんありました。でも、私は今そんな話をするのではありません。その頃小川の岸に生えていた一むらのあしの話をいたしましょう。
岡山に近く、草深い野原の中に、小さい村がありました。村のかたわらを一すじの川が流れておりました。その岸に一むらの|あし《ヽヽ》が、二十坪くらい、そばのたんぼの方へかけて、まんまるく生え茂っていました。白い茎の上に、穂をまるで小旗のようにおし立てて、いつも一ように風に吹かれておりました。
他の|あし《ヽヽ》はみなきれいに刈り取られるのに、ここの|あし《ヽヽ》ばかりは、誰一人鎌を入れるものがありません。またたんぼの二十坪といえば、そこからは二斗近いお米がとれるのでしたが、お百姓はそこに稲を植えるのでもありませんでした。これは一体どうしたことでしょう。それがこの話です。
その頃から何十年という昔のこと、刀を二本も腰にさした武士が道を歩いていた頃のことでした。この村に庄屋甚七というおじいさんがいました。このおじいさんには、太一という孫がありました。太一はお父さんもお母さんもない子供でした。
ある日のこと、太一は村の子供を集めて、土蔵のそばでネッキをして遊んでいました。ネッキというのは、一尺くらいの棒の先をとがらせ、それを地にかいた輪の中に投げつけて、そこに突立っている相手の棒を倒し、そして自分の棒を突き立てるという遊びであります。だが、一時間もそうやっていると、いつでも、棒が倒れたの倒れないのという言い合いが持ち上って来るのでした。そしてその次が「負けたろう。」「負けるかい。」という喧嘩《けんか》になり、そのすえがなぐり合いになって、どっちかがアーンアーンでおしまいになるのでした。
今日もちょうど、そのなぐり合いのところまで来たときのことでした。
「やッ、ありゃ何なら? ヒョンなものがあるぜ、ヒョンな。」
ふざけものの佐平が、こんなことを言うので、みんな喧嘩など忘れて、佐平の指さす方をながめました。納屋ののき下に、みの笠に頬かむりという七つ八つのかがしが、みんな弓をもって、ずらりとならべてありました。
「はッはははははは。」
みんなはもう腹をかかえて笑いました。
「おい、ええことをして遊ばんか。」
佐平がすぐ言い出しました。
「あのかがしをのう、一つ土蔵の前に立てるんじぁ。それからあの弓をとって、みんなで、こちらからねらって射るんじぁ。一番あてたものが、あの柿をとるんじぁ。」
佐平が見上げたところには、柿が鈴なりにぶら下っておりました。
「うんうんうん。」
みんながうなずいて、にこにこしました。さっそく立てられた一つのかがしに向って、こちらは一列になって弓をかまえました。みんな色々にしてねらいをさだめました。ぴょんぴょんと矢が飛びました。しかし何分弓も矢も同じような丸竹で、その上|弦《つる》が太い縄ですから、三四間のところでも矢がとどきません。
「だめじゃあ、この矢は。ええ矢はないんか。」
実は、ええ矢は納屋の中にありました。あしすだれにするあしがたくさん束にして、積んでありました。
「おい、太一さん、あれを取って来い。」
「うーん、あれはおじいさんに叱られらあ。」
「ええが、十本や二十本、わかるもんか。」
それでも太一がぐずぐずしていますと、
「叱られたら、なんぼでも、たんぼから取って来て返したらあ。」
みんなにこんなことを言われて、不承不承に太一は納屋のあしを一束とって来ました。弦には、太い凧糸《たこいと》を持ち出しました。それから盛んな弓合戦がはじまりました。矢がまるで秋の田を飛ぶ|いなご《ヽヽヽ》のように、かがしに向って飛びました。
「那須の与一でござる。」というものもあれば、
「三十三間堂の通し矢でござる。」と、おかしな身ぶりをして、矢つぎ早に射るものもありました。見る間に一束のあしはうちつくして、かがしの|みの《ヽヽ》や笠にたくさんの矢が突き立ちました。下に乱れてかさなり合ったあしは、どんなにはげしい戦争があったんだろうかと思われるようでありました。だから、子供等もしばらく、
「はげしかったのう。」と感心してながめたくらいでした。が、すぐ、
「もう一ぺんやろうえい。」と佐平が、また言い出しました。
「やろうやろう。」
みんなは思うつぼだったのです。けれども、太一だけはむつかしい顔をして、そんな話は耳に入らないらしく、一心に弓をひくまねをしておりました。おじいさんに叱られることが、にわかに心配になり出したのです。そのとき、みんながあまりげらげら笑うので、ふと納屋の方を見ますと、いたずらものの佐平が抜足|指足《さしあし》で、納屋の戸口をうかがっています。どろぼうのまねをして、あしをねらっているところです。思わず太一もにっこりしました。するとこのとき、
「こりゃッ。」という大きな声が、みんなのうしろでいたしました。とびあがるように、びっくりして後ろを向くと、おじいさんの庄屋甚七が、一本の刀をさして大口をあけて、どなり立てておりました。
「おのれは、おのれは、何をしくさるんじゃあ。大事なあしをむだにしやがって。みんなでもと通り刈ってくるならよし。来ぬのなら、一本残らずみんなの手を引き抜くぞ。」
みんな真青になってしまいました。一番大きい善六が、それでもふるえ声で、やっとこう|ことわり《ヽヽヽヽ》をいたしました。
「刈って来ますから、こらえてつかあさい。」
「うん、早く刈って来い。」
そこで、みんなは、ぞろぞろ太一の家を出ましたが、少し行くと、善六は腹を立てて言いました。
「佐平があんなことをしようというからじゃ。」
「わしが言うか。|あし《ヽヽ》を矢にしたのはお前じゃないか。」
二人のなすくり合いがはじまりました。それについて、ほかのものも、佐平だ、善六だと、言い合いました。すると佐平が腹を立てて、
「そんなに言うのなら、わしゃもうあしを刈らん。」と言いだしました。すると、こんどは善六が、
「佐平が刈らんのなら、わしも刈らん。」と言い出しました。
それにつづいて、わしも、わしもと、誰一人刈るものがなくなりました。だが、太一一人はどうしたらいいのでしょう。刈らないで家に帰れば、おじいさんに手をぬかれます。
「のう、刈っておくれよ。」
そこで、みんなにたのんでみました。
「それでも、みんな刈らんのじゃもの。」
みんなが、そんなことを言って、そろそろと後すさりをして、少し離れると、くるりと後ろに向き、それなりばたばたッと駆けて行ってしまいました。そこで太一は一人ぼろぼろと涙を流し流し、風の吹くたんぼ道を、あしをさがして行きました。
さてその晩のこと、太一はいつまでたっても帰りません。村中大さわぎになって、狐に化かされたんだろうというので、太鼓を鳴らしてさがしに出ました。
「返せい、もどせい、あずき餅を三つやろう——。」
と大きな声をして呼びまわりました。けれども、どうしても太一は出て来ません。
翌日の朝になって、やっと、川のふちのあしの中で、小さい下駄の片方だけが見つかりました。では太一は狐に化かされたのでしょうか。河童にとられたのでしょうか。いいえ、その川の川下の方に、一束のあしをかたく握りしめて、あしの根もとに流れついておりました。
これを知ったおじいさんは、どんなに太一をかあいそうに思ったことでしょう。すぐその下駄の落ちていたあしのところのたんぼを買いとって、そのあしを大切にいたしました。茂り放題に茂らせて決して鎌を入れなかったのです。
やがてそれは、村一番のいいあしになって、みんなに太一のあし場と言われました。それから永い年月がたって、そのたんぼは何度も持主がかわりましたけれども、みな|あし《ヽヽ》を大切にして、たんぼの方へ茂るままにいたしました。それなら、今はもう|あし《ヽヽ》の大きな原っぱが出来ていることでしょう。が、それが、そういかなかったのです。山に天狗がいなくなり、野原に狐が出なくなると、世の中が大へん暮しにくいものになりました。
今の人には、もう一坪の土地だってむだに出来なくなったのです。そこでいつの間にか、その太一の|あし《ヽヽ》場もきれいに耕されて、一本の|あし《ヽヽ》も見られなくなってしまいました。それと一しょに、太一の話も一人だって覚えている人がなくなってしまいました。